第34話 旗を取る
近衛騎士団の訓練場は、王宮の北の端にあった。
縦に百メートル、横に六十メートルほどの、踏み固められた土の広場だ。三方を石の壁に囲まれ、左の壁際には、的にする藁束が山のように積み上げてある。
副団長のレオンは三十を少し過ぎたくらいの、背の高い男だった。礼儀正しく、言葉づかいも丁寧で、目だけが笑っていなかった。
「決まりは簡単です。訓練場の奥に、旗を一本立てます。こちらは二十人で、旗を守る。グレイヴ殿は、砂時計ひとつ分のうちに、旗を抜けばよい」
砂時計ひとつ分は、およそ十分だった。
「守る側は、木剣と盾。それと、弓が四人。矢の先は丸めて、白い粉をつけてあります。胴に粉がついたら、その者は負けです。グレイヴ殿に粉がついても、負け」
「分かった」
「……お一人で、よろしいので?」
後ろで若い騎士が、自分も出ると言いたそうな顔をしていた。ロウェンは首を振った。
「一人でいい」
訓練場の周りには、見物人が集まり始めていた。非番の騎士たち、王宮の下働き、どこから聞きつけたのか、召喚の場にいた貴族も何人か混じっている。聞こえてくる話は、だいたい同じだった。何人投げ飛ばすか。盾を何枚割るか。骨を折られる騎士が出なければいいが。
見物人の端では、非番の騎士たちが賭けの胴元を立てていた。「倒される騎士の数」に、七人から十二人のあたりへ銀貨が集まっている。「零人」の札は、誰も買っていなかった。
若い騎士が、ロウェンの横で小声で言った。
「若様。本当にお一人で大丈夫ですか。近衛の騎士は、うちの隊とは訓練の量が違います」
「だから、ぶつからない」
「……ぶつからない、ですか」
若い騎士は首をかしげたまま、その意味を問うことはなかった。グレイヴの騎士隊で、ロウェンの「よく分からない」段取りに付き合ってきた一年が、そうさせているらしかった。
フィオナが、ロウェンの外套の襟を直しに来た。直す必要のない襟だった。
「怪我させないでね」
「俺が、か」
「相手に」
真顔で言われた。
◇ ◇ ◇
旗の前に、騎士たちが陣を組んだ。
盾を並べた壁が三列。いちばん前の列が十人、二列目が四人、三列目が二人。弓の四人は、訓練場の両側に据えた木の台の上に、二人ずつ立っている。台の高さは二メートルほど。上から撃ち下ろせば、広場のどこにいても狙える配置だった。
正面からぶつかれば、盾の壁を押し崩すことはできるだろう。押し崩しているうちに、両側の台から矢が飛んでくる。十六人を順番に倒していけば、砂時計はとっくに落ちきる。
ロウェンは、陣を見ながら、要らないものを一つずつ消していった。
騎士を倒す必要はない。旗を抜けばいい。盾の壁を崩す必要もない。回り込めばいい。四人の弓も、全部を避ける必要はない。狙える者だけを避ければいい。
左の壁際を見た。
左の台の弓は、真下の壁際を撃てない。台が壁から少し離れていて、真下を狙うには身を乗り出さなければならないからだ。右の台の弓は、壁際まで届くが、その間に盾の壁と二列目の騎士が挟まる。味方の背中越しに、粉のついた矢を撃ち込む弓はいない。
壁際の、幅二メートルほどの細い帯。そこだけ矢が来ない。
そこへ、盾の壁の端の二人と、二列目の何人かが寄ってくるだろう。寄ってきた者は、倒さなければいい。
「始め!」
砂時計が、ひっくり返った。
◇ ◇ ◇
ロウェンは、左の壁際に向かって歩いた。
走らなかった。見物人の間から、戸惑ったようなざわめきが上がった。
壁際に積んであった藁束の山から、いちばん大きな束を一つ抱え上げる。大人が三人がかりで運ぶ的だ。それを右肩に担ぎ上げて、右の台のほうへ向けた。これで、右からの矢は藁に刺さる。
右の台から、一本目の矢が飛んできて、藁束にぽすんと刺さった。二本目も刺さった。三本目は撃たれなかった。
ロウェンは、藁束を担いだまま、壁際を旗のほうへ歩いていった。
盾の壁の左端の騎士が、盾を構えて飛びかかってきた。ロウェンは避けなかった。騎士は、ロウェンの左腕にしがみついた。
ロウェンは、そのまま歩いた。
二人目が腰にしがみついた。三人目が、左脚に。四人目が、背中に飛びついた。
ロウェンは脚に魔力を込めて、そのまま歩いた。
見物人のざわめきが、途中から笑い声に変わった。藁束を担ぎ、騎士を四人ぶら下げて、壁際をのしのしと歩いていく姿がどう見えているのかは、なんとなく分かった。秋の木に、実がなっているみたいだった。
騎士たちは、腕や脚をどうにか止めようと踏ん張っていた。踏ん張るたびに、足が土の上をずるずると引きずられていく。副団長のレオンが、二列目から叫んだ。
「止めろ! 脚だ、脚を狙え!」
見物人の輪の中から、ひときわ高い声が飛んだ。
「ロウェン、落とさないでね! その人たち!」
フィオナだった。見物の騎士たちが、何人か吹き出した。しがみついている騎士の一人がロウェンの腕にぶら下がったまま、「落とすって何だ」と呻いた。ロウェンは、しがみつく騎士たちの足が地面を離れないように、歩く速さを少し落とした。
五人目が、右脚に飛びついた。歩幅が少しだけ狭くなった。
旗まであと十メートル。三列目の二人が、旗の前で盾を構えて待っていた。
ロウェンは、そこで藁束を下ろした。
下ろしたというより、旗の前の二人の上に、そっと置いた。二人は、藁束の下で盾ごとぺたんと座り込んだ。怪我はない。藁が重くて立てないだけだ。
ロウェンは騎士を五人ぶら下げたまま、左手を伸ばして、旗の柄を握った。
抜いた。
砂時計の砂は、まだ三分の二以上残っていた。
◇ ◇ ◇
訓練場が、静かになった。
ロウェンにしがみついていた騎士たちが、一人ずつ、そろそろと手を離して、土の上に尻もちをついた。誰もどこも痛めていなかった。藁束の下から、二人が這い出してきた。
レオンがゆっくりと歩いてきた。旗と、座り込んだ部下たちと、ロウェンの顔を順番に見て、それから言った。
「……一人も倒されていないのに、負けました」
「倒す必要がなかった」
「倒していたら」
「砂時計が、あと二つ要った」
レオンはしばらく黙っていた。それから、初めて目まで笑った。
「来月から、訓練に藁束を増やします」
見物人の端では、賭けの胴元が頭を抱えていた。「零人」の札を買った者は、一人もいなかったからだ。いや、一人だけいた。胴元が帳面をめくると、最後の頁に、丸い字で「零人・銀貨一枚」と書いてあった。
字に、見覚えがあった。
見物人の輪の中から、フィオナが歩いてきた。何か言いたそうで、でも笑いをこらえているのが半分以上表に出ていた。
「……一人も倒さなかったの、わざと?」
「倒すと、あとで謝りに行く相手が増える」
フィオナは、とうとう吹き出した。吹き出したまま、ロウェンの腕を軽く叩いた。さっきまで騎士がしがみついていた、その腕だった。
「そういうとこだよ、ほんとに」
何が「そういうとこ」なのかを訊こうとした時、見物人の輪の外から声がかかった。
「失礼。少し、よろしいかしら」
黒い長衣の女だった。年は三十前後だろうか。長衣の袖から、インクの染みた指がのぞいている。胸に、王宮の魔術師団の徽章をつけていた。
「宮廷魔術師のヴェラと申します。今の、拝見していました。……魔力の流れ方が、どう考えても普通ではない。ぜひ一度、きちんと調べさせていただけませんか」




