第32話 大橋の救助
ロウェンは、馬車の扉を開けて飛び降りた。
橋の上は、もう半分が逃げる人で詰まっていた。両岸へ向かって走る人と、何が起きたのか分からずに立ち止まる人と、荷を捨てられずに荷車を押す人が、ぶつかり合っている。その向こうで、四本目の橋脚の上の路面が傾いていた。
ロウェンは、人の流れに逆らって橋の上を走りながら、見るべきものを順番に見た。
四本目の橋脚は、下流側へわずかに傾いている。根元を水に削られて、踏ん張りが利かなくなったのだ。橋脚の上には、三本目との間の桁と、五本目との間の桁が、端を並べて載っている。橋脚が傾いたせいで、その桁の端が、下流側へずるずると滑り始めていた。
桁が橋脚から外れれば、両側の二つの区間がまとめて川に落ちる。
その二つの区間の上に、まだ人がいた。ざっと三十人。それに、荷馬車が一台。
「フィオナ!」
振り返ると、フィオナはすぐ後ろにいた。馬車から一緒に飛び降りて、ついてきていたのだ。
「三本目から五本目の間の人を、両岸へ出してくれ。荷は捨てさせろ。走らせるな、押し合うと落ちる」
「分かった。ロウェンは」
「桁を止める」
フィオナは一瞬だけロウェンの顔を見た。止めるって何を、とは訊かなかった。
代わりに、手近な荷車の荷台に飛び乗って、両手を大きく振り上げた。
「みんな、こっち見て! 荷物はそこに置いて! 押さないで、歩いて! 子供は抱えて! 大丈夫、まだ落ちないから!」
よく通る声だった。立ち止まっていた人たちが、その声のほうを向いた。若い騎士が、フィオナの言葉を繰り返しながら、人の流れを二つに分けていく。
焼き菓子の盆を頭に載せたまま固まっていた女が、盆を置いて歩き出した。杖をついた老人の両脇を、見ず知らずの男が二人で抱えた。泣いている子供を、知らない女が抱き上げて、青い顔の母親と一緒に岸へ向かう。人の流れが、少しずつ、押し合いから歩みに変わっていった。
ロウェンは、それを背中で聞きながら、四本目の橋脚の手すりに手をかけた。
乗り越える前に、一度だけ振り返った。荷台の上のフィオナと目が合う。フィオナは声を張り上げながら、ロウェンに向かって小さく頷いた。行って、と言われた気がした。こっちは任せて、とも。
ロウェンは、手すりを乗り越えた。
◇ ◇ ◇
橋脚の上は狭かった。
石積みの天辺に、平らな石が帽子のように載っていて、その上に、両側から来た桁の端が乗っている。桁は大人が二人で抱えるほどの太さの樫で、一本ずつ、鉄の帯で石に留めてあった。その鉄の帯が、下流側で三本とも弾け飛んでいた。
桁の端は、石の天辺の縁まで、あと手のひら一枚分のところまで滑ってきていた。
ロウェンは、天辺の下流側の縁に回り込んだ。足場は、橋脚の石積みのわずかな出っ張りしかない。その下は、茶色い水が渦を巻いている。
足を置く前に、石を踏んで確かめた。橋脚は傾いているが、石積みそのものはまだ崩れていない。削られたのは根元で、上のほうの石はまだしっかり噛み合っている。ここなら踏ん張れる。
ロウェンは桁の端に両手と肩を当てた。
魔力を、脚から背中へ流し込む。
押す、というより止める。桁が下流へ滑ろうとする力を、胸と肩で受けて、背中から腰へ、腰から脚へ、脚から足の下の石へと流していく。力の逃げ道は橋脚の石しかない。石が持ちこたえるかぎり、自分も持ちこたえられる。
桁の滑りが止まった。
止まったが、重かった。橋の上の板と、桁と、その上に残っている荷馬車と人の重さが、少しずつ下流側へ寄りかかってくる。肩の三角筋が張りつめ、首の両脇の筋が硬く突っ張った。足の下の石が、ざらりと小さく鳴った。
川の水が橋脚の根元にぶつかる音が聞こえる。ぶつかるたびにほんのわずかずつ、橋脚全体が震えていた。
ロウェンは、頭の中で重さを見積もった。
桁が一本、長さ二十メートルほどの樫で、およそ四トン。それが両側から三本ずつで六本。板と、その上の荷馬車と、まだ残っている人。全部が真下に載っている分は、橋脚が受けている。ロウェンが受けているのは、それが下流側へずり落ちようとする分だけだ。全部の重さに比べれば、ほんの一部にすぎない。
ほんの一部で、これだった。
体を少しだけずらして、足の置き方を変えた。踵ではなく、足の裏全体で石を踏む。膝を伸ばしきらずに、わずかに曲げたまま固める。伸ばしきった膝は、揺れが来た時に逃げ場がない。峠の岩の背でも、洪水の夜の水門でも、同じことを体で覚えた。
◇ ◇ ◇
頭の上から、人の足音が聞こえていた。
足音は、少しずつ減っていった。フィオナの声が、両岸へ遠ざかりながら続いている。「歩いて!」「そう、そのまま!」「おじいちゃん、杖はいいから!」
それから、足音が一つだけになった。
「若様!」
若い騎士の声だった。手すりから身を乗り出して、ロウェンを見下ろしている。
「荷馬車が、動きません! 車輪が板の隙間に挟まって……馬が暴れてて、御者の親子が降りられないんです!」
ロウェンは、桁から手を離せなかった。離せば、桁は滑る。
「馬を外せ。引き綱を切れ。馬は、自分で岸まで走る。親子は、お前が抱えて出ろ」
「は、はい!」
足音が駆けていった。頭の上で、馬がいななき、何かが板の上で激しく跳ねる音がした。引き綱が切れたのだろう。蹄の音が、岸のほうへ遠ざかっていく。
しばらくして、子供の泣き声が聞こえた。泣き声は少しずつ遠ざかっていった。
頭の上の板の隙間から、若い騎士の姿がちらりと見えた。片腕に五つか六つくらいの男の子を抱え、もう片方の腕で、足を引きずる父親の肩を支えている。三人の足音が、板を鳴らしながら岸のほうへ遠ざかっていく。騎士の家には妹が三人いる。子供を抱えるのには、慣れているらしかった。
やがて橋の上から、足音が一つもしなくなった。
代わりに、手すりの上から、フィオナの顔が覗いた。岸まで行ってから、一人で戻ってきたらしい。
「全員、出たよ。三本目から五本目の間には、もう誰もいない。……ロウェン、そっちは」
「止まっている」
「いつまで?」
ロウェンは足の下の石を見て、次に、傾いた橋脚の根元を見た。茶色い水は、休まずに石を削っている。
「橋脚が、今の傾きのままなら、しばらくは。傾きが進めば、俺が止めても、桁ごと落ちる」
フィオナは、ロウェンの肩と、張りつめた腕と、足の下の小さな出っ張りを順番に見た。何か言いかけて、言わなかった。
「……人は、もう全部出たんだよ。ロウェンも、上がってきていいんだよ」
「俺が離せば、桁が落ちる。桁が落ちれば、橋はしばらく使えない。この橋を渡るはずの荷が、全部止まる」
小麦袋亭の食堂で、何十台もの荷馬車の話を聞いてきた。荷が止まれば、町が止まる。この大きさの町なら、なおさらだ。
力でできるのは、ここまでだ。桁が滑るのを止めておくことだけ。橋脚の根元を直すことも、傾きを戻すことも、自分にはできない。ロウェンにできるのは、それができる人間が来るまで、時間を買うことだけだった。
「フィオナ」
「うん」
「技師を呼んでくれ。この橋を、いちばんよく知っている者を」




