第31話 王都へ
王の使者が持ってきた書状は、思っていたより短かった。
グレイヴ伯爵領の、この一年の急な発展について、代行を務める者から直接説明を聞きたい。ついては、ひと月のうちに王都へ参上すること。
書状の最後には、王の印が押してあった。その下に、小さな字でもう一行。――会計局付き監察官ユリウス・フェインの報告書、ならびに別紙三枚を拝見した上で。
「……別紙が、王様のところまで行っている」
「行っちゃったね」とフィオナが言った。
ガレスは書状を二度読み直してから、丁寧に畳んだ。
「お叱りのお呼び出しでは、ございません。お叱りなら、書状はもっと長くなります」
「そういうものか」
「そういうものでございます。……ただ、王都には、以前の若様をよく覚えておられる方々も、大勢いらっしゃいます」
ガレスは、それ以上言葉を加えなかった。言わなくても、記憶のほうが勝手に教えてくれた。王都の宴で、前のロウェンがやらかしたことは、葡萄酒の杯一つでは済まない。
使者は、もう一通の手紙も預かってきていた。王都の治療院にいる、父からだった。
――来い。話がある。
それだけだった。前の手紙より、字の震えが少なくなっていた。
◇ ◇ ◇
出発までの五日間、館は引っ越しのような騒ぎになった。
フィオナは、この一年分の帳簿を木箱に詰めた。詰めては出し、出しては詰め直し、最後に箱が三つになった。ロウェンが一つを片手で持ち上げて馬車に積もうとすると、「それ、いちばん大事なやつだから、両手で持って」と言われた。従って積み入れた。
ガレスは領地に残ることになった。委任状と伯爵印を預かる者が、二人とも留守にするわけにはいかない。バルガスも残る。代わりに、若い騎士が一人、護衛としてついてくることになった。妹が三人いる例の騎士だ。末の妹が、兄の外套の裾を最後まで握って放さなかった。
ミラは、堅パンを袋に二つ詰めて持ってきた。
「道中のお腹の足しに。スープに浸けないと、歯が折れますからね」
「知っている」
「若様は知ってても、フィオナ様が知らないと困るんです」
出発の前の晩、バルガスが執務室に顔を出した。
「一つ、耳に入れとく。北の牧草地で、今年の春はもう三回、牙兎の群れが出た」
牙兎は、魔境の山の中にしかいない、兎ほどの大きさの魔物だった。前歯が長く、群れで畑の若芽を根こそぎ食べていく。
「去年は一度も見なかった。一昨年もだ。……まあ、兎は兎だ。騎士隊で追い返せる。行ってこい」
ロウェンは頷いて、その話を頭の隅にしまった。
◇ ◇ ◇
出発の朝、東の門の前には、見送りの人垣ができていた。
トーマは、帽子を手の中で回しながら、「王都の麦の値段、見てきてください」と言った。ミラの息子は馬車の車輪に油を差しに来た。新しい門の柱に背丈の印をつけてもらった女の子は、母親の後ろから「王様って、家くらい大きい?」と訊いてきた。
「分からない。見てくる」
「見てきて」
女の子は真剣な顔で頷いた。どうやらこの子の中では、大きいかどうかが、人を測るいちばん大事な物差しらしかった。
野菜売りの女は、何も言わずに、干した杏を一袋、フィオナの膝に押しつけていった。
◇ ◇ ◇
東の門を出て、新しい道を半日。ハルトの宿場町は、ロウェンが思っていたよりずっと賑やかだった。
大街道の両側に、宿の看板が八つ並んでいる。どの宿の前にも荷馬車が停まっていて、そのうちの何台かは、青い糸の目印をつけた堅パンの袋を積んでいた。宿の一軒の前で、エーリクが待っていた。
「宿場の者たちが、朝食をもとに戻しました。……水を一杯、からです」
エーリクはそう言って、心なしか胸を張った。
宿場町から王都までは、大街道を馬車で八日。平らで、宿があって、馬を潰さない道だった。
二日目の晩に泊まった宿の食堂で、ロウェンは自分の噂を聞いた。
隣の卓の行商人たちが、麦酒を片手に、北の辺境に化け物みたいな若様がいるという話をしていた。背丈は二メートルを超え、腕は丸太ほどもあり、朝飯に牛を半頭食べる。怒ると山が割れる。
「割れていない」
ロウェンが隣の卓に向かって言うと、行商人たちはきょとんとしてロウェンを見た。頭のてっぺんから足の先まで見て、それから笑った。
「兄さん、見てきたような口ぶりだね」
「……見てきた」
「で、どうだった。でかかったか」
「それほどでもない」
行商人たちは、なんだ、つまらんという顔で自分たちの話に戻っていった。向かいの席で、フィオナが杏をくわえたまま、肩を震わせていた。
◇ ◇ ◇
三日目の午後、馬車の中で、フィオナが眠った。
昨夜も遅くまで、宿の灯りの下で帳簿を見直していたのだ。膝の上に帳面を開いたまま、こくり、こくりと舟を漕いで、やがて、ロウェンの肩に頭が乗った。
ロウェンは動けなくなった。
動けば起きる。起きれば、帳簿の見直しの続きを始める。だから、動かないほうがいい。理屈は通っている。問題は、馬車が揺れるたびに、肩の上の重さが少しずつずれて、首のほうへ寄ってくることだった。髪が一房、ロウェンの頬にかかっていた。インクと、宿の石鹸の匂いがした。
肩を固定するだけなら、魔力をほんの少し首と肩に込めておけばいい。そうすれば、馬車がどれだけ揺れても、肩は一ミリも動かない。
ロウェンは魔力を込めた。
御者台の窓から、若い騎士がちらりと中を覗き、何も見なかった顔で前を向き直った。
フィオナが目を覚ましたのは、二時間後だった。ぱちりと目を開け、自分の頭がどこに乗っているかに気づき、ものすごい速さで身を起こした。
「……私、寝てた?」
「二時間」
「なんで起こさないの!」
「起こす理由がなかった」
フィオナは何か言おうとして、やめて、窓の外を向いた。窓に映った顔が、赤かった。
「……肩、痛くない?」
「痛くない。魔力で固定していた」
「固定……」
フィオナは窓の外を向いたまま、額を窓枠にごつんと当てた。何かがどこかで間違っているのに、どこが間違っているのか言えない時の顔だった。
◇ ◇ ◇
八日目の昼、丘を越えたところで、王都が見えた。
大きな川の向こう岸に、灰色の城壁がどこまでも続いている。その内側に、屋根がびっしりと重なり合い、真ん中の高いところに、白い塔が何本も立っていた。グレイヴの領都なら、あの塔の一本の足元に丸ごと収まってしまいそうだった。
川には大橋が架かっていた。
石積みの橋脚が十一本。その上に太い樫の桁を渡し、厚い板を敷き並べてある。長さは二百メートルを超えるだろう。橋の上は、荷馬車と、歩く人と、物売りの屋台で、隙間なく埋まっていた。春の雪解けで川はふくらみ、茶色い水が橋脚にぶつかって白く泡立っている。
「すごいね。あれ全部、人だよ」
フィオナが窓から身を乗り出した。
ロウェンも橋を見た。見ているうちに、気づけば橋脚を一本ずつ数えていた。
四本目だけが、ほかと水の割れ方が違った。上流側の水が、橋脚の根元で渦を巻き、下流側へ抜ける泡の筋が、ほかの橋脚より太い。根元の石が、水に削られている。
馬車が大橋のたもとで止まった。前がつかえているのだ。
その時、足元から、低い音が伝わってきた。
ごとり、と。
橋の真ん中あたりで、誰かが悲鳴を上げた。四本目の橋脚の上で、板の路面がゆっくりと、下流側へ傾き始めていた。傾いた路面の上に、荷馬車が一台と、逃げ遅れた人たちが取り残されていた。




