第29話 領都の限界
門の前の騒ぎを見に行く前に、ロウェンには一つ、済ませておく約束があった。
西畑の北の端に、まだ起こしていない荒れ地が十二ヘクタールほど残っている。去年は手が回らなかった場所だ。雪が解けて土が緩んだこの時期に、あの重い犂を、もう一度納屋から引っぱり出すことになっていた。
犂の柄を握ったのは、西畑の若い農夫だった。
洪水の夜、崩れた溝から引っぱり出したあの若者だ。夜明けに泥だらけの顔で「来年の春、犂の柄、俺にも握らせてください」と言いに来た。その来年の春が、今日だった。
若い農夫は、柄を握る前に掌に唾を吐きかけ、両足を踏ん張って、腰を落とした。去年の春、トーマが最初の一歩でつんのめったのを、畦から見ていたのだ。
「若様。いつでもどうぞ。……でも、最初はゆっくりでお願いします」
「分かっている」
ロウェンは横木を胸に当て、綱が張るのを待ってから、脚に魔力を込めた。
刃が、根の層に噛んだ。若い農夫の腕に、柄が暴れる力がまともに来る。若者は歯を食いしばって、それを押さえ込んだ。犂は、まっすぐ進んだ。
一本目の畝の端まで来た時、若い農夫は柄を握ったまま、振り返って自分の起こした畝を見た。黒い土が、朝日の下で湯気を立てていた。
「……曲がってないですよね」
「曲がっていない」
畦に並んで見ていた村の男たちの中から、トーマが「俺の一本目より、まっすぐだ」と言った。若い農夫は、ものすごく嬉しそうな顔をするのを我慢して、ものすごく変な顔になった。
◇ ◇ ◇
昼前に西畑から戻ると、南の門の前の騒ぎは、朝よりひどくなっていた。
門は、荷車がやっと一台通れる幅しかない。そこへ、峠を越えてきた塩と鉄の荷馬車と、堅パンを積みに来た商人の荷馬車と、石切り場から石を運ぶ荷車と、市に野菜を持ち込む村の荷車が、いっぺんに押し寄せていた。門の中へ入る荷車と外へ出る荷車が、門の真ん中で鼻を突き合わせたまま、どちらも下がれずにいる。
門の中も、似たようなものだった。
秋からの半年で、領都の人は目に見えて増えた。建てた家は、作業場のやり方で二十六軒になった。それでも足りずに、壁の外に、勝手に小屋を建てて住み始めた家もある。広場は市の屋根と浴場で埋まり、荷車を回す場所がない。小麦袋亭の裏の馬小屋は、毎晩あふれている。
その夜、フィオナは執務室の机いっぱいに、領都の地図を広げた。
地図の上には、すでに何本も線が引いてあった。線の脇には、フィオナの丸い字で、小さな書き込みがびっしり並んでいる。「ここ、朝は荷車が詰まる」「パン屋さん、雨の日に困る」「井戸まで遠い」。この冬、フィオナが領都じゅうを歩いて、一軒ずつ聞いて回ったことだった。
「領都を、広げるしかないと思う」
フィオナは、地図の上を指でなぞった。
「壁の外に家が増えてるのは、南と東。だから、そっち側に町を広げる。新しい家の区画と、作業場と、荷車を停めて馬を休ませる場所を、壁の外にまとめる。門は、入る門と出る門を分ける。南の門から入って、東の門から出る。そうすれば、門の真ん中で鼻を突き合わせることはなくなる」
線はよくできていた。店をどこへ動かすか、工事の間の市はどこで開くか、どの家が道にかかって、どこへ移ってもらうか。三軒分の引っ越し先まで、もう書き込んである。
「道にかかる三軒は、どうする」
「引っ越してもらう。新しい区画に、先に家を建ててから」
「家ごと運べば早い」
ロウェンが言うと、フィオナはペンを止めて、ゆっくりとロウェンを見た。
「……家ごと?」
「石の家は無理だが、木の家なら、土台から持ち上げれば――」
「住んでる人に訊いてからにして。夜中に目が覚めたら家が動いてたなんて、たぶん一生の話の種になるけど、たぶん一生許してもらえないから」
家ごと運ぶ案は、帳面に書かれることなく消えた。
ただ、一か所だけ、フィオナの線が途切れているところがあった。
今の領都を囲んでいる、古い外壁だ。
◇ ◇ ◇
「壁は、残してもらわなきゃ困る」
翌朝、広場に集まった人たちの前で、真っ先にそう言ったのは、バルガスだった。
「魔境の山は、北にある。旦那様が怪我をなさったのも、あの山から下りてきた群れだ。壁のねえ町は、守れねえ」
それはロウェンにも分かっていた。広げるなら、壁ごと広げなければならない。今の壁を崩して、外側に新しい壁を積む。
問題は、壁を崩すと言った瞬間の、広場の空気だった。
「あの壁を、壊すんですか」
野菜売りの女だった。祖母の代から広場の東の角に店を出している、あの女だ。
「南の門の内側の柱に、傷がいっぱいついてるでしょう。あれ、子供の背丈なんですよ。この町の子は、五つになったらあの柱の前に立たされて、親に小刀で印をつけてもらうんです。あたしのも、あたしの母のも、祖母のも、あそこにある」
トーマも、帽子を手の中で回しながら言った。
「俺の親父は、若い頃、先々代の伯爵様があの壁を直した時に、石を運んだそうです。牛八頭で引く大荷車でね。……その荷車、今は若様が引いてますが」
誰かが笑いかけて、途中でやめた。
ガレスが、静かに付け加えた。
「南の門の上の石には、グレイヴ家の最初の当主様の紋章が刻まれております。二百年前のものでございます」
新しく来た人たちは、黙って聞いていた。革職人が、隣の石削りの男と小声で何か話していた。壁の外に小屋を建てて住んでいる家は、ほとんどがこの人たちだ。広げてもらわなければ困るのは、新しく来た側だった。
前からの住民は、壁を守りたい。新しく来た住民は、壁の内側に入りたい。
冬の井戸の話と、形がよく似ていた。
石工の親方が、腕を組んで壁を見上げていた。
「……あの壁の石は、いい石ですよ。先々代の頃に、南の石切り場のいちばんいい層から切り出したもんです。今の石切り場には、もうあんな層は残ってない」
壊すのは惜しい、と親方ははっきりとは言わなかった。代わりに、壁の石の目地を指でなぞりながら、「崩したら、この石は割れます。半分は、使い物にならなくなる」とだけ言った。
◇ ◇ ◇
話し合いは、その日も結論が出なかった。
夕方、ロウェンは一人で南の門の内側に立って、柱の傷を見上げていた。
小刀で刻んだ細い横線が、何十本も並んでいる。低いものほど古く、黒ずんでいて、横に小さく名前が刻んであるものもある。いちばん上の傷は、ロウェンの胸のあたりだった。いちばん下の傷は、膝より低い。
ロウェンは、柱の石に手を当てた。
大きな石だった。一つで、大荷車にちょうど載るくらいの重さがある。石工の親方が見れば、きっと「いい石です」と言うだろう。角がきちんと立っていて、二百年の雨風に耐えてきた。
壁を壊せば、この石は、ただの瓦礫になる。瓦礫を片づけて、新しい石を切り出して、外側に積み直す。それが、フィオナの線の途切れたところで、みんなが思い描いていたことだった。
けれど、この石は、壊さなければ瓦礫にはならない。
壊さずに外して、外に運んで、もう一度積めば、それはまだ壁のままだ。柱の傷も、門の上の紋章も、一緒に動く。そして、壁を丸ごと動かせるだけの力を持った人間が、この領地には一人いた。
ロウェンは、門の脇に立っていたフィオナを振り返った。フィオナは、ロウェンが柱に手を当てた時から、じっとこちらを見ていた。
「フィオナ」
「……うん。何か思いついた顔してる」
「壊さなくていい」
ロウェンは、柱の石を軽く叩いた。
「俺が動かす」




