第27話 実務協定
話し合いは三日続いた。
場所は小麦袋亭の食堂の奥の卓で、エーリクとフィオナが向かい合い、ロウェンとガレスがそれぞれの横に座った。ミラは毎朝、話し合いが始まる前に、全員の前に水を一杯ずつ置いていった。三日目には、エーリクのほうから「水を、もう一杯いただけますか」と頼んでいた。
エーリクとフィオナの話し合いは、横で聞いていると、市場の値切り合いに少し似ていた。ただし、声は一度も大きくならない。エーリクが帳面の数字を一つ示すと、フィオナが別の数字を一つ返す。エーリクが「それは困ります」と言うと、フィオナは「うん、それは困るよね」と言ってから、困らない形を探しにかかる。
ロウェンの出番は数字の確認だけだった。ガレスの出番は両家の古い取り決めを思い出すことで、ガレスは六十年前にグレイヴ家とハルト家が川の中州の葦の刈り取りを巡って交わした取り決めまで、すらすらとそらんじて言ってみせた。エーリクは、それをハルト家の古い帳面と照らし合わせて、一字も違わないことを確かめると、まじまじとガレスの顔を見た。
水の件から、先に片がついた。
「取水口の脇の杭に、印をつける」
フィオナが紙に図を描いた。杭の刻みのうち、下から三つ目のところに、赤い線を一本。
「川の水がこの線より下がったら、グレイヴ領は取水口に堰板を一枚差して、取る水を半分にする。線より上に戻ったら、板を抜く。板を差した日と抜いた日は、両方の領地の帳面に書く。夏の間は、ハルト領の人がいつでも杭を見に来ていい」
エーリクは図を端から端まで眺めてから、ひとつだけ訊いた。
「線の高さは、どうやって決められました」
「水車が止まった日は、まだこの杭で水位を測ってなかった。だから、線の高さは暫定。ロウェンと相談して、安全側に高めに置いた。これからは両方の領地で記録を取って、必要なら線を動かす」
「……粉屋の帳面も、引き続き必要ということですね」
「うん。止まった日が分からなかったら、見直せないから。粉屋さんにお礼を言っておいて」
エーリクは、何か言いかけてやめ、帳面に短く書きつけた。
ただ、取る水を半分にすれば、今度は西畑が困る。雨の少ない時期こそ、麦には水が要るのだ。
そこは、ロウェンの仕事だった。
「水の多い春のうちに、溜めておけばいい」
西畑の上手の窪地に、溜め池を掘る。春の雪解けで川が太っている間に水を引き込んで、いっぱいにしておく。夏に堰板を差した日は、その池から西畑へ水を足す。池の大きさは、去年の十一日分の水が溜まる広さにした。
掘る土の量を聞いたエーリクは、三つ数えるほど黙ってから、「……春までに、でございますか」と訊いた。
「春までに」
エーリクは、その答えを帳面には書かなかった。書いても当主に信じてもらえないと思ったのかもしれない。
その日の話し合いが終わったあと、エーリクは食堂に残って、ミラに宿の話を訊いていた。部屋の数、宿賃、朝食に出すもの、洗濯を何日おきにするか。ハルトの宿場町にも宿は八軒あるが、客が減ってから、どこも朝食を削っているのだという。
「朝食を削ったら、客はもっと減りますよ」
ミラは、皿を拭きながらあっさり言った。
「最後の朝に何を食べたかで、次にどこへ泊まるか決まるんです。……あと、最初に水を一杯」
エーリクは、帳面に「水を一杯」と書いた。
◇ ◇ ◇
難しかったのは、街道のほうだった。
商人が近い道を選ぶのは止められない。だが、ハルトの宿場町から荷が減ったままでは、ハルト領は納得しない。
二日目の夜、フィオナが食堂の卓に地図を広げた。
「ハルトの宿場町って、王都へ行く大街道の上にあるよね」
「ございます。宿場町から北西へ、王都まで八日です」
「で、うちから王都へ行こうとすると、一回南の町まで下りて、そこから大街道に乗るか、ハルト領の脇の細い道を一日半かけて抜けるか、どっちか」
フィオナは、グレイヴ領の領都からハルトの宿場町まで、地図の上に指で線を引いた。
「ここに、ちゃんとした道を通したら?」
エーリクの目が、地図の上で止まった。
南の町から塩と鉄を積んで峠を越えてきた荷馬車は、グレイヴ領で荷を下ろし、今度は堅パンや麦を積む。その荷を王都のほうへ運ぶなら、グレイヴ領から東へ抜けて、ハルトの宿場町で大街道に乗るのがいちばん近い。
宿場町を通る荷は、南から上ってくる荷ではなくなる。西から入ってくる荷になる。
「……宿場町の者は、客がどちらから来ようと構いません」
「うん。そう言ってくれると思った」
話が決まってから、ガレスが静かに口を挟んだ。
「念のため申し上げます。隣領との接続路と取水の取り決めは、境も税も変えない実務の取り決めでございますので、若様の代行のお役目の内に収まります。伯爵家の印章で、事足りるかと」
ガレスは、館から持ってきた小さな箱を卓の上に置いた。ずっと懐に抱えていたらしい。
◇ ◇ ◇
接続路の工事は、年が明けてすぐに始まった。
領都の東の門から、ハルトの宿場町まで十八キロ。そのうち、ハルト領に入るまでの十一キロがグレイヴ領の受け持ちだ。雪の少ない低い丘を二つ越え、途中に一か所、冬でも水の引かない湿地がある。
丘は切り下げた。峠の岩の背に比べれば、柔らかい土の丘だった。湿地には、石切り場から運んだ石を敷き詰めて、その上に砂利を撒いた。冬の工事は、昼が短い。日の出とともに始めて、昼には焚き火のまわりで堅パンを煮込んだスープをすすり、日が傾く前に切り上げる。堅パンは、飯場用に焼いた分から、形の悪いものを回してもらっていた。形は悪くても、歯より硬いのは同じだった。見張りの置き方と、笛が鳴ったら走る方向は、今回もバルガスが決めた。ただしバルガスが現場に来たのは最初の三日だけで、あとは見張り役の騎士を一人置いて、館へ戻っていった。人が増えた分、騎士隊にも新入りが入り、冬の訓練が始まったのだという。
エーリクは、ハルト領へ戻る途中で、工事の様子を見ていくことにしたらしい。
湿地の手前で、ロウェンが荷車一台分の石を肩に担いで運んでいるのを見た時、エーリクは馬の上で帳面を開いたまま、ペンを動かさずに固まっていた。
「……ハルト家の当主に、どう書いたものでしょう」
隣で馬を並べていたフィオナが、親切に教えた。
「王都の監察官の人は、『極めて高い効率の労働力一名』って書いてたよ。算定は別紙三枚」
「別紙、三枚」
「うん。三枚」
エーリクは、ペンの尻で顎をつついて考えてから、帳面を閉じた。
「……わたくしは、四枚にいたします。当主は、細かい話がお好きですので」
ハルト領の側でも、自分たちの受け持ちの七キロの工事が始まっていた。春のうちには、両側からつながる。つながれば、領都から宿場町まで、荷馬車で半日だ。
◇ ◇ ◇
その日の工事を終えて、ロウェンが湿地の石の上に腰を下ろした時だった。
東の門の方角から、騎士が一人、雪を跳ね上げて馬を走らせてきた。まだ若い、見覚えのある騎士だ。妹が三人いると言っていた、あの騎士だった。
騎士は、ロウェンの前で手綱を引いた。馬の息が、白く荒れていた。
「若様。騎士隊長から、伝言です」
騎士は、一度唾を呑み込んでから言った。
「訓練場で、新入りが一人、倒れました」




