第26話 隣領からの抗議
降る雪の中やって来たハルト領の使者は、エーリクと名乗った。
四十を少し過ぎたくらいの、痩せた男だった。旅の外套の下に、襟にきちんと糊の利いた服を着ている。膝の上には、革の紐で束ねた帳面が三冊。後ろには護衛の騎士が二人立っていて、そのうちの一人は、執務室に入ってからずっと、剣の柄から手を離さなかった。
「エーリク殿は、ハルト家で二十年、書記官を務めておられる方です」
ガレスが紹介すると、エーリクは座ったまま深く頭を下げた。
「本日は、ハルト家当主の名代として参りました。雪の中、突然お訪ねした無礼をお許しください」
それから顔を上げて、まっすぐにロウェンを見た。正確にはロウェンの手を見ていた。卓の上に置いた、ロウェンの両手を。
エーリクの視線が、卓の上の手とロウェンの顔を二回ほど往復したところで、ロウェンは両手を卓の下に下ろした。護衛の騎士の肩が、目に見えて下がった。
ハルト領にも、噂は届いているらしい。どのくらい背が伸びた噂なのかは、訊かないことにした。
ガレスが茶を運んでくると、エーリクは礼を言って杯を受け取り、口をつける前に、杯と卓の縁をさりげなく見比べた。杯が割れていないか、卓がへこんでいないかを確かめているようだった。どちらも無事だと分かると、ようやく一口飲んだ。
フィオナが、卓の下でロウェンの足を軽く蹴った。笑うのをこらえている時の蹴り方だった。
ハルト領は、グレイヴ領の東隣の領地だ。平らな土地に麦畑と牧草地が広がり、王都へ続く大街道が、その真ん中を通っている。グレイヴ家とは、仲がいいわけでも悪いわけでもない。領都の南を流れる川が、そのまま東へ下ってハルト領に入るので、昔から川のことでときどき書状をやり取りする。付き合いといえばその程度だと、ガレスは言っていた。
ロウェンが、この冬までにその名前を聞いたのは二度だけだった。一度は、峠の道を通す前に、フィオナが帳面の端に書いて丸で囲んだ時。もう一度は、秋にハロルドが、客の減った宿場町の話をした時だ。
その丸の中身が、今、帳面を三冊抱えて目の前に座っていた。
◇ ◇ ◇
「申し上げたいことは、二つございます」
エーリクは一冊目の帳面を開いた。
「一つ目は街道でございます。これまで、南の町から北へ上る塩と鉄の荷は、その多くがハルト領を回っておりました。平らな道で、三日かかります。そのうち二晩を、ハルトの宿場町で泊まっていく。宿代と、橋の通行料と、馬の飼い葉代。宿場町の暮らしは、それで成り立っておりました」
帳面には、月ごとの数字が並んでいた。宿場町を通った荷馬車の数だ。夏の終わりから、数字が目に見えて減っている。秋には、去年の同じ月の六割になっていた。
「グレイヴ領が新しい道を通され、最初の一年の通行料を取られないと聞いております。商人が近い道を選ぶのは当然のことです。道を塞げと申し上げるつもりはございません」
エーリクは二冊目の帳面を開いた。
「二つ目は、水でございます」
グレイヴ領から流れてきた川は、ハルトの宿場町の手前で、麦を挽く水車を三つ回している。
「この夏、水車が止まった日が、合わせて十一日ございました。去年は二日です。粉屋が、日ごとに書きつけておりました」
差し出された帳面には、粉屋の太い字で、日付と「止まる」「半日止まる」という書き込みが並んでいた。ロウェンは、最初の日付を見た。
新しい水路の堰を切った日の、四日後だった。
ロウェンは、黙って帳面をフィオナに回した。フィオナも日付を見て、それから、ちらりとロウェンを見た。
帳面の終わりのほうには、日付のほかにも、粉屋の字で短い書き込みがあった。「麦、挽けず。客に待ってもらう」「客、隣の村の水車へ行く」「隣の水車も止まる」。最後の頁には、ただ一行、「今年の冬の粉、足りるか」とだけ書いてあった。
川の下流にも、蔵の数字を心配している人間がいる。
春先の自分と、同じことを書いていた。
◇ ◇ ◇
「少し、時間をいただけますか」
フィオナがそう言って、エーリクには小麦袋亭に部屋が用意された。ミラが最初に水を一杯出したかどうかは確かめなかった。
ロウェンはその日の午後、雪の中を取水口まで歩いた。
新しい水路の入口は、雪をかぶって白くなっていた。洪水の夜に打った杭は、まだ水際に残っている。あれ以来、若い騎士が毎朝刻みを読んで、帳面につけていた。フィオナが「記録は、あとで必ず役に立つから」と頼んだのだ。
ロウェンは、頭の中で数字を並べた。
古い水路は丘の裾を七キロ回り、途中で水を半分近く失っていた。取水口で取った水の多くは、地面に染みて、結局は川へ戻っていた。新しい水路は三キロと少しで、ほとんど水を失わない。そして、取水口を広げた。西畑に水を届けるために、取り込む量そのものを増やしたのだ。
川の水が多い季節なら、何の問題もない。けれど夏の雨の少ない時期、川の水が細くなった時にも、取水口は同じだけの水を取り続ける。
その分だけ、下流が減る。
西畑の四十ヘクタールに水を届けた、その同じ水が、ハルトの水車を止めていた。
「……計算に、下流を入れていなかった」
口に出すと、思っていたより苦い声になった。
隣を歩いていたバルガスが、雪を払いながら言った。
「若様でも、計算に入れ忘れるもんがあるんだな」
それから、雪の積もった取水口の水門を見下ろして、少し考えるような間を置いた。
「ある。たくさんある」
「そりゃよかった。少し安心した」
何が安心なのかは、またしても分からなかった。
◇ ◇ ◇
翌日、ロウェンとフィオナは、エーリクをもう一度執務室に招いた。
「水の件は、そちらの言うとおりだ」
ロウェンが言うと、エーリクは、帳面の上に置いていた手を止めた。
横に立っていた護衛の騎士が、口を半分開けた。何か言い返されるつもりでこの部屋に来ていたのかもしれない。
「新しい水路の取水口を広げた。夏の水の少ない時期にも、同じ量を取り続けている。そちらの水車が止まった最初の日は、水路を開けた四日後だ。少なくとも、時期は重なっている」
エーリクは、すぐには答えなかった。それからもう一度帳面をめくって、ロウェンの顔を見た。
「……失礼を承知で、申し上げます。わたくしは、グレイヴ家のご嫡男について、別の話を聞いておりました」
「そうだろうな」
「三年前の春の宴で、うちの当主のご子息に、葡萄酒の杯を投げつけられたと」
記憶が、気まずそうに教えてくれた。投げた。しかも、中身の入ったまま。
「……その件は、改めて詫びる」
エーリクは、卓の上の帳面を閉じた。帳面の上に手を重ねたまま、しばらく考えていた。
「当主からは、グレイヴ家が話を聞かないようなら、王都に訴え出るよう言われております」
「聞く」
「……はい。そのようですね」
護衛の騎士が、剣の柄から手を離した。離してから、自分が離したことに気づいたらしく、少し気まずそうに手の置き場所を探していた。
「杯の件は、ご子息に詫び状を書く」
ロウェンが言うと、横からフィオナが素早く付け加えた。
「書いたら、送る前に私が読むからね」
「なぜだ」
「ロウェンの詫び状は、たぶん、詫びてるように読めないから」
エーリクが、初めて小さく笑った。すぐに咳払いでごまかした。
その後、エーリクは三冊目の帳面を開いた。そこにはハルト領の側から出す条件が、几帳面な字で書き並べてあった。
夏の、川の水が細くなる時期に限って、グレイヴ領の取水を減らすこと。減らす目安を、両家で決めること。そして、宿場町を通る荷を、何らかの形で取り戻すこと。
どれも、ハルト領が自分の領地を守るための条件だった。グレイヴ領を困らせるためのものは一つもない。
◇ ◇ ◇
エーリクが部屋を出たあと、フィオナは三冊目の帳面の写しを、じっと見ていた。
「ロウェン。どう思う」
ロウェンは、条件の一行一行を、もう一度読み直した。
「相手の条件は、筋が通っている」




