第25話 共通利益を作る
三日後、フィオナは広場の掲示板に、一枚の紙を貼り出した。
字の読めない人のために、ガレスが紙の横に立って、読み上げ役を買って出た。背筋を伸ばし、よく通る声で一行ずつ読んでいく。その読み方があまりに立派だったせいで、最初に集まった人たちは、王都からお触れでも来たのかと思ったらしい。
決まりは四つだった。
一つ。広場の井戸はこれまで通り。朝の順番もこれまで通り。そのかわり、作業場の北に、新しい井戸をもう一つ掘る。日の出前に水が要る者は、そちらを使ってよい。
二つ。井戸の掃除と釣瓶の縄の点検は、週ごとの当番とする。当番は二軒一組。一軒は前からの家、一軒は新しい家から、くじで選ぶ。
三つ。市の場所のうち、昔から決まっている場所はそのまま。ただし、二の鐘までに店を出さなければ、その日は空いているものとみなす。新しい店の場所は、月の初めにくじで決める。
四つ。作業場の仕事は、朝の組と昼の組に分ける。畑や家の仕事がある者は、どちらか半日だけでもよい。
「……以上でございます」
ガレスが一礼すると、集まった人たちは、紙を見上げたまま、誰も口を開かなかった。
拍手は起きなかった。
野菜売りの女は、「二の鐘まで」のところで口をへの字にした。革職人は、くじで当番が決まると聞いて、「前からいる人と組まされるのか」と小声で言った。トーマは、紙の前で腕を組んだまま、何度も首を傾げていた。
それでも、誰も紙を剥がさなかった。
「満点の決まりなんて、ないからね」
帰り道、フィオナは言った。
「みんな少しずつ損して、少しずつ得する。それで十分。……あとは、決まりだけじゃなくて、みんなが一緒に得をする何かがあるといいんだけど」
◇ ◇ ◇
その「何か」は、二つになった。
一つは、市の屋根だ。
野菜売りの女が雨の日に軒を借りる家は、祖母の代から決まっている。けれど、新しく来た店には、そういう家がない。秋の終わりの長雨の日、パン売りの女は売り物のパンを濡らさないように、自分の外套を脱いで籠にかぶせ、そのまま一日じゅう雨の中に立っていたという。それを見ていた野菜売りの女は何も言わなかったが、次の雨の日には、軒の端を少しだけ空けていたそうだ。ガレスが、どこからか仕入れてきた話だった。
広場の東側に、石の柱を十二本立てて、その上に長い屋根を渡す。雨の日でも、雪の日でも、屋根の下で店が出せる。前からの店も新しい店も、同じ屋根の下に並ぶ。野菜売りの女が、雨の日に軒を借りに走らなくてもよくなる。
もう一つは、浴場だった。
言い出したのはミラだ。宿の客が、しきりに訊くのだという。南の町には浴場があるのに、ここにはないのか、と。冬の間、作業場で石の粉をかぶった男たちも、家の小さな盥では体を洗いきれない。
「蒸し風呂なら、水は少なくて済みますよ。焼いた石に水をかけて、湯気で温まるんです。南の町のは、そういうのでした」
フィオナは、浴場の話を聞くなり帳面を開いた。入る者から少しずつ湯銭を取れば、焼き石の薪代と、番をする者の手間賃は出る。前からの住民も新しい住民も、同じ湯銭で同じ湯気に入る。
「番は誰がやるの?」
「うちの宿で、手の空いた娘を回します。……あと、うちの子が、焼き石に水をかける係をやりたいって」
ミラの息子は、この冬、やりたい仕事が増える一方だった。
ロウェンの仕事は、はっきりしていた。
石切り場から、市の屋根の柱を十二本。浴場の壁の石と、湯気を出すための大きな焼き石。柱は一本で大人十人分の重さがあったが、ロウェンは一日に四本ずつ運んだ。柱を立てる穴の位置は石工の親方が決め、立てる角度は大工が見た。
作業場の型板と、見張りの笛は、ここでもそのまま使われた。前からの住民と新しい住民が、同じ型板で同じ石を削り、同じ笛の音で同じ方向へ走る。走る方向を間違えたのは、たいてい考え事をしていたロウェンだった。
柱を運ぶロウェンの後ろには、毎日子供たちの行列がついてきた。前からの家の子も、新しい家の子も混じっている。井戸の前でがっかりしていた、あの女の子もいた。女の子はロウェンが柱を下ろすたびに柱の長さを歩いて測り、「家よりは長い」と報告した。何と比べているのかは、訊かないでおいた。
柱が十二本立った日、屋根の梁を渡す前の柱の列を見上げて、野菜売りの女がぽつりと言った。
「……これ、東の角にも屋根がかかるんですか」
「かかる。祖母の代からの場所も、屋根の下だ」
女は何も言わずに、自分の場所の上にかかる梁を、首が痛くなりそうなほど長いこと見上げていた。
◇ ◇ ◇
浴場ができあがったのは、冬の最初の雪が降った日だった。
最初に入ったのは、ロウェンだった。建てた者が試すのが筋だと、ロウェンが言い張ったのだ。
炉で焼いた石を運び込み、桶の水をかける。じゅう、という音とともに、白い湯気が天井まで立ちのぼった。ロウェンは、湯気の中にしばらく座ってから、真顔で出てきた。
「適温だ」
外で待っていたバルガスが、それを聞いて、上着を脱いだ。騎士隊長として、次に試すのは自分の役目だと思ったらしい。
バルガスは、中に入って、十数える間もなく飛び出してきた。
全身が、茹でた海老のように真っ赤だった。
「……若様。一つ言っとく」
「何だ」
「若様の『適温』は、今後一切信用しねえ」
焼き石の数は、ロウェンが運び込んだ数の三分の一まで減らされた。石の数は、以後ミラが決めることになった。
三人目に試したのはミラで、ミラはちょうどいい頃合いで出てきて、「これなら、お客さんに出せます」と言った。四人目のガレスは、きっちり百数えてから、涼しい顔で出てきた。
「結構な加減でございました」
ガレスの肌は、バルガスと同じくらい赤かった。
◇ ◇ ◇
浴場を開けた最初の晩は、思っていたよりずっと混んだ。
湯気の立ちこめる板の間に、男たちが肩を並べて座っていた。作業場の男も、畑の男も、荷運びも、宿の客もいる。湯気の中では、誰が前からの住民で、誰が新しく来た者なのか、顔がよく見えなかった。
ロウェンが様子を見に行くと、板の間のいちばん奥で、見覚えのある二人が並んで座っていた。
井戸の前で怒鳴り合っていた、荷運びの男と、革職人だった。
空いている場所が、そこしかなかったらしい。二人とも、互いのほうを見ないようにして、まっすぐ前を向いている。やがて、ミラの息子が焼き石に水をかけた。じゅう、と湯気が立ちのぼる。
「……熱いな」
「……熱いですね」
二人は同時に言って、同時に黙った。それから、荷運びの男が、前を向いたまま言った。
「来週の井戸の当番、あんたのとこと、うちだってな」
「……くじ、ですからね」
「縄の結び方、知ってるか。あの井戸の釣瓶、癖があるんだ」
「知りません。教えてもらえますか」
ロウェンは、そっと板の間から出た。
全部が片づいたわけではない。野菜売りの女は、今朝も二の鐘ぎりぎりに店を出して、隣の新しい店を睨んでいた。革職人の妻は、まだ広場の井戸には近づかない。
それでも、同じ湯気の中で、同じことを「熱い」と言える。今夜は、それで足りる気がした。
浴場の外に出ると、雪の中を、ガレスが足早にこちらへ向かってくるのが見えた。
「若様。ハルト領から、使者の方がお見えです」




