第24話 新住民との摩擦
ロウェンが人垣に近づくと、まず外側の何人かが振り返り、それから波が伝わるように、井戸のまわりが静かになっていった。
怒鳴り合っていた二人の男も、口を開けたまま止まった。一人は西の村から領都に出てきて長い、荷運びの男だ。もう一人は見覚えがない。秋の終わりに、南から家族を連れて来た革職人だと、あとでガレスが教えてくれた。
人垣の後ろのほうで、新しく来たらしい女たちが囁き合っているのが聞こえた。
「あれが……」
「山を、素手で割ったっていう……」
「割ってない」
ロウェンが言うと、囁き声がぴたりと止んだ。訂正したつもりだったが、余計に怖がらせただけのような気がした。
その時、ロウェンの膝のあたりで、小さな声がした。
「ねえ」
五つか六つくらいの女の子が、ロウェンの外套の裾を引っ張っていた。母親らしい女が、真っ青な顔で手を伸ばしかけて、止まっている。
「若様って、家くらい大きいって聞いた」
「……家よりは、小さい」
「なあんだ」
女の子は、あからさまにがっかりした顔で、母親のところへ戻っていった。母親は、女の子を抱えて人垣の奥へ消えた。
噂というものは、どうやら領都の外へ出ると、勝手に背を伸ばすらしい。
前から領都にいる者たちは、この半年でようやく、ロウェンが通りかかっても道の端に寄らなくなった。挨拶をすれば、挨拶が返ってくる。トーマなどは、執務室に来るたびに勝手に椅子に座るようになった。
ところが、新しく来た人たちは、また一から始まるのだ。道の端に寄り、子供を背中に隠し、噂の尾ひれをそのまま信じる。ロウェンにしてみれば、せっかく積んだ石垣を、よその土地の分だけもう一度積み直すようなものだった。
◇ ◇ ◇
話を聞いてみると、喧嘩の中身は単純だった。
領都の真ん中の井戸は、昔から朝に混む。女たちが朝飯の水を汲み、洗い物をし、ついでに一日分の噂を仕入れる場所だ。並ぶ順番は誰が決めたわけでもないのに、なんとなく決まっていた。
そこへ、新しい家の人たちが加わった。作業場で働く男たちは日の出と同時に仕事を始めるので、その前に水を汲みたい。女たちも、慣れない土地で、決まりを知らないまま列に入る。前からいた人たちから見れば割り込みで、新しく来た人たちから見れば、誰も何も教えてくれない。
「だったら、井戸をもう一つ掘ればいい」
ロウェンは言った。
井戸の場所を決めて、掘って、石を積む。水脈さえ当たれば、三日もかからない。本気を出せば二日だ。
ロウェンは、もう井戸を掘る場所を目で探していた。広場の北の、作業場の手前あたりがいい。地面の傾きからして、水脈は浅いはずだ。外套を脱いで、袖をまくりかけたところで、人垣の中の誰かが「え、今から?」と言った。
「今からのつもりだった」
ロウェンがそう言うと、荷運びの男と革職人は、そろって「はあ」という顔をした。喧嘩の相手と同じ顔をしていることには、二人とも気づいていないようだった。
「掘ってもいいけど」
声がしたほうを見ると、フィオナが帳面を抱えて立っていた。いつから聞いていたのか。
「井戸を増やしたら、次は洗濯場で揉めるよ。その次は市。……もう揉めてるけどね」
◇ ◇ ◇
フィオナの言う「もう揉めてる」の中身を、ロウェンはその夜、小麦袋亭の食堂で聞くことになった。
前からの住民の側からは、トーマと荷運びの男と、市で野菜を売っている女。新しく来た側からは、革職人と、作業場で石を削っている男と、パンを焼いて売り始めた女。ミラが食堂の隅の卓を空けてくれて、話が始まる前に、全員の前に水を一杯ずつ置いた。
「喉が渇いてると、怒りっぽくなるんで」
ミラはそれだけ言って、厨房へ戻っていった。
話は、ロウェンが思っていたよりずっと長くかかった。
前からの住民の言い分はこうだった。作業場の仕事は、新しく来た者ばかりが取っている。前から領都にいる者は、畑や家の仕事があって、朝から晩まで作業場に張りついてはいられない。そのうえ、市には新しい屋台が増えて、昔からの場所に勝手に店を出される。野菜売りの女の場所は、祖母の代から広場の東の角だった。
「祖母の代からなんです。雨の日に屋根を貸してくれる家まで、決まってるんです」
新しく来た住民の言い分はこうだった。作業場で働くのは、それしか仕事がないからだ。畑は持っていないし、借りられる畑もない。市の場所は、誰に訊いても教えてもらえなかったから、空いているところに出しただけだ。
「空いてたんです。朝のうちは」
パン売りの女は、困ったように言った。
「それに、うちのパンを買いに来るのは、ほとんど前から住んでる人たちなんですよ。昨日も、そちらの奥さんが三つ」
トーマが、黙って水を飲んだ。心当たりがあるらしい。
革職人が、ぼそりと言った。
「俺たちは、よそ者です。それは分かってます。でも、南の町を出てきたのは、あそこに仕事がなかったからで、ここに来たのは、ここに仕事があるって聞いたからです。……来ちゃいけなかったんなら、そう言ってください」
誰も、来るなとは言わなかった。
荷運びの男が、水の杯を握ったまま、卓の木目をじっと見ていた。西の村から出てきた時の、自分のことでも思い出しているような顔だった。この男も、十年前の日照りの年に、畑を捨てて領都に来たのだと、あとでトーマが教えてくれた。
井戸。朝の順番。作業場の仕事。市の場所。雨の日の屋根。
どれも、ロウェンの身体強化で解けるものではなかった。井戸は掘れる。屋台の台も作れる。だが、どの時間に誰が汲むか、どの場所に誰が店を出すかは、力では決まらない。
ロウェンが話し合いの途中で「では、屋台の台を倍に増やす」と言いかけた時、フィオナが卓の下でロウェンの足を蹴った。痛くはなかったが、意図は伝わった。
代わりに、フィオナが卓の全員に訊いた。
「広場の井戸の、朝の順番。あれ、誰が決めたの?」
前からの住民の三人が、顔を上げた。トーマが何か言いかけて、帽子を握り直した。荷運びの男が首を傾げた。野菜売りの女が、「……さあ。昔から、そうなってるんで」と言った。
「誰も決めてないのに、前から住んでる人はみんな知ってるんだね」
フィオナは、帳面に何か書きつけた。
「新しく来た人は、それを知る方法がない。……うん。割り込みたくて割り込んだ人は、たぶん、この中にはいないと思う」
革職人の肩から、ふっと力が抜けた。
◇ ◇ ◇
話し合いが終わったのは、夜も遅くなってからだった。
結論は出なかった。出たのは、互いの言い分だけだ。トーマたちが帰り、革職人たちが帰り、食堂にはロウェンとフィオナだけが残った。ミラが水差しを新しいものに替えていった。
フィオナは、ロウェンが書いた紙を引き寄せて、じっと見ていた。
「……ロウェンは、どっちが悪いと思う?」
「どちらも悪くない」
「うん」
「どちらも、少しずつ困っている。前からいた者は、慣れたやり方を崩されて困っている。新しく来た者は、やり方を誰にも教えてもらえずに困っている」
フィオナは、紙の上の「祖母の代から」という走り書きを、指でなぞった。
「どっちかに決めたら、決めなかったほうは出ていくか、黙って恨むか、どっちかだね」
ロウェンは、ペンを置いた。
井戸を掘るのは簡単だ。家を建てるのも、道を通すのも簡単だった。重いものを運べば、それで片がついた。
けれど、今夜の卓の上には、重いものは一つもなかった。
「どちらの言い分にも筋がある」




