第22話 代わりの利かないもの
ハロルドは、フィオナの話を最後まで黙って聞いてから、腕を組んだ。
「つまり、こういうことか。麦を今は売らずに、春まで蔵で預かる。その間の冬の銀貨は、俺が前もって払う。春になったら、俺がその麦を先に決めておいた値で引き取る」
「そう。ハロルドさんが今払うのは、春の値の半分だけ。残りは春に払う。村の人は冬の銀貨が手に入るし、今の安値で売るよりはずっといい。ハロルドさんは、春に値が戻った麦を、秋に決めた値で手に入れられる」
小麦袋亭の食堂の隅の卓で、ハロルドはしばらく指で卓を叩いていた。
「……春に値が戻らなかったら、損をするのは俺だ」
「戻らなかった年は、この十年で一度だけ。南の町の組合の帳簿で確かめたよ」
「組合の帳簿なんて、どうやって見た」
「頼んだら見せてくれた。ハロルドさんの名前を出したら」
ハロルドは、天井を仰いだ。
「……俺の名前、勝手に使うなよ」
「使わせてくれるでしょ?」
フィオナが首を傾けて笑うと、ハロルドは長い溜め息をついて、それから吹き出した。
「分かった、乗る。ただし、預かる麦はちゃんと乾かして、湿気で一粒も駄目にしないこと。蔵が雨漏りしたら、この話は全部なしだ」
「雨漏りについては、うちは誰より身に染みてるから大丈夫」
フィオナが、ちらりとロウェンを見た。ロウェンは黙って目を逸らし、窓の方に向けた。
「それと、ついでに一つ、耳に入れとく」
ハロルドは、麦酒の杯を脇へ寄せた。
「東のハルトの宿場町な。このところ、宿がだいぶ空いてるらしい。俺も去年までは、あそこの宿の常連だったんだが、この前通りかかったら、宿の親父に嫌な顔をされた。お前らがみんな峠のほうへ行っちまうから、ってな」
フィオナは、帳面を何枚も前へめくった。峠の道を通す前の頁だ。その端に、「ハルト領」と書いて、ぐるりと丸で囲んだ字が残っていた。
「……やっぱり、そうなるよね」
「何か言ってくるか」とロウェンは訊いた。
「いつかは、来ると思う。向こうが悪いわけじゃないから、余計に困るんだけど」
「ま、今日明日の話じゃねえよ」とハロルドは肩を回した。「先に、目の前の麦だ」
フィオナは頷いて、帳面を元の頁に戻した。丸で囲んだ字は、また紙の下に隠れた。
◇ ◇ ◇
預かる麦を入れるには、蔵が足りない。
ロウェンの仕事はそこだった。今の倉の隣に、同じ大きさの倉をもう一棟。石切り場から壁の石を運び、屋根の梁を運び、基礎を据える。今度の屋根は、石工の親方が「百年漏らさない」と請け合った葺き方だ。雨漏りで麦を腐らせた倉の隣に建てる倉としては、これ以上ない約束だった。
梁を上げる日には、蔵番の老人が朝から現場に張りついていた。梁が一本載るたびに、下から屋根裏を見上げて、指で何かを数えている。ロウェンが最後の梁を担いで足場を上がろうとすると、老人が下から声をかけた。
「若様。その梁、節があります。節は上に向けてください。下に向けると、そこから割れます」
大工が梁を確かめて、老人の言う通りだと頷いた。ロウェンは梁を回して、節を上に向けた。蔵番の老人は、三十年、倉の天井ばかり見上げてきたのだという。
同じ頃、小麦袋亭の台所では、もう一つの仕事が始まっていた。
「あの夜食のパンを、ですか」
ミラは、フィオナの説明を聞きながら、腕まくりをした。
「南の町のさらに南に、鉱山があるでしょう。あそこの飯場は、日持ちのするパンを山ほど欲しがってるんだって。坑道の中で食べるから、固くて、軽くて、何日たっても腐らないやつ。ハロルドさんが教えてくれたの」
「知ってます。あたしが南の町で焼き方を覚えたのも、鉱山帰りのお客さんのためでしたから。……でも、宿の窯で焼けるのは、夜食の分くらいですよ」
「それを、うちの麦で、荷馬車いっぱい作りたいの」
ミラは少し考えてから、頷いた。
「作れます。窯が要りますね。それと、焼き手」
窯は、大工と石工の親方が小麦袋亭の裏手に据えた。焼き手は、村の女たちが交代で集まった。ミラが粉の配合と焼き時間を決め、女たちがこねて、焼いて、また焼く。二度焼くのがコツなのだという。
最初からうまくいったわけではない。一回目に焼いた分は、中が生焼けで、三日目に青い黴が生えた。二回目は焼きすぎて、真っ黒な炭のかたまりになった。三回目のものは形がよかったが、割ってみると中に大きな空洞があって、ミラは「これじゃ、客が損した気分になる」と言って全部スープ用に回した。
四回目の窯を開けた時、台所に集まっていた女たちが、いっせいに黙った。焼き色は均一で、割っても空洞がない。叩くと、本当にこつこつと石のような音がした。
様子を見に来たハロルドは、一つかじって、顎が疲れるほど噛んでから、ようやく言った。
「……鉱山の連中は、これを喜ぶ。俺は、二度と食わん」
褒め言葉だと、ミラは受け取ったようだった。
麦のまま売れば銀貨一枚で三袋だった麦が、堅パンにすると、同じ目方で倍近い値になる。しかも、荷馬車一台に積める日数分が、麦よりずっと多い。
ロウェンは、焼き上がった堅パンを一つ手に取って、かじってみた。
がりっ、と鈍い音がした。
「……歯より、パンのほうが硬い」
「若様でも駄目ですか」とミラが真顔で言った。「じゃあ、鉱山の人は大丈夫ですね。安心しました」
何が安心なのかは、よく分からなかった。
◇ ◇ ◇
ひと月後、最初の荷が南の町へ出ることになった。
春まで預かる麦の札を受け取った村人たちには、ハロルドの前渡しの銀貨が配られた。トーマは銀貨を数えてから、隣の年配の男の背中を、黙って一つ叩いた。年配の男は、その足で南の町の靴屋へ行く荷馬車に、孫の足の大きさを書いた紙を託していた。紙には、足の形がそのままなぞってあった。孫娘を紙の上に立たせて、炭で線を引いたのだという。
広場の端では、ミラの息子が荷馬車の御者に、堅パンの袋の積み方を教えていた。重い袋は下、軽い袋は上。紐の結び目は外に向ける。十歳の子供に指図されて、御者は最初むっとした顔をしていたが、三つ目の袋のあたりから素直に言うことを聞いていた。言われた通りに積むと、確かに荷台の揺れが少なかったのだ。
堅パンは、麻の袋に詰めて、口を紐で縛ってある。その紐の結び目のところに、小さな青い糸の刺繍がひと目ずつ入っていた。
ロウェンは、その青に見覚えがあった。
「……この糸は」
「目印」
フィオナは、袋の山を数えながら言った。
「どこの麦で作ったか、ひと目で分かるようにね。形を変えただけじゃ、ほかの村がまねしたら同じになっちゃうでしょ。これがあるのは、グレイヴの堅パンだけ。……ハロルドさんには、商人は名前より目印で覚えるって言われたから」
帳簿のために買わなかった糸は、結局、帳簿のために使われていた。
ロウェンは、並んだ袋の山を見渡した。
春まで待てない村人たちの冬の銀貨。雨漏りしない倉。鉱山の飯場という新しい売り先。二度焼いて石のように固くなるパン。青い目印。どれ一つとして、ロウェンが魔力を巡らせて作れたものではない。ロウェンが運んだのは石と梁だけで、残りは全部、フィオナが紙の上で組み立てたものだった。
「フィオナ」
「なに? 数え間違えるから、あとにして」
「お前は、代わりの利かない資源だ」
フィオナの手が止まった。
袋を数えていた指が、ちょうど百十七のところで止まったまま、動かない。
「……それ、褒めてる?」
「最大級に評価している」
「言い方!」
フィオナは袋の山のほうを向いたまま、ぶんぶんと首を振った。耳の先が赤くなっているのが、ロウェンの位置からでもよく見えた。
「今ので、何個まで数えたか分かんなくなったじゃない。……最初から数え直し」
「手伝おう」
「いい。ロウェンが数えると、袋が破れる」
それは偏見だ、と言いかけた時だった。
広場の北の、建てかけの家が並ぶあたりから、悲鳴が上がった。
続いて、何か大きくて重い物が崩れ落ちる、鈍い音が響いた。




