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理論上、肉体で解決します ~悪役貴族に転生した頭脳派、計算するとだいたい自分が重機になる~  作者: にじいろウニ


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第21話 豊作なのに

「銀貨一枚で、この袋を三つ」


 市の立った広場で、南の町から来た商人が、トーマの荷車の麦袋をぽんぽんと叩いた。


「先月は、二袋で銀貨一枚だったろう」


 トーマの声は、いつもより低かった。


「先月はな。今月は、北の麦がどこもかしこも余ってる。うちの荷馬車にも、ここへ来る途中で三つの村から『買ってくれ』って声がかかった。嫌なら、ほかを当たりな。ほかも同じ値だと思うけどね」


 商人は悪い人間ではなかった。ただ、商人としての務めがあった。


 トーマは麦袋を見下ろしたまま、鼻の頭を掻いた。それから短く「……三つで」と答えた。商人が銀貨を一枚置いて、袋を荷馬車に積み替えていく。トーマは銀貨を握りしめたまま、荷車の空いたところを見ていた。


 その光景を、ロウェンは広場の端から見ていた。


 同じような取引が、広場のあちこちで起きていた。西畑の麦、下流の畑の麦、村々の麦。どの荷車も麦を満載していて、どの商人も同じ値段しか言わない。値段を下げても、買い手のほうが先にいなくなる。


 豊作だった。


 春には二十七日分しかなかった麦が、今は余っている。それなのに、麦を作った人たちの顔が、春と同じくらい暗かった。


 ロウェンはその足で、倉を見に行った。


 蔵番の老人が、入口で帽子を取った。春に、配給を減らすのかと怯えて一歩下がった、あの老人だ。今は下がらずに、奥を指さした。


「若様。見てください。奥の壁まで、いっぱいです」


 倉の中は、麻袋の壁だった。床の石は、もうどこにも見えない。雨漏りの黒い筋があった奥の壁は、石工の親方が夏の間に直していて、その前にも袋がぎっしり積み上がっている。


「わしが蔵番になって三十年、こんなに入ったのは初めてです」


 老人は嬉しそうだった。嬉しそうに言ってから、声を落とした。


「……ただ、もう入りません。この先に刈った分は、入れる場所がない。村の者は、自分の家の納屋に積んでますがね。あそこは鼠が出る」


 入れる場所のない麦は、急いで売るしかない。急いで売る者が多いほど、値は下がる。


 倉を出ると、夕方の広場では、麦を売り損ねた荷車が何台も、積み荷をそのまま載せて村へ帰っていくところだった。



                ◇ ◇ ◇



 その夜、執務室にトーマがやってきた。下流の畑の、あの年配の男も一緒だった。


「若様。少し変な話をしに来ました」


 トーマは帽子を手の中で回しながら言った。


「豊作で、困ってます」


 トーマの話はこうだった。村の暮らしには、麦を売った銀貨で買うものがいくつもある。塩。鉄の鍬の刃。冬の靴。灯りの油。それに、来年の種のために取っておく麦とは別に、借りていた牛の礼も払わなければならない。


「麦は、蔵に余るほどあります。でも、麦じゃ塩は買えない。麦を銀貨に替えなきゃいけないのに、その値が三分の二になった」


 年配の男が、低い声で付け加えた。


「孫の冬靴が、もうきつくてね。春までもたない。……麦で靴が買えりゃ、いいんですがね」


 そこへ、ガレスが静かに言葉を挟んだ。


「村では、若様が麦を全部高く買い上げてくださる、という噂も出ております」


「……出ているのか」


「出ております。どなたが言い出したのかは存じませんが」


 噂というものは、いつも一番都合のいい形に育つ。


 ロウェンは、紙に数字を書き出した。


 この秋、領内で穫れた麦は、去年の倍近い。そのうち、冬を越すのに蔵へ入れる分と、来年の種の分を引いても、まだかなりの量が余る。その余った麦を、みんなが同じ時期に、同じ南の町の市場へ持っていく。


 買い手の数は変わらないのに、売り手の数だけが倍になったのだ。値が下がるのは当たり前だった。


 しかも商人たちは、村人が冬の前に銀貨を欲しがっていることを知っている。急いで売りたい者ほど、安く買い叩かれる。


「では、領地で買い上げるか」


 ロウェンが言うと、フィオナが即座に首を振った。


「無理。既定の予算じゃ、全部の麦を先月の値で買ったら、一週間でお金が尽きる。それに、買い上げた麦をどうするの? 蔵はもういっぱいだよ」


「なら、俺が運ぶ。南の町ではなく、もっと遠くの――」


「それも駄目」


 フィオナは、ロウェンの言葉を最後まで言わせなかった。


「ロウェンが大荷車で王都まで麦を運んだら、その年はいいよ。でも来年も運ぶの? 再来年も? ロウェンが王都に呼ばれた年は? ……ハロルドさんに、また言われるよ。『あんたがいなきゃ成り立たない』って」


 ぐうの音も出なかった。


 ガレスが、窓の外の暗がりに目をやったまま、控えめに言い添えた。


「念のため申し上げますが、若様が王都まで荷を引いて歩かれますと、途中の領地の方々が大層驚かれるかと存じます。去年まで、若様は王都への道中、馬車から一歩もお降りにならなかった方でございますので」


「……それは、今は関係ない」


「さようでございますね。失礼いたしました」


 ガレスは失礼したとは少しも思っていない顔で、一礼した。トーマが帽子で口元を隠した。年配の男は、隠しもせずに笑った。


 それに、とフィオナは続けた。


「たくさん運んでたくさん売れば、向こうの市場でもまた値が下がるだけ。同じことが、場所を変えて起きるだけだよ」


                ◇ ◇ ◇


 トーマたちが帰ったあと、ロウェンとフィオナは、机の上に紙を広げたまま、どちらも口を開かなかった。


 戸が叩かれて、ミラが顔を出した。籠を一つ抱えている。


「遅くまで灯りがついてたんで、夜食です。二度焼いたパンなんで、冷めても平気ですよ。南の町の宿じゃ、鉱山帰りのお客さんが、これを袋いっぱい買っていったんです。何日たっても腐らないって」


 ミラは籠を置くと、すぐに帰っていった。宿の台所が、まだ片づいていないのだという。


 フィオナが、籠のパンを一つ取ってかじった。かじろうとした。がり、と鈍い音がして、フィオナは口を押さえた。


「……かたっ」


 涙目のまま、フィオナは手の中のパンを見つめていた。それから、ゆっくり顔を上げた。


「ロウェン。これ、何日たっても腐らないって」


「そう言っていた」


「麦のままだと、どこの村の麦も同じだよね。でも、これなら……」


 ロウェンも、同じところに行き着いていた。麦の値が崩れたのは、みんなが同じ時期に、同じ物を、同じ場所へ持ち込んだからだ。物の形を変えれば、ほかの村の麦とは別の物になる。腐らないなら、売る時期もずらせる。鉱山の者が買うなら、売る場所は南の町の市場だけではない。


「時期と、物と、場所だな」


「うん。三つとも、ずらせる」


 フィオナは、パンを置いて帳面を開いた。その目は、もうトーマたちが帰った時の暗い目ではなかった。口の端に、パンの粉がついていた。


 フィオナのペンが、紙の上で止まらなくなった。蔵をあと一棟。冬の銀貨を誰が出すか。麦をどんな形に変えるか。どこへ持っていくか。一つ書くたびに、その下に「誰がやるか」の線が引かれていく。ロウェンの名前が入った線は、今のところ一本だけで、そこには「蔵の石と梁」とだけ書いてあった。


 ロウェンは、その一本をしばらく眺めていた。一本で十分だと思った。


 フィオナは、ペンを置いた。


 それから、にっと笑って、ロウェンの顔を見た。


「売る先を、作ろう」

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