第20話 小麦袋亭
女は、ミラと名乗った。
ミラの話は、フィオナの質問よりいつも半歩早かった。南の町の宿では、朝は日の出の一刻前に起きてパン種をこね、竈に火を入れた。昼までに二十部屋のシーツを替え、夕方からは台所と帳場を行ったり来たりした。いちばん大変なのは料理でも掃除でもなく、客同士の喧嘩を、宿の中で終わらせることだったという。
「酔っぱらいは、外に出すと町の人と喧嘩するんです。だから宿の中で止める。止め方にはコツがあるんですよ。先に水を一杯出すの」
「……水を」
「喉が渇いてると、人は怒りっぽくなるんです。本当ですよ」
フィオナは帳面に「水を一杯」と書きつけた。ロウェンも、なんとなく頭の中に留めた。
夏に西畑の話を聞いて戻ってきたのは、南の町で手伝っていた宿の主人が年を取って店を畳むことになったからだという。ミラには十歳になる息子がいて、息子を連れて町で暮らし続けるより、故郷で畑を借りて細々とするつもりだったという。ところが戻ってみたら、商人があふれていた。
「畑より、こっちのほうが向いてる気がして」
ミラは、にっと笑った。フィオナが、帳面から顔を上げた。
「息子さんは、宿の仕事を手伝えるの?」
「水汲みと、薪運びと、客の馬の世話なら。あと、客の顔と名前を覚えるのが、あたしより早いんです。二回来た客には、二回目に『おかえりなさい』って言う。それで、南の町の宿の常連が三人増えました」
ロウェンは、また頭の中に書き加えた。常連は、二回目の挨拶で増える。
「その代わり、条件があります」
ミラが出した条件は、全部で七つあった。竈は二つ。井戸は台所のすぐ脇。馬小屋は必ず風下。洗濯場は日当たりのいい裏手。帳場は玄関の正面に置いて、客の出入りが全部見えるようにする。部屋は二人部屋を基本にして、大部屋は作らない。
「大部屋は、喧嘩の元です。知らない者同士を十人詰め込むと、夜中に必ず誰かの財布がなくなる。で、なくなったって騒ぐ人の半分は、自分でどこかに落っことしてる」
そして七つ目。
「宿の名前は、あたしがつけます」
◇ ◇ ◇
建てる場所は、広場の南の角に決まった。井戸が近く、門までも荷馬車ですぐに出られる。
ロウェンは、ミラの条件を図にして、大工と石工の親方に渡した。そのうえで、自分がやる工程を決めた。石切り場から石を運ぶこと、材木を運ぶこと、基礎の穴を掘って、土台の大石を据えること。重く、数が多く、時間を食う仕事だけだ。壁を積むのは石工の親方と弟子、梁を組むのは大工、屋根を葺くのは村の男たち。
基礎の穴掘りは、半日で終わった。
普通なら十人で十日かかると大工が言った穴だった。石切り場から運んだ大石は、村の男たちが「まさか」と言っている間に、全部所定の位置に据わっていた。
「若様」
土台の石を一つ据え終えたところで、ミラが腕を組んで立っていた。
「その石、指一本分、右にずれてます」
「……本当か」
石工の親方が、糸を張って確かめた。本当だった。ロウェンが石を持ち上げて置き直すと、ミラは満足そうに頷いて、次の現場を見に行った。
石工の親方が、ロウェンの横でぼそりと言った。
「あの女将さん、わしより目がいいですな」
「……宿の主人は、そういうものなのか」
「さあ。あの人がそういうものなんでしょう」
ミラが目を光らせていたのは、石だけではなかった。
大工が窓の枠を組めば、窓の高さが大人の目の位置より少し低すぎると言う。寝たまま外が見えると、客は朝寝坊するのだそうだ。弟子が馬小屋の入口を広く取ろうとすると、荷馬車の馬は二頭立てだから、もう半歩広くしろと言う。村の男たちが屋根の石板を運び上げていると、その石板の割れ目を下から見つけて指さした。
三日目には、大工も石工の親方も、図面を描き直す前にまずミラを探すようになっていた。
壁が積み上がり、梁が組まれ、屋根が葺かれていく間、ロウェンは材木と石を運び続けた。二十日目に建物の形ができ、そこから先は、ロウェンの出番はほとんどなかった。竈を据えるのも、窓に板戸をつけるのも、部屋に寝台を入れるのも、全部、手先の仕事だ。ロウェンは、手伝おうとするたびにミラに追い払われた。
「若様が寝台を運ぶと、寝台の脚が折れるんです。さっき一つ折りました」
「……力は加減した」
「加減して、あれなんですね」
ミラは、折れた寝台の脚をロウェンの手に押しつけて、向こうへ行ってしまった。
◇ ◇ ◇
宿は、ひと月と五日で開いた。
看板には、麦の袋の絵が描いてあった。その下に、ミラが自分で決めた名前が書かれている。
――『小麦袋亭』。
「なぜ、その名前なんだ」
ロウェンが訊くと、ミラは看板を見上げたまま答えた。
「この秋、泊まるところがなくて、トーマさんの納屋で麦の袋を枕にして寝てた商人さんたちがいたでしょう。あの人たちに、次はちゃんと寝床で寝てもらおうと思って。……あと、覚えやすいんですよ。『麦袋の宿』って言えば、南の町の人にも通じる」
開いた初日の夜、十三の部屋は全部埋まった。
ロウェンは、様子を見に行った。行ってすぐに、見に来たことを少し後悔した。
食堂は満員で、商人たちが大声で笑い、麦酒の壺が行き交い、豆と玉葱の煮込みの湯気が天井まで立ち込めていた。その中をミラが皿を抱えて走り回り、息子が水差しを持って走り回り、手伝いに雇った村の娘たちがシーツを抱えて走り回っていた。
窓際の卓では、塩を積んできた商人が、仲間に向かって指を折っていた。去年までは、東のハルト領を回って三日。宿場町で二晩泊まって、宿代と橋の通行料を払っていた。今年は峠を越えて一日で、泊まるのはここの一晩だけ。浮いた銀貨で、麦酒をもう一杯頼める。そう言って、本当にもう一杯頼んでいた。
立っていると邪魔になりそうだったので、ロウェンは裏手の井戸に回った。台所の水瓶が、空になりかけていたからだ。
桶を井戸に落として、引き上げて、水瓶に空ける。桶を落として、引き上げて、空ける。腕にほんの少しだけ魔力を通して、それを繰り返す。一回にかかる時間は、普通の人間の四分の一ほど。
水瓶はすぐにいっぱいになり、隣の水瓶もいっぱいになり、洗濯用の大樽もいっぱいになった。
気がつくと、台所の窓から、食堂にいたはずの商人たちが鈴なりになってこちらを覗いていた。
「……あれが、噂の若様か」
「本当に、峠で荷車を引いてたっていう?」
「素手で山を割ったって聞いたぞ」
「割ってない。削っただけだ」
ロウェンが訂正すると、窓の商人たちがどっと笑った。ロウェンとしては、事実を正しただけだった。
ミラが、台所の戸口から顔を出した。
「若様。お気持ちはありがたいんですけど、お客さんが食事そっちのけで窓に張りついちゃうんで。……今夜は、もうお帰りください」
結局追い出された。
領主の息子が、自分の建てた宿から追い出される。前のロウェンなら、この場で宿ごと取り潰していたかもしれない。記憶の中の前のロウェンは、確かにそういう顔をしていた。
今のロウェンは、素直に帰ることにした。帰りがけに裏口の戸が少しきしんでいるのに気づいて、蝶番の具合を見ようとしたら、ミラの息子が走ってきて「それ、明日大工さんが直すって」と言った。ロウェンは、戸から手を離した。
帰り道、ロウェンは振り返って、小麦袋亭の窓の明かりを見た。建てたのは自分だが、あの明かりを灯しているのは、自分ではない。明日の朝も、明後日の朝も、ミラは日の出の一刻前に起きて、パン種をこねるのだろう。
館に戻ると、執務室にまだ明かりがついていた。フィオナが、商人ハロルドから届いた手紙を広げて、難しい顔をしていた。
「ロウェン。ちょっと、これ見て」
差し出された手紙には、南の町の市場の麦の値段が書いてあった。
先月の、三分の二ほどだった。




