第19話 建てるのは早い
刈り入れは、五日で終わった。
西畑の四十ヘクタールと、水が戻った下流の畑。刈った大麦を束ねて畦に並べると、去年までは草の海だった場所が、金色の小山で埋め尽くされた。最後の束を刈ったのはトーマで、村の女たちはその束で、さっそく来年の藁人形を編み始めていた。今年は最初から大きく編むつもりらしい。腰に巻く赤い布も、もう四本用意してあった。
蔵の数字は、刈り入れの五日間で一気に跳ね上がった。フィオナが帳簿に書き込んだ数字を三回見直して、四回目にやっと小さく拳を握ったのを、ロウェンは見なかったことにした。
冬は越せる。ひとまず、それは確かだった。
領都の広場も、この秋はいつもと様子が違っていた。
市の立つ日には、広場の端から端まで荷馬車が並ぶ。南の町の塩売りが樽を叩いて値を叫び、鍋や鋏を並べた鋳掛け屋が、その隣で火を熾している。見慣れない柄の布を売る女がいて、その布の前で村の娘たちが三人、買うか買わないかで半刻も揉めていた。子供たちは荷馬車の車輪の間を走り回り、商人の馬に干し草をやっては小遣いをもらっている。
去年の秋の市は、屋台が四つしか出なかったと、ガレスは言っていた。四つのうち一つは、塩の値が高すぎて、誰も買わずに店を畳んだそうだ。
ロウェンが広場を横切ると、屋台の間からいくつもの視線が飛んできた。村の者の視線は、もうだいぶ慣れた。困るのは南の町から来た商人たちの視線で、こちらはたいてい、ロウェンの顔を見て、肩を見て、腕を見て、最後にもう一度顔を見る。峠で荷車を引いていたという噂を、確かめているらしかった。
問題は、別のところから来た。
「若様。うちの納屋、今夜で七人目です」
トーマが、疲れた顔で執務室にやってきたのは、刈り入れが終わった翌日のことだった。
新しい道ができてから、南の町の商人がひっきりなしに峠を越えてくる。塩や鉄を売りに来るだけではない。刈り入れが終わったと聞きつけて、麦を買い付けに来る者も増えた。ところが領都には宿屋が一軒しかない。それも、年寄りの主人が一人で切り盛りしている、部屋が六つの小さな宿だ。
あぶれた商人たちは、村の納屋に泊まり、馬小屋に泊まり、それでも足りずに、荷馬車の荷台で毛布にくるまって寝ていた。
「納屋に泊めるのは構わないんです。でも、うちの牛が落ち着かなくて乳の出が悪くなるし、夜中に酔っぱらって鶏小屋に入り込む奴はいるし、今朝なんて、女房が朝飯を作ってたら知らない商人が三人、黙って食卓に座ってたんですよ」
「……それは困るな」
「困ります。女房がもっと困ってます」
トーマの後ろで、ガレスが静かに付け加えた。
「宿のご主人も、音を上げておられます。昨夜は廊下にまで客を寝かせたそうで、ご本人は台所の床でお休みになったとか」
そして昨日、塩を積んだ荷馬車が二台、泊まる場所がないと聞いて、領都に入る前に引き返していったのだという。
せっかく通した道を、使わずに帰られる。これは放っておけなかった。
◇ ◇ ◇
「なら、建てればいい」
執務室に戻るなり、ロウェンはそう言って、そのまま続けた。
「峠を越えてくる荷馬車は、多い日で十台。一台に商人と御者で二人。一晩か、長くて三晩。毎晩、三十人から四十人が寝る場所が要る。今の宿は詰め込んで十五人。……二人部屋を十二、三部屋と、馬小屋。石と材木を運んで、基礎を据えて、壁を積む。俺が入れば、ひと月もかからない」
言い終わるまで、ロウェンのペンは一度も紙に触れなかった。
フィオナは、黙って最後まで聞いていた。聞き終えると、何も言わずに自分の帳面を開き、新しい頁の上に四つの見出しを書いた。
部屋の数。場所。お金。
そして最後の一つを、少しだけ大きな字で書いた。
――誰がやるか。
「ロウェン。建てるのは、たぶん一瞬なんでしょうね。ロウェンが入るなら」
「そうだ」
「で、建てたあと、誰が毎朝パンを焼くの?」
ロウェンは、ペンを持つ手を止めた。
「誰が毎日シーツを洗って、誰が竈に火を入れて、誰が帳場で宿賃を受け取って、誰が夜中に酔っぱらいを外に放り出すの? ロウェンが毎晩、帳場に座る?」
「……無理だ」
「うん、無理。というか、ロウェンが帳場にいたら、お客さん逃げるよ。その顔だもん」
反論できずに黙りこくった。フィオナは帳面に線を引いていった。
「部屋の数は、ロウェンの計算でいいと思う。場所は、市の立つ広場から近くて、門にも近いところ。荷馬車を停める場所と、馬に水をやる場所が要るから、井戸のそば。お金は……既定の予算で建てられる。建てるだけならね」
フィオナは、四つ目の見出しの下を、とんとんと鉛筆で叩いた。
「問題は、ここ。宿を回す人がいない。今の宿のご主人はもう七十近いし、跡継ぎもいない。建物だけ建てて、空っぽのまま冬を越すなんて、一番もったいないお金の使い方だよ」
建物は力で建つ。でも宿は、建物だけでは宿にならない。そこに毎日いて、毎日同じことを続ける人がいて、初めて宿になる。
ロウェンの頭にはその事がなかった。石工の親方が水路の岸の石を選り分けてくれた時と、同じだった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、ロウェンはフィオナと二人で、領都の宿を見に行った。
宿は、広場の東側の角にあった。二階建ての古い石造りで、看板の文字はかすれて半分読めない。中に入ると、廊下の突き当たりまで毛布が敷き詰められ、商人の荷物が壁際に積み上げられていた。
年寄りの主人は、台所で大鍋の豆のスープをかき混ぜていた。ロウェンの顔を見ると、お玉を持ったまま、ぎょっとして固まった。
「わ、若様。何か、ご無礼でも……」
「いや、話を聞きに来ただけだ。楽にしてくれ」
主人は、お玉を握ったまま、じりじりと鍋の向こう側へ回り込んだ。鍋を挟んでおけば、少しは安全だと思ったらしい。フィオナが横から「大丈夫です、この人、スープは飲むけど、鍋は投げませんから」と言うと、主人はお玉を握ったまま、鍋とロウェンを何度も見比べた。
主人は、ロウェンとフィオナを交互に見て、それから恐る恐る、この秋の忙しさを話し始めた。客が増えたのはありがたい。けれど一人では朝の支度が間に合わない。洗い物が追いつかない。夜は客の喧嘩の仲裁で眠れない。部屋を増やしてもらっても、この体では、それを回せない――。
「若様が建ててくださるなら、ありがたい話です。でも、わしにはもう無理です。誰か、若いのがいれば……」
主人は、そこで言葉を切った。竈の前の小さな椅子に、どさりと腰を下ろす。
帰り道、広場を横切りながら、フィオナが言った。
「宿の仕事を知ってる人。帳場と台所と客あしらいが分かって、しかもこの町に住んでくれる人。そんな都合のいい人、そうそういないよね……」
建てるのは早い。切り盛りするのは、誰か。
広場の井戸の前を通りかかった時、洗濯物を抱えた女が、二人の前で足を止めた。三十前後の、日に焼けた、背筋のまっすぐな女だった。女は、ロウェンの顔を見ても、少しも怯まなかった。
「若様。宿屋を建てるって話、本当ですか」
「……まだ、決まってはいない」
「宿の仕事なら、あたし、知ってますよ」
女は、洗濯物を抱え直した。
「この冬、南の町の宿で、台所と部屋の番をやってました。――夏に、西畑に水が来たって聞いて、戻ってきたんです」




