第18話 水門
取水口の水門は、斜めに傾いたまま止まっていた。
新しい水路の入口の水門は、夏の初めに大工と鍛冶屋が作ったものだ。厚い樫の板を鉄の帯で継いだ扉が、石組みの両側の溝にはまっていて、上の木の枠に据えた巻き車で、鉄の鎖を巻き上げて開け閉めする。
その鎖が切れていた。
「夜中に、山のほうでまた雨があったみたいで」
水門の上の石の足場で、トーマが説明した。
「明け方に見回ったら川が膨らんでて、水路へ入る水が多すぎたんです。西畑の下の端が、もう浸かり始めてて。それで扉を下ろそうと巻き車を回したら、途中で鎖が切れて、扉が片側だけ落ちちまって」
扉は右側だけが溝の底近くまで落ち、左側は半分ほどの高さで引っかかっていた。斜めになった扉の下の隙間から、濁った水が勢いよく水路へ流れ込んでいる。水路の先、西畑の下の端では、刈り入れを数日後に控えた大麦の畝に、茶色い水が広がり始めていた。
ロウェンの後ろから、ユリウスが足場に上がってきた。眼鏡に水しぶきがついている。
「これは、視察の予定にはありませんでした」
「俺の予定にもない」
◇ ◇ ◇
ロウェンは足場に腹這いになって、扉を上から覗き込んだ。
左の溝に、小石と砂利がぎっしり詰まっていた。先日の大水で川が運んできたものが、溝の奥に溜まっていたのだろう。扉が片側だけ落ちた時、斜めになった角が、その砂利を溝の中でがっちり噛み込んでしまったのだ。
しかも扉は、向こうから川の水に押されている。水の深さは一メートル半ほど、扉の幅は二メートル。水が扉を押す力は、二トンを少し超える。その力で扉が溝の下流側の石に押しつけられているから、砂利を噛んだ角は、なおさら動かない。
「上から押し下げるか」と、騎士を連れて駆けつけたバルガスが言った。
ロウェンは首を振った。
「上から押せば、押した分だけ俺の体が上へ押し返される。踏ん張るには、あの枠に背中を当てるしかない。だが、あの枠は下向きの重さに耐えるように作ってある。上向きに一トンもかけたら抜ける」
大工が、枠の柱の根元をこんこんと叩いて頷いた。
「抜けますね。石に差し込んであるだけですから」
押し下げるのは無理だ。でも持ち上げるなら、重さは全部、足の下の石が受け止めてくれる。
「落ちたほうの角を、一度持ち上げる。砂利から抜けたら、扉が水平に戻る。水平になれば、あとは扉の重さで下まで落ちる」
「持ち上げたら、下の隙間が広がって、水が一気に入るぞ」
「一瞬だ。西畑には、もう入っている」
ロウェンは、扉の右端の上に渡された鉄の帯に、両手をかけた。
雨に濡れた足場の石はつるつる滑った。大工が麻袋を二枚広げてくれる。ロウェンはその上に足を置き、肩幅より少し広く開いた。
膝を曲げ、腰を落とし、背中を伸ばす。握った鉄の帯は冷たく、指の腹に食い込んだ。
魔力を、全身に行き渡らせた。
脚で、石の足場を踏む。腿の前と尻がぎゅっと締まり、踏みつけた力が膝から腰へ、腰から背中へと上がっていく。背中の筋肉がそれを肩まで運び、肩から腕へ、腕から鉄の帯へ流れる。扉に押しつけられた川の二トンと、砂利の噛み込みが、帯の向こうから重く引き返してくる。
腕の骨がみしりと軋む気がした。前腕の、握る筋肉が張りつめ、手の甲に腱が浮く。岩場で柄を三本折った時の感触を思い出す。握りすぎるな。握りすぎたら、力が扉に届く前に手の中で潰れる。
扉の右の角が、溝の中で、わずかに動いた。
ごりっ、と砂利が擦れる音がした。一度動けば、あとは早かった。角が砂利から抜け、右端が十センチほど持ち上がる。斜めだった扉が、水平に近づいていく。
下の隙間から、水がどっと噴き出した。ロウェンの脚に、しぶきが叩きつけられる。
「放せ!」
バルガスの声で、ロウェンは帯から手を離した。
扉は自分の重さで、溝の石を擦りながら真っすぐに落ちた。水の底で、ずん、と鈍い音がする。扉が、溝の底に着いた。
水路に流れ込む水が、止まった。
大工がすかさず、太い角材を扉の上の枠と溝の縁の間に差し込み、木槌で打ち込んだ。これで扉は、上から持ち上げない限り動かない。
◇ ◇ ◇
ロウェンは足場に座り込んで、手を開いた。掌に、鉄の帯の跡が赤く残っていた。
足場の端から水門を見下ろしていたユリウスが言った。
「これで、直ったのですか」
「止まっただけだ。鎖は切れたままだし、溝には砂利が残っている。次に水を入れる時、また同じことが起きる」
ロウェンは、大工と、遅れて着いた鍛冶屋のほうを向いた。
「鎖を作り直してほしい。今のより一回り太い輪で、繋ぎの留め具を倍にする。溝は、砂利が噛まないように内側に鉄の板を張れるか。それと、取水口の上流に、枝や砂利を止める柵が要る」
鍛冶屋は顎を撫でて、しばらく溝を覗き込んでいた。
「鉄の板は張れます。ただ、溝の石を削って幅を合わせる仕事になる。親方を呼んでもいいですか」
「頼む」
「柵は、俺のほうで考えます」と大工が言った。「杭を打って横木を渡すだけなら、三日もあれば」
ロウェンは頷いて、それ以上は何も言わずに任せた。
ユリウスが、帳面に鉛筆を走らせていた。
「若様は、ご自分で直せるところまでを直して、残りを専門の者にお任せになるのですね」
「鎖は打てない。溝の石も削れない。柵をどう組めば枝が止まるのかも知らない」
「そういうことは、会計局の書式には書く欄がないのですがね」
そう言いながらも、ユリウスは書いた一行を消さなかった。
◇ ◇ ◇
ユリウスが王都へ発ったのは、二日後の朝だった。
馬車に乗る前に、ユリウスは玄関の前でロウェンに頭を下げた。
「報告書の要旨をお伝えしておきます。グレイヴ伯爵領における、この半年の取引と工事は、帳簿と現場が一致する。支出は代行の権限の内にある。急な発展は、特定の個人の力のみによるものではなく、領主代行と補佐、家令、騎士隊、石工、職人、領民の役割分担によって、再現可能な形で行われている」
そこまで言って、ユリウスは眼鏡を押し上げた。
「ただし、特記事項が一つ。水路、新道、分水の工事において、極めて高い効率の労働力が一名、投入されている。その算定については、別紙を参照のこと」
「別紙は、何枚になった」
「三枚です」
ユリウスは一礼して、馬車に乗り込んだ。新しい道のほうへ曲がっていく馬車を、ロウェンはフィオナとガレスと並んで見送った。王都の会計局で、三枚の別紙を前に首をひねる役人たちの姿が、目に浮かぶようだった。
馬車が見えなくなってから、ロウェンは上着の懐に手を入れた。
「フィオナ」
振り向いたフィオナに、小さな包みを差し出す。市の日に、糸の店の主人に頼んで取り置いてもらっていたものだ。
包みを開いたフィオナは、しばらく何も言わなかった。中に入っていたのは、あの日、彼女が長いこと手に取って眺めていた、青い糸の束だった。
「……見てたの」
「見ていた」
「買わなかったのに」
「帳簿のために買わなかったのは分かった。だから、俺の食費から引いておいた」
フィオナは糸の束を見下ろしたまま、肩を震わせた。笑っているのか、別の何かなのか、ロウェンの位置からは顔が見えなかった。
「……それ、帳簿のつけ方としては、めちゃくちゃだからね」
そう言って顔を上げたフィオナは、やっぱり笑っていた。
ガレスが、何も見なかったような顔で、すっと玄関の中へ戻っていった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、ロウェンは一人で西畑の畦に立っていた。
水門を閉めるのが間に合って、水に浸かったのは下の端の三畝だけで済んだ。残りの大麦は穂を垂れて、金色になりかけている。刈り入れは、五日後と決まった。
原作のロウェンは、この秋を境に、破滅へ向かい始めた。
この秋の飢えで領民が逃げ始め、空き家に盗人が住みつき、治安が荒れ、三年のうちに領地が立ち行かなくなった。その一つ目の輪が、蔵の二十七日だった。
蔵の数字はもう減っていない。刈り入れが済めば、冬を越せる。
トーマの話では、冬の間に南の町へ出ていった家のうち、二軒が戻ってきたという。西畑に水が来たと聞いたからだそうだ。戻ってきた家の子供が、今日、畦道で棘鼠の話をしていた。魔物まで救った若様の話だった。
破滅の鎖は、一つ目の輪のところで切れた。二つ目の輪も、切れかけている。
畦道の向こうから、トーマが歩いてきた。
「若様。一つ、ご相談が」
「何だ」
「今日の昼に、南の町から来た商人が三人、泊まる場所を探して村まで来ましてね。領都の宿屋が、もういっぱいだって言うんです。とりあえず、うちの納屋を貸したんですが」
トーマは、頭をがりがりと掻いた。
「明日も、もっと来るそうで」




