第17話 帳簿と現場
ユリウスは、帳簿を読む前に蔵を数えた。
扉を開けさせ、麦の袋の列を端から指さしながら歩いていく。全部を数えるわけではない。列の何か所かを選んで、袋の数と、袋に括りつけた木札の番号を書き写す。それから、持ってきたフィオナの帳簿の同じ日付の頁を開いた。
「……合っております」
ユリウスは、それだけ言った。
蔵を出ようとした時、入口の脇にいた蔵番の老人が、帽子を握りしめて、思いきったように声をかけた。
「監察官様。春のはじめに、若様が、配給は減らさないとおっしゃいまして」
ユリウスが足を止めた。
「その通りになりました。一度も、減らさずに済みました。それだけ、王都の偉い方にお伝え願えませんか」
言い終えた老人は、自分の大胆さに驚いたように真っ赤になって、深々と頭を下げた。ユリウスは少しの間老人を見ていたが、やがて帳面を開いて、何かを一行書き加えた。
「お伝えします」
ロウェンは、春の倉の冷たい空気を思い出していた。あの時、根拠もなく口にした言葉を、この老人はずっと覚えていたのだ。
同じ確認を、ユリウスは三日かけて、倉庫、鍛冶屋の帳面、村の雑貨屋の帳面、ハロルドの店の受け取りの控えでも繰り返した。突き合わせるたびに「合っております」と言う。合っていないのは一か所だけで、それもフィオナの数字のほうが雑貨屋の帳面より銀貨一枚分正しかった。雑貨屋の主人が、計算を間違えていたのだ。
監察官の来訪で、いちばん肝を冷やしたのは、おそらく雑貨屋の主人だった。
四日目の朝、ユリウスは帳簿の最初のほうの頁で手を止めた。冬の終わりに、蔵の麦が一度に減っている箇所だ。フィオナの丸い字で「屋根の傷みによる浸水とカビ、損失およそひと月と少し」とあり、その横に小さく「修繕願い三枚、署名なし」と添えてある。
「この三枚の願い書は、今どこに」
「ここにある」
ロウェンは引き出しから、三枚の願い書を出した。春に見つけてから、捨てずに取っておいたものだ。
ユリウスは日付と、空いたままの署名欄を確かめた。
「署名なさらなかったのは」
「俺だ」
ユリウスは顔を上げずに、帳面に何か書いた。それから願い書を返した。
「隠しておくこともできた頁です」
「隠す理由がない。腐った麦は戻らない」
ユリウスはそれ以上何も言わず、次の頁をめくった。
◇ ◇ ◇
五日目は、ガレスの番だった。
ガレスは机に、伯爵の委任状と、伯爵印を収めた小箱を並べた。委任状には、父の署名と、代行に任される事柄の一覧が書かれている。伯爵家の動産の売却。既定予算内の支出。農政、治水、街道と公共の施設の整備。領内の雇用。騎士隊の日常の運用。
ガレスは、ロウェンのしてきたことをひとつずつ項目に照らしていった。胸像と肖像画と絹の上着の売却は、動産の売却。穀物の買い入れは、既定予算と売却で得た金。水路と分水は、治水。峠の新道は、街道の整備。村の男たちの日当は、領内の雇用。
「新しい税も、借金も、領境の変更もございません。旦那様のお許しが要る事柄には、何ひとつ手をつけておりません」
ユリウスは委任状を読み、印を確かめ、帳面に線を引いていった。
「新道の通行料を一年取らない、という取り決めがございますね」
「商人との、ふだんの商いの取り決めでございます。代行のお役目の内と心得ております」
「そう判断いたします」
それからガレスは、委任状とは別の話をした。秋の刈り入れの後に村総出で水路の泥を浚うのが、この領地の昔からの習わしだった。この数年は途絶えていたが、今年はトーマたち西畑の者と下流の畑の者が、一緒にやると決めたのだという。
「若様がお通しになった水路でございますが、守るのは村の者でございます」
ユリウスは、その一文をそのまま帳面に書き写した。
◇ ◇ ◇
六日目、ユリウスはバルガスに連れられて峠へ上った。
切り通しの壁の前で、バルガスは腰の袋から一冊の手帳を出した。表紙は汗と土で黒ずみ、角がぼろぼろに擦り切れている。
「工事の四十四日の間、毎朝、見張りの位置と、笛が鳴ったら走る方向を書いた。岩が滑った日の分もある」
ユリウスは、頁をめくった。字は大きく傾いていて、綴りもところどころ間違っている。だがどの日の頁にも、切り通しの簡単な絵と、見張りの印と、矢印が描き込まれていた。岩が滑った日の頁には、矢印のほかに、太い線で囲んだ一行があった。
――全員、走った。けが人なし。
「……記録が、残っているのですね」
「字は汚えがな」
「読めます。十分に」
ユリウスが手帳の何頁かを写させてほしいと言うと、バルガスは少し迷ってから、頷いた。
ちょうど切り通しの上り坂を、ハロルドの荷馬車が一台、上っていくところだった。御者が二人に気づいて、帽子の縁に指をかける。荷馬車は坂の途中で一度も止まらず、緩い曲がりに沿って切り通しの底まで上っていった。
ユリウスは、荷馬車が見えなくなるまで坂の上を眺めていた。
峠からの帰り道、ユリウスは西畑の脇で馬車を止めさせた。畦で草を刈っていたトーマに、自分から話しかけにいく。何を訊いたのかは、少し離れて馬に水をやっていたロウェンには聞こえなかった。トーマは最初、鎌を持ったまま困った顔をしていたが、やがて畑の端から端までを指さし、丘を指さし、最後に川を指さして、長いこと喋っていた。ユリウスは一度も口を挟まず、ずっと帳面に書き続けていた。
馬車に戻ってきたユリウスに、何を訊いたのかと尋ねた。
「この畑が、いつから、どうして使えるようになったのかを」
「トーマは、何と」
「若様の話は、最初の一言だけでした。あとは、犂の柄を半日ごとに交代した話と、堰板を割り合った二人が今年は一緒に泥を浚う話と、戻ってきた家の話を」
ユリウスは帳面を閉じた。
「帳簿には書いていない話です。帳簿と、合っておりました」
◇ ◇ ◇
七日目の夕方、ユリウスはロウェンに一つだけ質問をした。
執務室の机には、ユリウスが一週間かけてまとめた大きな紙が広げてあった。この半年の工事と取引が一行ずつ並び、それぞれの右に、その仕事を誰が担ったかが書かれている。
「若様が明日お倒れになったら、この領地はどうなりますか」
ロウェンは、紙を見た。
水路――岩を割った者、ロウェン。割る線を引いた者、石工の親方。岸の石を組んだ者、親方と弟子。土の区間を掘った者、村の男二十人。水を分ける決まりを作った者、フィオナ。泥を浚う者、村の者総出。
峠の新道――岩の背を削った者、ロウェン。段取りと安全、バルガスと騎士隊。道を均した者、村の男三十人。坂の傾きを決めた者、ハロルドの御者。通行の取り決め、フィオナ。
分水――真ん中の溝を掘った者、ロウェン。両端を掘った者、トーマと下の集落の男たち。堤防を守った者、バルガスと騎士隊と村の者。避難、フィオナ。
どの行にも、ロウェンの名前はあった。けれど、どの行でも、ロウェンの名前が書かれているのは「割る」「運ぶ」「掘る」の欄だけだった。
「……俺が倒れても、水路は流れる。道も、俺がいない日に荷馬車が通れることはハロルドが確かめた。分水の川筋は、もう川になっている」
ロウェンは、紙の上のいちばん右の列を指でなぞった。
「倒れた日から、新しい岩が割れなくなる。それだけだ」
ユリウスはその答えを帳面に書いてから、ロウェンの顔を見た。
「承知いたしました。明日、最後に新しい水路の取水口を拝見して、それで視察を終えます」
ユリウスは紙を丁寧に畳んで、鞄にしまった。
◇ ◇ ◇
翌朝、まだ日が昇りきらないうちに、館の扉が乱暴に叩かれた。
トーマだった。西畑から走ってきたらしく、ぜえぜえと肩で息をしている。
「若様! 取水口の水門が、動きません!」




