第16話 監察官は全部見る
封書の中身は二枚だった。
一枚目は、王都の会計局からの通知だった。グレイヴ伯爵領において、この半年、通常の領地経営の範囲を大きく超える取引と工事が行われたとの報告があった。ついては帳簿と現場の一致を確かめるため、会計局付きの監察官を一名派遣する。到着は、およそ十日後の見込み。
二枚目は、療養中の父からの短い手紙だった。
――監察が来る。隠すことがなければ、何も恐れることはない。あるなら、今のうちに私に書いて寄越せ。
父の字は、記憶にあるものより少し細く、震えていた。そして手紙の最後に、追伸が一行だけあった。
――ガレスの便りで、お前が毎朝執務室に座っていると聞いた。それが本当なら、この監察は、お前の最初の試験になる。
ロウェンは、その一行を何度か読み返した。
この手紙を書いた男のことを、ロウェンはほとんど知らない。記憶にあるのは、馬上の大きな背中と、食卓の向こうの厳しい横顔くらいだ。褒められた記憶も、叱られた記憶も、ほとんどない。前のロウェンのほうが、父と口をきくのを避けていたらしかった。火も灯せない息子を、この父がどんな目で見ていたのか。記憶は、そこだけ目を伏せていた。
その人が、王都の治療院の寝台の上で、震える手で「お前が執務室に座っている」と書いている。
自分が本当の息子ではないことを、この人は知らない。知らないまま、ひょっとしたら喜んでいるのかもしれない。それが胸のどこかに、小さな棘のように引っかかった。
◇ ◇ ◇
「通常の範囲を大きく超える取引、というのは」
ロウェンが訊くと、ガレスは机に紙を一枚置いた。ガレスが自分で書き出した、この半年の出来事の一覧だった。
伯爵家の動産の売却。南の町からの大量の穀物の買い入れ。西畑の開墾。岩場を割っての水路の新設。峠の尾根を切り通しての新道。そして、昨夜の分水。
……並べてみると、我ながら落ち着きのない半年であった。
「半年前まで、この領地の帳簿は、年に一度、麦の出来と税の額を書くだけのものでございました。それが春から、毎月のように大きな数字が動いております。南の町の古物商に伯爵家の品が一度に何十点も持ち込まれたことも、王都まで聞こえておりましょう」
「悪いことはしていない」
「さようでございます。ですから監察官は、悪いことをしていないかどうかを確かめに参られるのです」
ガレスは一覧を綴じ込みに挟んだ。
「念のため申し上げますと、若様がなさったことは、いずれも旦那様からお預かりした代行のお役目の範囲内でございます。委任状と伯爵印は、わたくしがお預かりしております」
机の向こうで、フィオナが帳簿の束を膝に載せていた。
「帳簿は、全部揃ってる。春からの分は、私が毎日つけてた。……ただ」
「ただ?」
「ロウェンの分の数字が、たぶん、監察官さんをすごく困らせると思う」
その夜、ロウェンは父へ返事を書いた。
――隠すことはありません。春からの取引と工事は、すべて帳簿に残してあります。ただ一つ、冬の終わりに蔵の屋根の修繕願いに署名せず、麦をひと月と少し腐らせました。それは私の落ち度です。監察官にも、そのまま見せます。
読み直して、何か付け加えようとして、やめた。最後に、父の体を気遣う言葉を、ひとことだけ書き足した。
◇ ◇ ◇
監察官は、十日後の昼に来た。
小さな馬車から降りてきたのは、三十前後の細身の男だった。地味な灰色の上着に、銀縁の眼鏡。手には革の鞄がひとつ。御者のほかに、供は連れていない。
「王都会計局付き監察官、ユリウス・フェインと申します。このたびは、帳簿と現場の一致を確認するために参りました。ご協力をお願いいたします」
声は低く、平らだった。
「グレイヴ伯爵の代行、ロウェン・グレイヴだ。必要なものは何でも見てくれていい」
ユリウスは軽く頭を下げた。下げながら、眼鏡の奥の目が、ロウェン、ガレス、フィオナ、玄関脇のバルガスへと、順番に動いていく。品定めする商人の目にも、脈を数える医者の目にも似ていた。
「新しい道を通ってまいりました。報告では、あの切り通しの工期が四十四日となっておりました。石工の見積もりの、およそ三十分の一です。報告の書き間違いだろうと思っておりましたが――」
ユリウスは、ほんの少しだけ間を置いた。
「切り通しの壁には、四十四日分の新しさしかございませんでした」
褒めているのか、疑っているのか、声からはさっぱり読み取れない。
「では、さっそく」
「お部屋で休まれてからでも」とガレスが言いかけた。
「いえ。まず現場を拝見したい。帳簿は、現場を見てから読むほうが早いのでね」
ユリウスは鞄から一枚の紙を取り出した。王都に届いた報告の写しだ。
「報告の中で、最も不自然な項目から伺います。春に行われた水路の新設工事。岩場の掘削、百二十メートル。工期、十二日。これを見せていただけますか」
◇ ◇ ◇
岩場の掘り割りの前で、ユリウスは長いこと立っていた。
割られた岩の壁に手を当て、楔の跡を指でなぞる。鞄から細い巻き尺を出して、幅と深さを何か所も測り、数字を小さな帳面に書き込んでいく。呼んでおいた石工の親方には、岩の硬さと、普通の石工が一日に割れる量を訊いた。親方は、春にガレスに言ったのと同じことを答えた。
ユリウスは帳面の数字を見下ろした。
「この掘削に従事した人夫は、何名ですか」
「石工の親方と、弟子が一人。岩を割ったのは俺だ」
ユリウスの鉛筆が止まった。
「……若様が、監督なさった、という意味で」
「いや。槌を振ったのが俺だ。割れた岩を運び出したのも」
ユリウスは顔を上げて、ロウェンを見た。眼鏡の奥の目の動きは、玄関の時と同じ速さだった。
「人夫、一名」
ユリウスはそう書いた。
「工期十二日。掘削量、およそ四百八十立方メートル」
書いて、しばらく帳面を見つめていた。
「……一名が一日あたり、四十立方メートルの岩を割ったことになります」
「そうなる」
「石工の親方の仰る数字の、百倍を超えます」
「石工は、楔を何百回も叩く。俺は一回か二回だ」
ユリウスは、鉛筆の尻で帳面をとんとんと叩いた。
「若様。この数字を会計局にそのまま出しますと、書き間違いとして差し戻されます。桁が二つ違う、と」
「間違いではない。全て正しい」
「承知しております。今、目の前で拝見しました」
声は、少しも変わらなかった。変わらないまま、ものすごく困っていた。
「では、この工事の人件費は」
答えたのは、フィオナだった。
「若様の分は、ゼロ。親方と弟子には、日当を払ってる。帳簿の、水路工事のところ」
「若様の労賃が、ゼロ」
「食費は出てるよ。別の行で」
フィオナは帳面の一冊を開いた。頁の端に、小さな字で、毎日一行ずつ同じ見出しが並んでいる。
若様 食費。
ユリウスは、その行を上から下まで黙って読んだ。
「……開墾の頃から、ずっと続いておりますね」
「牛八頭の飼い葉代よりは、安いよ」
ユリウスは眼鏡を押し上げた。それから、春から一度も止まらずに西畑へ流れ続けている、掘り割りの底の水をしばらく見下ろしていた。
「若様。会計局には、人夫を雇えば賃金が、牛を使えば飼い葉代が帳簿に出てくる、という前提がございます。賃金も飼い葉代も出ないのに何百人分もの仕事が済んでいる帳簿は、会計局の人間にとって、不自然なのです。そして不自然な帳簿は、たいてい何かを隠しております」
「隠していない」
「ええ。ですから、私が困っております」
ユリウスは帳面を閉じた。
「隠していないことを、隠していない帳簿として王都に説明する方法を、これから考えます。そのためには、材料が要ります」
そして、ロウェンにまっすぐ向き直った。
「明日から、帳簿を拝見します。一切合切、全部です」




