第15話 夜明けまでに
「全部を掘る必要はない」
松明の明かりの下、土の高まりの上に集まった男たちは、四十人ほどだった。下の集落の男たち、領都から駆けつけた者たち、それに騎士隊。トーマの顔もあった。西畑から、雨の中を一時間かけて歩いてきたらしい。
「幅一メートル半、深さ一メートル二十で、端から端まで溝を通す。水が流れ始めれば、あとは水が勝手に溝を削って広げてくれる。俺たちが掘るのは、水の通り道の最初の一本だけだ」
「一本だけって、三百メートルあるんだろ」と、誰かが言った。
「ある。真ん中の二百四十メートルは俺が掘る。両端の三十メートルずつを、みんなに頼みたい」
男たちが、ざわざわと互いの様子をうかがった。松明の火が雨に叩かれて、じりじりと音を立てている。
「川に近いほうの端は、最後まで一メートル残す。それが栓だ。溝が全部つながってから、栓を抜く。先に抜いたら、掘っている最中の溝に水がなだれ込む」
バルガスが前に出た。
「組を分けるぞ。東の端に十五人、西の端に十五人、残りは堤防で袋積み。一時間ごとに入れ替える。溝の中で足を取られたら、すぐ声を出せ。松明持ちは、溝の縁から二歩下がって立て。縁は崩れる」
言い終わるが早いか、バルガスは男たちの名前を次々に呼んで、指で組に振り分けていった。騎士が一人ずつ、各組の頭につく。こういう夜のために、この男は騎士隊長をやっているのだろう。
◇ ◇ ◇
ロウェンが手にしたのは、村の鍛冶屋が夕方までに打ち上げた大きな鋤だった。畑を起こす犂とは別物で、刃の肩を足で踏んで土に沈める、掘るための道具だ。刃の幅は普通の倍、柄は太い樫で、握りにはしっかり麻紐が巻いてある。石工の弟子の教えを、鍛冶屋に伝えておいたのだ。
土は、岩とはまるで勝手が違った。雨を吸った泥混じりの土に、刃は柔らかく沈む。そのかわり、すくった土は水を含んでずっしり重い。欲張って一度にたくさんすくうと、刃の上で崩れて半分が溝に戻ってしまう。
だから、すくう量は刃に載る分だけと決めた。
刃を突き立て、刃の肩を足で踏んで沈める。膝を曲げて腰を落とし、すくった土の重さを腿で受けてから、胴をひねって溝の外へ放る。放るのは腕ではない。腰の回転が肩に伝わり、肩が腕を振り、腕は最後に刃を返すだけだ。一回に放る土は、百キロに少し足りない。
それを、三秒に一回。
ざっ、ばさっ。ざっ、ばさっ。
松明持ちの若い男が、ロウェンの手元に見とれて、松明を下げるのを忘れていた。騎士が後ろから、その腕をそっと下へ引いた。
最初の一時間が過ぎた頃、東の端で悲鳴が上がった。
鋤を放り出して駆けつけると、溝の中で男が一人、腰まで泥に埋まっていた。掘りかけの壁が、雨を吸って丸ごと崩れ落ちたのだ。男は必死に両手で泥を掻いていたが、掻いたそばから、崩れた土が重く締まっていく。顔が真っ白だった。
その顔に、見覚えがあった。西畑の石垣で、狩りの馬の話をしたあの若い男だ。トーマと一緒に、雨の中を来ていたらしい。
「動くな。息だけしてろ」
ロウェンは溝に飛び降り、男の腰の周りの泥を両手ですくっては外へ放った。鋤を使えば男の脚を傷つけるかもしれない。指先で泥を探って膝の位置を確かめ、その前から順にかき出していく。上から騎士が男の脇に綱を回し――片脚が抜け、もう片脚が抜けた。
引き上げられた男は、溝の縁で四つん這いになって咳き込み、それから泥だらけの両手で、ロウェンの手をぎゅっと握った。何か言おうとしているのに、歯の根が合わなくて言葉にならなかった。
壁を垂直に掘っていたのが悪かった。濡れた土は、急な角度では保っていられない。ロウェンは両端の組に、溝の断面を逆さの台形にするよう伝えさせ、自分の受け持ちの区間も同じ形に掘り直した。掘る量は増えるが、崩れた土をすくい直す手間はなくなる。
一時間で、四十メートル進んだ。
腿と背中の疲れは、犂を引いた十四日のうちの一日分くらい。腕は、岩場の十二日よりずっと楽だ。鋤の柄も、まだ折れていない。
夜半を過ぎた頃、ロウェンは溝の縁から堤防のほうを見た。松明の列が堤防の上に並び、袋を担いだ人影が明かりの間を行き来している。杭の刻みを読み上げる声が、雨の中を途切れ途切れに届いた。三時間前より、上がる速さはさらに増していた。
溝に戻ろうとした時、堤防のほうで怒鳴り声が上がった。曲がりのいちばん外で、堤防の裾がまた崩れたのだという。
ロウェンが鋤を置きかけると、溝の縁のバルガスが首を振った。
「お前は掘れ。堤防は俺が行く」
「裾が崩れたなら、重い袋を――」
「袋は四人で担げる。溝は、お前しか掘れねえ」
バルガスは松明を一本ひったくって、堤防へ走っていった。走りながら、堤防組の男たちの名前を次々に怒鳴っていた。
◇ ◇ ◇
溝の両端から、鋤の音がだんだん近づいてきた。
東の端はトーマが先頭で、西の端は下の集落の年配の男たちが掘っていた。泥だらけの顔が、溝の中からロウェンを見上げて、にやっと笑う。誰かが笑うと、つられて何人かが笑った。雨の中で何がおかしいのか、誰も説明しなかった。
溝は、西の栓の一メートルを残して、端から端までつながった。東の端は、もう昔の川筋の窪みに届いている。
残るは、栓だけだ。
川岸と溝を隔てる、厚さ一メートルの土の壁。その向こうでは膨れ上がった川が、壁の上端すれすれまで迫って渦を巻いていた。
「俺が崩す。全員、溝から上がれ」
戻ってきていたバルガスが、太い綱をロウェンの胴に回して結んだ。綱の反対の端は、騎士三人が溝の縁で握っている。
「崩したら、水が来る前に上がれ。上がれなかったら、こっちで引く」
「引かれたら、肋骨が折れる」
「折れても、流されるよりましだ」
ロウェンは結び目を確かめて、溝の底に降りた。
栓に鋤を突き立てる。一度目で、上の三分の一が崩れた。隙間から、茶色い水が細く噴き出す。二度目で、半分が崩れた。水が細い滝になって流れ込み、足首が浸かり、見る間に膝まで上がってくる。
三度目に鋤を振り上げるより先に、栓が自分から崩れた。
水が、来た。
どっ、と腰を叩かれた。足元の土が一瞬で持っていかれる。胴の綱がぴんと張る。ロウェンは流れに逆らわず、溝の壁に向かって身を投げて、斜面に足をかけた。台形に掘った斜面が、そのまま足場になった。騎士たちが綱を引き、ロウェンは斜面を駆け上がるようにして、溝の縁に転がり出た。
振り向くと、溝はもう溝ではなかった。
栓のあった場所から、川の水が太い帯になって押し寄せていた。流れが溝の壁を削り、削った土を呑み込みながら、見る間に幅を広げていく。一メートル半が三メートルになり、五メートルになる。濁った水が草地を割って、昔の川筋の窪みへ、東へ、真っすぐに駆けていった。
水は、自分で自分の道を広げていた。祖父の代に追い出された古い寝床へ、川が帰っていくみたいだった。
◇ ◇ ◇
夜明けは灰色だった。雨は、いつの間にか止んでいた。
堤防の上で、騎士が杭の刻みを読み上げた。
「……下がってます。十分で、二センチ」
座り込んでいた男たちの何人かが、顔を上げた。誰も歓声は上げなかった。上げる力が残っていなかった。
曲がりの内側の草地を、昔の川筋が一本の新しい川になって横切っていた。茶色い水がその川筋を東へ流れ、下流で元の川と合流している。曲がりの外の堤防に押しつけられていた水は、目に見えて勢いを失っていた。堤防の裾は痩せていたが、切れてはいなかった。
高台の粉屋の倉から、集落の年寄りと子供たちが下りてきた。先頭で、泥だらけの雨具のフィオナが、年寄りの一人の手を引いている。手を引かれている老婆の腕には、鶏の籠がひとつ、しっかり抱えられていた。
堤防の上の男たちは、泥だらけの顔で、自分たちの家を見下ろしていた。東の端を掘った者も、西の端を掘った者も、一晩じゅう袋を積んだ者も、同じ泥をかぶって並んでいる。トーマが、隣に座った下の集落の男の肩を叩いた。叩かれた男が何か短く言い返して、笑った。
泥だらけの若い男が、ロウェンの前にやってきた。溝から引き上げた、あの男だ。しばらく足元を見て、何か言いかけてはやめるのを三回ほど繰り返してから、ようやく口を開いた。
「……来年の春。犂の柄、俺にも握らせてください」
「ああ、頼む」
「冬麦のことは、それで帳消しです。……俺のほうの、帳消しです」
若い男はそれだけ言うと、耳まで赤くして、走って人垣の中へ逃げていった。
入れ違いに、トーマが横に来て、泥だらけの顔で、小さな声で言った。
「若様。村の賭け、今朝でお開きになりました」
「賭け?」
「若様の気まぐれがいつまでもつか、ってやつです。春からずっと続いてたんですが……最後は全員、『ずっと』に張っちまったんで。勝負になりません」
トーマは、少しだけ笑った。石垣一つ分の距離は、今となってはもうどこにもなかった。
ロウェンは、胴に巻いたままだった綱をほどいた。濡れた服の下の脇腹に、赤く綱の跡が残っていた。
昼過ぎ、館に戻ると、ガレスが玄関で待っていた。
その手に、一通の封書があった。封蝋に押された印は、ロウェンの記憶にもあった。
王家の紋章だった。




