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理論上、肉体で解決します ~悪役貴族に転生した頭脳派、計算するとだいたい自分が重機になる~  作者: にじいろウニ


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第14話 雨

 雨は、四日目に入っていた。


 最初の二日は、畑にとってありがたい雨だった。刈り入れ前の大麦が穂を重く垂らし、豆の葉が濡れて光っていた。ところが三日目の朝、西畑の取水口で、ロウェンは川の色が変わっていることに気がついた。澄んだ緑色だった水が、濁った茶色になっている。


 四日目の昼、下の集落から使いが来た。


 領都の東で、川は南へ大きく膨らむように曲がっている。その曲がりの外側、南岸の低地に、二十軒ほどの家が寄り集まった集落がある。家々と川の間には、曲がりに沿って土の堤防が一本、弧を描いていた。


 使いの若い男は、雨具の裾から水をぼたぼた滴らせながら言った。


「堤防の上から手を伸ばせば、水に触れるところまで来てます」


                ◇ ◇ ◇


 ロウェンが堤防に着いたのは、日が暮れる少し前だった。


 雨は小降りになっていたが、止んではいない。川は、ロウェンの知っている川とは別物になっていた。幅が倍近くに膨れ上がり、濁った水がごうごうと唸りを上げている。折れた木の枝や、どこかの畑の柵の板が、渦に巻かれて浮いたり沈んだりしながら流れていく。普段は大人しく畑に水を分けてくれる川が、今は何もかもを丸呑みにするつもりでいるように見えた。


 集落の真ん中の見張り台で、誰かが半鐘を打ち鳴らしていた。カン、カン、カン、と三つ打っては止み、また三つ。雨音にかき消されそうな細い音だ。家々の戸口から濡れた顔が次々に覗き、鶏小屋の戸を打ちつける男、干していた麦藁を慌てて取り込む女、泣く赤ん坊を布でくるみ直す母親が、それぞれ川のほうを一度だけ見て、目を逸らすように自分の手元の仕事へ戻っていく。


 堤防の上に立つと、確かに、しゃがめば水面に手が届いた。


 先に来ていたバルガスが、騎士三人と一緒に集落の男たちを指図していた。土を詰めた麻袋が、堤防の上に並べられている。


「低いところから袋を積んでる。けど袋が足りねえ。館からも運ばせてるが、詰める土を掘る場所が、もう水浸しだ」


 ロウェンは堤防の上を歩いた。堤防は曲がりの外側に沿って四百メートルほど続いている。曲がりのいちばん外側、流れがまともにぶつかる場所で足を止めると、濁った水の中で堤防の裾の土が崩れて、渦に呑まれていくのが音で分かった。


 川は、曲がりたくて曲がっているわけではない。真っすぐ流れようとする水が、曲がりの外側の岸に押しつけられて、そこを削りながら向きを変えているのだ。水が増えれば、押しつける力も、削る速さも増す。


「ここが、いつも切れる場所か」


 後ろにいたガレスが答えた。雨具の下の黒い上着には、洪水の夜でも皺ひとつない。


「さようでございます。わたくしの知る限り、この五十年で三度、この曲がりの外で堤防が切れております。そのたびに村の者と騎士隊とで土を盛り、元どおりに直してまいりました」


「元どおりに直すから、また同じ場所で切れる」


 ガレスは返事をしなかった。否定もしなかった。


                ◇ ◇ ◇


 ロウェンは水位を測ることにした。


 騎士に頼んで、堤防の内側の水際に杭を打ち込んでもらう。杭には十センチごとに刻みを入れておいた。館から持ってきた砂時計を二つ使い、十分ごとに、水面が杭のどの刻みにあるかを読む。


 最初の一時間で、水は八センチ上がった。二時間目は、九センチ。三時間目は、十一センチ。


 刻みを読んでいた若い騎士が、三時間目の数字を告げてから、ロウェンを振り返った。


「若様。これ、だんだん速くなってませんか」


「ああ。なっている」


 騎士はごくりと唾を呑んで杭に向き直り、濡れた砂時計を外套の裾で拭ってから、ひっくり返した。


 上流の山に降った雨が、遅れて集まってきているのだろう。雨が小降りになっても、川はまだ膨らみ続ける。


 堤防のいちばん上から水面まで、今はおよそ七十センチ。上がる速さが一時間に十センチ、十二センチと増えていくなら、水が堤防を越えるのは六時間後――夜明けの少し前だ。土嚢を積めばその分だけ時間は稼げるが、曲がりの外で削られている堤防の裾は、その間にもどんどん痩せていく。


「袋を積み続けて、朝までもつか」とバルガスが訊いた。


「高さはもつかもしれない。裾がもたない」


 杭のそばを離れて集落の中を抜けていく途中、ロウェンは一軒の家の前で足を止めた。


 腰の曲がった老婆が、戸口の柱にしがみついていた。その前でフィオナが膝をつき、老婆と目の高さを合わせている。


「お婆ちゃん、鶏は全部、倉に連れていくから。籠も、うちの騎士さんが担ぐ。水が引いたら、真っ先にここまで送ってくる。約束する」


「この家は、じいさんが建てたんだよ」


「うん。だから、戻ってくるの。家はここに置いていって、お婆ちゃんだけ、今夜は高いところで寝よう」


 老婆は長いこと柱を離さなかった。フィオナは急かさなかった。やがて老婆の手が柱から離れ、フィオナの袖をぎゅっと掴んだ。フィオナは立ち上がると、振り返りもせずに騎士を呼んだ。


 ロウェンは声をかけずに、その場を離れた。自分が口を挟めば、あの柱からやり直しになる気がした。


                ◇ ◇ ◇


 ロウェンは、曲がりの内側に目をやった。


 川が南へ膨らんで作った曲がりの内側には、家のない草地が広がっている。夏の間、集落の牛を放していた牧草地だ。その真ん中を、細長い窪みが一本、東西に横切っていた。窪みには雨水が溜まって、細長い池のようになっている。


「ガレス。あの窪みは何だ」


「昔の川筋でございます。わたくしの祖父の代に大水がございまして、それまであそこを真っすぐ流れていた川が南へ向きを変え、今の曲がりができたと聞いております。窪みの東の端は、今も曲がりの下流で川に通じております。西の端は……」


 ガレスは、草地の西の端を指さした。


「あの辺りで、土手のように盛り上がった土に塞がれております。大水が運んできた土砂が溜まったものだそうで」


 川の上流側、曲がりが始まる手前から、窪みの西の端まで、低い土の高まりが続いていた。雨にけぶって長さがよく分からない。ロウェンはバルガスに松明を持たせて、二人で高まりの上を歩いた。


 四百三十歩。三百メートルほど。高さは、いちばん高いところで人の背丈くらい。


「ここを切れば、川の水の一部が、昔の川筋に抜ける」


 高まりの上に立って、ロウェンは言った。


「真っすぐな川筋だ。水はそっちへ流れたがる。曲がりに行く水が減れば、堤防の裾を押す力も減る。水が引いてから堤防を直しても、次の大水でまた同じ場所が切れる。でも昔の川筋を開けておけば、次からも水はそっちへ逃げる」


 バルガスは松明を掲げて、高まりを端から端まで見渡した。


「三百メートルを、今夜掘るってのか」


「掘らなければ、朝までに堤防が切れる」


「村の連中は」


「全員要る」


 堤防のほうから、フィオナが駆けてきた。雨具の頭巾がずり落ちて、髪が額に貼りついている。


「年寄りと子供は、高台の粉屋の倉へ移し始めた。それで、ロウェンは何をするの」


 ロウェンは、黙って高まりを指さした。


 それから、杭のほうを振り返った。刻みを読み上げる騎士の声が、雨音の向こうから途切れ途切れに聞こえてくる。十分前より、また一つ上がっていた。


 水が堤防を越えるまで、六時間を切った。


 夜明けまでに、三百メートル。

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