近づく不安
結奈は、何の取り柄もない、ごく普通の人間だった。
強いて言うなら、人から必要とされることとは縁がなく、「特別」と呼ばれたことなど一度もない人生。
それが結奈という人間だった。
だが、その人生はある日突然終わりを告げる。
レミーラ王国の聖女、メルーナ・ヌ・ティアラーが禁忌魔法を行使し、二人の魂は入れ替わった。
気が付けば結奈は聖女となり、人々から愛され、敬われ、守られる存在になっていた。
最初は戸惑った。だが、誰かに必要とされる温もりは、ずっと求めていたものでもあった。
だから少しだけ嬉しかった。
しかし……その喜びは、長くは続かなかった。
愛されるほど、苦しくなった、期待されるほど、息が詰まった。
だって、誰もが見ているのは結奈ではない。
聖女、メルーナなのだから。
そして聖女として一年が過ぎた頃。
隣国フメル王国の国王、ヴィリデルーネ・クーイによって攫われ、数か月にも及ぶ監禁生活を送ることになった。
あの頃は、本気で死を考えた。
何度も、何度も、それでも死ねなかった。
そして皮肉なことに、この世界の中でヴィリデルーネだけは結奈の正体に気付いた。
そう、彼は見抜いたのだ、目の前にいるのはメルーナではないということに。
結果、リデルだけが本当の意味で、結奈を見つめるようになってしまった。
しかし、結奈には最後まで、その理由は理解できなかった。
その後、リリーナ・ルイルを中心としたレミーラ軍によって結奈は救われ、神々の裁きも信じられないことに乗り越えた。
そして、結奈は神から新たな使命を授かる。
レミーラ王国だけではない、これからはフメル王国でも聖女として祈りを捧げること。
二柱の神を支える、唯一の聖女として生きること。
あまりにも濃すぎる出来事が短期間で押し寄せたせいか、結奈は時折、自分の人生を他人事のように感じることがあった。
まるで誰かの物語を眺めているような、不思議な感覚だった。
そして季節は巡り、結奈は二度目の二十歳を迎えていた。
「……聖女って、本当に自由がないんだなぁ~」
手入れの行き届いた庭園を眺めながら、結奈は小さく呟く。
責任、期待、信仰。そのすべてを背負い続ける毎日。
「……メルーナさんも、逃げたくなるよね…」
結奈はメルーナを責めるつもりはなかった、同じ立場になった今だからこそ、その苦しさが理解できてしまうからだ。
結奈は視線を花壇へ移す。色とりどりの花が風に揺れていた。
「……ロセさんみたいに、ガーデニングでも始めてみようかな」
穏やかな時間くらい、自分にもあっていい。
結奈はそう思えるようにはなっていた。
それに、結奈を長い間支えてくれたロセも、もうすぐティアラー家を離れる。
ロセは恋人だったグイユと互いの想いを確かめ合い、先日、晴れて夫婦となった。
ロセは本当はこのままティアラー家のメイドとして働き続けたいと言っていた。
けれど、代々王家を護るロット家へ嫁いだ以上、それは許されなかった。
グイユ自身は「ロセの好きなように生きてほしい」
そう言っていたらしい。
けれど現実は、それほど簡単ではない。
家柄も、立場も、人の人生を決めてしまう。
「……難しいな」
結奈は静かに息を吐く。
結婚、幸せの象徴だと言う人もいれば、人生の墓場だと言う人もいる。
どちらが正しいのかは分からない。
ただ一つ分かるのは。
「……私にも、もうそろそろ話が来るんだろうな」
最近の周囲の様子は、あまりにも分かりやすかった。
ルイゼンは目が合うたびにどこか落ち着かず、何かを決意したような顔をしている。
城のメイドたちは妙に嬉しそうで、結奈を見るたびに微笑み合う。
そしてリリーナだけは、何か言いたそうな顔をしながら黙っている。
極めつけは新聞だった。
『時期国王陛下、宝飾店へ頻繁に来店!?』
そんな見出しと共に掲載された写真に写っていたのは、誰がどう見てもルイゼン本人だった。
さらに最近は、好きな花、好きな色、好きな景色などを遠回しに聞かれることまで増えた。
「……隠せていると思ってるのかな」
結奈は苦笑が漏れる。
少なくとも結奈には全部伝わっていた。
「……でも」
その笑みはすぐに消える。
「私じゃないんだよ」
ルイゼンが愛しているのは本当のメルーナ。
結奈ではない。
ルイゼンの優しさは眩しすぎた。結奈は向けられるたびに胸が痛くなる。
受け取る資格がないような気がしてしまう。
「もし全部知られたら……どうなるんだろう」
偽物だと知られたら、聖女ではないと知られたら。
この愛情は消えるだろうか。
それとも…
「……考えても答えは出ないか」
結奈は小さく首を振る。
戻れない、この身体も、この人生も。
だから前へ進むしかない、結奈は空を見上げた。
雲一つない青空だった。
「……そういえば」
ふと、昔の記憶が脳裏をよぎる。
「私……入れ替わる直前まで、何をしてたんだっけ」
思い出せそうで、思い出せない。
その記憶だけが、白い霧の向こう側に取り残されていた。
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