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怪人はプリマドンナを愛した

石造りの牢は、息をするたび肺まで冷えていくようだった。

結奈(ゆいな)は壁にもたれたまま、震える指で口元を押さえる。

ストレスが原因だろうか?吐き気が止まらない。


「……っ……」


涙がぽたり、と床へ落ちる。その時だった。


重い鉄扉が、ゆっくりと開く。

暗闇から現れたのは、黒い服を身に纏ったリデルだった。


足音一つも立てずにやって来たその姿は、まるで誰もいない劇場を歩く"怪人"のように静かで、美しかった。


「……もう、諦めては?」


静かな声だった。怒鳴るでもなく、笑うでもない。

その落ち着きが、かえって恐ろしかった。


結奈は肩を震わせながら立ち上がる。脚に力が入らない、それでも結奈は立ち上がる。


そんな結奈にリデルは淡々と続ける。


「時間がありません、私の王国が崩れる前に祈ってください、そうすれば、これ以上苦しまずに済みますよ」


結奈は震える唇を噛んだ。怖い、怖くて仕方がない。

目の前の男は簡単に自分を壊せる存在。


それでもどうせ、この先も地獄しか待っていない、だったら、もう……


その瞬間だった。


パチン!


乾いた音が牢獄へ響いた。


そして、その音に結奈自身が一番驚いていた。


「……え……」


そう、叩いたのだ。自分が、リデルを。


「ご、ごめ……!」


結奈は謝罪の言葉が喉まで出る。けれども涙ばかりが溢れて、声にならない。


リデルも動かなかった。

ただ頬へ手を添え、信じられないものを見るように結奈を見つめていた。


「……私を」


リデルは小さく呟く。


「叩いたのですか…?」


結奈は謝るように首を縦に振った。震えが止まらない。


「す……すみません……違うんです……

いや、違わないですね……」


自分で言いながも自分で結奈は苦笑する。


「もう……どうでもよくなっちゃって……」


涙がぽろぽろと落ちる。


「どうせ殺されるなら……最後くらい……思ったこと言っても……」


声は震え続けていた。それでも、不思議と口だけは止まらなかった。


結奈は怯えたままリデルを見る。

その左右の色が違う瞳を見た瞬間、結奈の胸がざわつく。


だって、結奈はその目を知っているから。


鏡の中で何度も見た、追い詰められた人間の目。


「……あ」


結奈は思わず声が漏れる。


「貴方も……」


リデルが眉をひそめる。


「何です?」


結奈は涙を拭う。怖い、今にも逃げ出したい。

それでも目だけは逸らせなかった。


「…貴方も…一人だったんですね…」


静寂が落ちる、劇場で幕が下りた後のような沈黙。

結奈は困ったように笑う。その笑顔は弱々しく、泣きそうで。

それでも、どこかリデルを憐れんでいた。


「ごめんなさい……、こんなこと言うつもりじゃなかったんです、でも……貴方を見てると……私を見てるみたいで……」

「……貴女を?」


リデルは静かに聞き返した。怒っているようには見えない、笑っているようにも見えない。

舞台袖から観客を眺める役者のように、感情だけが抜け落ちていた。


結奈は肩を震わせた。


「ち、違います……!違わないですけど……違うんです……」


何を言っているのか、自分でも分からない。もう頭の中はぐちゃぐちゃだった。


「……私は」


結奈は小さく息を吸う。


「誰からも…必要とされない人間なんです…ただ愛されたいという承認欲求だけが渦巻く…」


結奈は恐る恐るリデルを見上げる。

リデルの睫毛が、ほんの僅かに揺れる。


「…だから…なんとなく、分かりました。

…ヴ、ヴィリデルーネ様が、暴虐でいるのは…


……そこまでしないと、他人から忘れられそうで、怖い…からでしょう…?」


「……は…?」


結奈の言葉に静寂生まれ、冷たい空気だけが流れていく。


「形は違えど、私と同じです。何かを頑張れば、何かを引き受ければ、感謝されて、認めてもらえて、愛されるんじゃないか…て」


結奈は力なく笑う。しかし、その笑顔は壊れた仮面のだった。


「…まぁ、でも…結果は誰も私を愛してはくれませんでしたけどね…」


結奈の言葉にリデルは何も答えない。

ただ、静かに結奈を見つめているだけだった。


まるで暗い劇場で、一人だけ歌い続ける歌姫を見つめる"怪人"のように。

結奈はその沈黙が怖かった。


「………ごめんなさい………」


もう、これで終わった。

今度こそ首を跳ねられて終わる。でも、それでいい、それでいいから。


結奈はそう思った、しかし。


「……貴女は…」


リデルが静かに口を開く。


「随分と変わった人ですね」


怒りでも嘲笑でもない、ただ、不思議そうな声だった。


「私を見て怯えている、それなのに逃げない」


結奈は苦笑する。


「…逃げたって意味はないでしょう?……だったら…せめて、本当のことを言ってから終わりたいって……思っただけです」


結奈のその一言に、リデルはゆっくりと目を閉じた。


幼い頃から、誰もヴィリデルーネを一人の人間と見ていなかった。


後継ぎ、鏡、王族。

あるいは、恐れるべき支配者。


その事実だけが、リデルの胸の奥で静かに軋んでいた。


結奈はそんなリデルの表情を見て、思わず目を伏せる。


「……やっぱり、少しだけ、似てます」


結奈は震える声で続けた。


「でも、私は貴方みたいにはなれません、人を傷付ける勇気なんてありませんから……ただ怖がって、泣いて、逃げることしかできない……臆病なんです」


その言葉にリデルは静かに結奈を見つめた。


暗い牢獄の中、リデルは何も言わなかった。


牢獄に響くのは、結奈の震える呼吸だけ。

やがてリデルは小さく息を吐く。


「…見て欲しい承認欲求……」


その声には、先ほどまでの冷たさがほんの少しだけ薄れていた。


「そうかも知れませんね…恐怖、媚び、嘘をつく、皆、私に怯え、そのような方法で私を認知する…」


リデルは自身の気持ちを認めるように言葉を続けた。


「正直な話…私、フメル王国がどうなろうとも、どうでも良かったんです。しかし、それと同時に王国を保たないと、という考えもありました。」


リデルは結奈を真っ直ぐ見つめる。


「噛み合っていない二つの考え……しかし、今なら分かります…フメル王国がどうなってもいいのは事実、しかしフメル王国がなくなると私を見てくれなくなるのも事実……そうだったんですね…私はそんなことに怯えていたのですね…」


結奈は同情するような瞳を向ける。


「…私も、ヴィリデルーネ様と同じ立場だったら…そう、してたかもです…」


結奈がポツリと呟く。


「……そうですか」


リデルは静かに結奈に近付いた。


結奈は反射的に後ずさり、石壁へ背中が当たる。

逃げ場はない。


「ひっ……」


結奈の小さい悲鳴が漏れる。


リデルはそこで足を止めた、それ以上は近付かない。


「安心してください、もう、何もしません」


その言葉に、結奈は余計に混乱した。


「……え?」

「私は、どうやらお父様の子らしいです」

「…ど、どういう―」

「ねぇ、貴方の本当の名前を教えてください。メルーナではない、本当の名前です」

「……ゆ…結奈です」


名前を聞くと、満足したようにリデルは結奈か離れた。

その途中、不意に立ち止まる。


「……ユイナ」


結奈はびくりと肩を震わせる。


「は、はい……!」

「私は貴女を認知しました。そして貴女も私を認知したでしょう?」

「…はい」

「………なら、もうこの国に未練はないですね」


そう言い残し、リデルは寒い部屋から出ていった。

重い音が響き、再び牢は静寂に包まれた。


結奈は力が抜け、その場へ座り込む。


「…な…何だったの……?」


膝を抱え、震える腕で自分を抱き締める。


「殺されなかった…?どうして……」


結奈はガラッと雰囲気が変わったリデルに怯えつつも、この世界で本当に自身を認知してくれた存在が現れた事に嬉しさが隠せなかった。

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