鏡よ鏡
私のお父様は、私が生まれる前から各国を巡り仕事をしていた。
そのため、広い屋敷で暮らしていたのは、お母様と私、それから大勢の使用人だけだった。
私の身の回りの世話は、いつも使用人達がしてくれた。
朝起こしてくれたのも、髪を梳かしてくれたのも、本を読んでくれたのも、みんな使用人。
だから、お母様との思い出を探そうとしても、ほとんど何も見つからない。
けれど、一つだけ。
幼い頃から毎日繰り返された出来事だけは、今でも鮮明に覚えている。
鏡の前で身支度を終えたお母様は、必ず私のもとへやって来て、穏やかに微笑みながら尋ねるのだ。
「ねぇ、ヴィリデルーネ、わたくし、今日も世界で一番綺麗?」
私は決まって同じように笑う。
「はい、お母様が世界で一番綺麗です」
その答えを聞くと、お母様は安心したように微笑み、満足そうに部屋を後にする。
当時の私は、その様子が少し不思議だった。
本当に世界で一番美しい人なら、わざわざ誰かに聞くこともないだろうに、と。
事実、お母様はそれはそれは美しい人だった。
艶やかな赤髪、白磁のような肌、そして髪色によく映える深紅の口紅。
誰もが振り返るほどの美貌を持っていた。
けれど、その美しさとは反対に、お母様の心はとても狭かった。
少しでも自分より目立つ人を見ると、途端に表情が変わる。
美しい侍女がいれば、些細な失敗を理由に厳しく叱る。華やかな笑顔を浮かべる使用人がいれば、仕事を増やして疲れさせる。
屋敷中の誰もが、お母様の機嫌をうかがいながら暮らしていた。
私はそんな光景を、少し離れた場所から眺めていた。
悲しいとも、怖いとも思わない。
ただ、お母様は今日も不機嫌なのだと、それだけだった。
………
ある日の昼下がり。
庭園で紅茶を飲んでいると、お母様がいつものように歩いて来た。
「ヴィリデルーネ、わたくし、世界で一番綺麗?」
私はいつもどうりの返事をしようとして視線を上げた。
すると庭の入口に一人の少女が立っているのが目に入った。
雪のように白い髪、澄み切った赤い瞳、薔薇の迷路中に立つその姿は、まるで絵画から抜け出してきたアフロディーテのようだった。
返事が返ってこないことを不思議に思ったお母様も、私の視線を追う。
そして少女を見つけた瞬間、その美しい笑顔は音もなく消えた。
「……あなた、どちら様ですか」
少女は驚いたように頭を下げる。
「も、申し訳ありません…祈りの教会へ向かう途中、馬車が動かなくなってしまいまして……助けを探しているうちに、こちらへ迷い込んでしまいまして……」
透き通ったピアノのような声だった。
しかし、お母様は少女をじっと見つめたまま動かなかった。
やがて静かに息を吐き。
「使用人を貸してあげます、ですから、どうか早くここを離れてください」
そう告げた。
少女は何度も頭を下げながら去っていく。
白い髪が風に揺れる。
私は、その後ろ姿をいつまでも見送っていた。
少女の姿が見えなくなると、お母様はゆっくり私へ振り返った。
その瞳は笑っていなかった。
「ヴィリデルーネ、わたくし、世界で一番綺麗?」
私は少しだけ考える。
しかし、本当のことを言えば、お母様はきっと悲しむ。
だから私は、いつものように微笑んだ。
「はい、世界で一番綺麗です」
その日から私は、嘘をつく鏡であり続けた。
本当の姿を映さない鏡として。
しかし、小さな胸の奥で思っていた。もし嘘をつかない本物の鏡が、お母様の前に現れたら、その時、お母様はどんな顔をするのだろう、と。
………
あの日から数年が過ぎた頃。
「国王陛下がお戻りになります」
執事のその一言で、静まり返っていた屋敷は一気に慌ただしくなった。
普段は誰よりも使用人へ厳しいお母様も、その日ばかりは違った。
玄関の花を選び直し、屋敷中を掃除させ、自分も鏡の前で何度も身支度を整える。
「この紅は濃すぎるかしら、この首飾りの方が似合う?」
誰に聞くわけでもなく鏡へ問い掛ける。
そして最後には、いつものように私を見る。
「ヴィリデルーネ、わたくし、今日も世界で一番綺麗?」
私は迷わず答えた。
「はい、世界で一番綺麗です」
その言葉だけで、お母様は満足そうに微笑んだ。
まるで呪文だった。
その一言がなければ、お母様は安心できないらしい。
私は少しだけ可笑しくなって、小さく笑ってしまった。
「何がおかしいの?」
「……なんでもありません」
………
そして数日後。
玄関の大きな扉が開いた。
「お帰りなさいませ、お父様」
「……ああ」
返ってきた言葉は、それだけだった。
昔からそうだった、お父様は無口な人。
だから私は気にも留めなかった。
しかし、お母様は違う。
「あなた、お帰りなさい!」
嬉しそうに駆け寄り、その腕へ触れようとした。
だが、お父様は一歩引いた。
「よせ、人前だ」
静かな一言だった。
お母様の笑顔は一瞬で固まる。
「ご、ごめんなさい……」
「勘違いするな、私は家を継ぐ者を得るため、お前と婚姻した。それ以上でも、それ以下でもない」
お母様は何も言えなくなった。
私はその様子を見ていた。悲しいとも思わない。
ただ、今日はお母様が怒る日だな。
そんなことだけ考えていた。
………
それから数か月。
不思議なことが起きた。
国外ばかり飛び回っていたお父様が、屋敷にいるようになったのだ。
しかも毎日、どこかへ出掛けては、夕方になると機嫌良く帰ってくる。
使用人達は口々に言う。
「国王陛下、最近楽しそうですね」
「何か良いことでもあったのでしょうか」
私は窓から庭を眺めながら、嫌な予感を感じた。
理由は分からない、でも、胸の奥がざわざわした。
………
数日後。
その予感は当たった。
玄関の扉が開く、お父様が帰ってきた、しかし一人ではなかった。
あの日、庭へ迷い込んできた白い髪の娘と一緒に。
娘のお腹は大きく膨らんでいた。お父様はその肩を優しく抱き寄せている。
私は、その光景に目を丸くした。
お父様が誰かへ笑い掛ける姿を、初めて見たからだ。
「紹介しよう」
穏やかな声だった。
「彼女は、この国の聖女そして、私の大切な人だ」
そう言って、娘のお腹へ手を添える。
「この子には、私達の子が宿っている」
私は、お父様の顔を見た、少し照れくさそうで、少し幸せそうで、少しだけ、知らない人みたいだった。
だから思った。
気味が悪い。
お母様は震えていた。
「……何を、おっしゃっているのですか」
お父様は静かに続ける。
「彼女を皇妃として迎える、よって、お前とは離縁する」
その言葉に誰も動かない。
「……ですが」
「しかし、彼女がお前を憐れんだ。だからこれからは愛人として屋敷に残ることは許そう、ただし、期待はするな」
その言葉だけ残して、お父様は白い娘と共に屋敷の奥へ歩いて行った。
私は立ち尽くすお母様に目を向けた。鏡のように美しかった人は、その日初めて、鏡へ映したくない顔をしていた。
………
その日から毎日屋敷の廊下からは聞こえてきたのは、前よりも激しい怒り声だった。
以前まで、お母様は「世界で一番美しい」と言われれば機嫌を直していた。
けれど今は違がった、屋敷中の使用人が肩を震わせる。
しかし、前とは違って、使用人達はすぐ笑顔になる。
聖女が屋敷にいるからだ。
白い花を抱え、庭を歩き、小鳥が肩へ止まり、蝶がその周りを舞う。
まるで使用人だけではなく、自然そのものに愛されているようだった。
「聖女様、おはようございます!」
「今日も良いお天気ですね!」
「ええ、そうね!
リデルもおはよう、元気かしら?」
「はい、元気ですよ」
聖女は私にも優しく微笑む。
私はそれが面白かったのだ。
聖女の株が上がれば上がるほどお母様の株が下がる。それを知ったお母様はさらに怒り狂う。今まで何を相手しても動じなかったお母様が、たった一人の娘相手にこんなになるなんて、なんて面白いのだろうか。
………
それからいくつの時がたったのだろうか。
屋敷には赤ん坊の泣き声が響いた。聖女が子供を産んだのだ。
「この子の名前はバルツ……バルツ・ヒルデにしよう」
お父様は目を細めながら、その小さな命を抱き上げた。
「君の白い髪と、私の黒髪が綺麗に混ざっている。きっと、将来は君によく似た美しい娘になるだろう」
その声は、とても嬉しそうだった。
私は少し離れた場所から赤ん坊を見る。
「……うるさい」
思わず呟くと、近くにいた侍女が困ったように笑った。
「赤ちゃんは泣くのがお仕事なのですよ、王太子殿下」
「そうなんですね」
私は納得した、仕事なら仕方がない。
けれど、それでも好きにはなれなかった。私再び二人に視線を向ける。二人はとても幸せそうだった。
…しかし、長く続かなかったようだ。
ある日、お父様が仕事から帰ってこなかった。
屋敷中が慌ただしくなり、夕方には重苦しい空気が流れる。
どうやらお父様が亡くなったようだ。
事故だった、誰もがそう話していた。
私は窓の外を見る、雨が降っていた。
「今日は薔薇に水をあげなくても大丈夫そうですね」
私はそう小さく呟く。
お父様が亡くなろうとも、私はそんなことしか頭に浮かばなかった。
その日の晩。
私が自室に戻ろうと廊下を歩いていると、ボソボソと声が聞こえた。
見てみると、お母様の部屋の扉が少しだけ開いていた。
どうやら声の持ち主はお母様だったようだ。私が扉に近づくと、何を言っているかが、はっきりと聞こえた。
「…鏡よ…鏡。世界で一番綺麗なのはだぁれ?」
物言わぬ鏡に永遠にそう問いかけていた。
私はふと、もし本当に鏡が喋ったら、もし、「あなたではありません」と答えたら、その時、お母様はどんな顔をするのだろうと、そんなことを考えた。
………
その日から数日後。
いきなりお母様が自室から出てきたのだ。
しかし、以前の若々しい美しさは消え、皺のある顔に老婆のような髪になっており、実年齢よりもかなり老けて見えた。
そして、そこからのお母様は凄まじかった。
お父様が亡くなった事を聖女のせいにし、聖女に対し聞くに耐えない暴言を吐き、髪を鷲掴みにして暴力をするようになった。
そんな毎日にいつしか聖女は心を病んでしまったが、声をかけるだけでお母様を止めるものは私含め誰も居なかった。
そしていつの間にか、聖女は首を吊り死んでいた。
お母様はだらんとぶら下がる娘を見つめた高笑いを上げたが、その姿はまるで魔女のようだった。
そしてお母様は久しぶりにその質問を口にした。
「ねぇヴィリデルーネ、わたくし、世界で一番綺麗?」
「……いいえ、とても醜いです」
私は質問に素直に答えた。
するとお母様は私を殴りつけた。
「ふざけるな!わたくしが美しくないわけがないだろう!!」
「…お母様…魔法はいつしか消えるものですよ」
「うるさい!!うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!!」
お母様は酷く叫びながらのたうち回った。
しかし私はそれを何もせず見てるだけだった。
………
そこからは早かった。
お母様は鏡の破片で自身の首を刺し、亡くなった。
そして私は父様の後を継ぎ、若いながらもフメル王国の国王になり、聖女の力がバルツに現れた。
乱れていた城は全て綺麗に元通りになった。
私は国王をしての業務をこなしながらも、自身の好奇心を満たしていった。
鞭はどう振るうと痛いのか、首を跳ねたらどうなるのか、女をそこら辺の奴隷や家畜に襲わせるとどうなるのか、拷問はどれくらいの期間で自白させられるのか。
試したいことは全てを試した。そのせいか、裏で私のことを暴君陛下だと噂する声も聞こえた。
暴君、そういえばお母様も暴君妃、そう噂されていたような気がする。
やはり、私はお母様の子なのだろう。
だからこそ、その言葉がどこか府に落ちてしまった。
「…ヴ、ヴィリデルーネ様が、暴虐でいるのは…
……そこまでしないと、他人から忘れられそうで、怖い…からでしょう…?」
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