オカシナ城
結奈は静かな寝息を立てながら眠っていた。
水色の長い髪が椅子の背にさらりと流れ落ち、伏せられた長い睫毛は微かに震える。
無防備なその姿は、まるで永遠の眠りについた茨姫そのものだった。
ふと、結奈は手首にひやりとした冷たい感触を感じた。
(……冷たい…?)
夢の中でそう感じた結奈はゆっくりと瞼を開いた。
ぼんやりと霞む視界、けれども、時間が経つとやがて少しずつ焦点が合う。
「あ、おはようございます」
穏やかな男の声。しかしその声を聞いた瞬間、結奈の全身を悪寒が駆け抜けた。
「っ……!」
結奈は勢いよく顔を上げる。そこは見知らぬ薄暗い部屋だった。
広い空間には長いテーブルと向かい合う二脚の椅子しかない。
テーブルには色鮮やかなケーキや焼き菓子、果物が綺麗に並び、湯気の立つ紅茶からは優しい香りが漂っている。
そして結奈の向かいの座っていたのは、結奈を攫った男。
ヴィリデルーネ・クーイだった。
左右で異なる瞳を細め、まるで胡椒の香りに包まれた貴婦人と再会したかのような爽やかな笑顔を浮かべていた。
「ヴ……ヴィリデルーネ、様……」
結奈は名前を呼んだだけで喉が震える。
逃げなきゃ、結奈はその一心で立ち上がろうとする。
しかし…
ガシャン。重い鉄の音だけが響いた。
「……え?」
体が動かない。結奈は恐る恐る自分の身体を見下ろす。
「……っ」
手首、足首、腰。
そこには太い鉄の鎖が幾重にも巻き付いていた。
まるで罪人を拘束するかのように。
「な……なに、これ……」
声が震える、呼吸が浅くなる。
「おや」
リデルは紅茶を一口飲み、くすりと笑った。
「今、気付かれたんですか?」
その何気ない一言で、結奈の顔から血の気が引いた。
「い、いや……っ」
ガチャガチャガチャッ!!
必死に腕を引き、足を動かす。
だが鎖はびくともしない。
鉄同士がぶつかる無機質な音だけが部屋に虚しく響いた。
「離して……ください……!」
結奈は涙声で訴える、しかしリデルは椅子にもたれたまま首を傾げる。
「無理ですよ」
あまりにもあっさりとした言葉だった。
まるで「今日はなんでもない日ですね」とでも言うような自然さ。
結奈は震える唇を噛み締める。
「お願い……です……」
目にはうるうるとした涙が滲み始めていた。
怖い、怖い、怖い。
この人と同じ空間にいるだけで息が苦しい。
結奈は顔を青ざめさせる。
しかし、リデルはそんな結奈を興味深そうに笑ながら眺めていた、まるで壊れそうな玩具でも観察するように。
「……笑わないで……ください……」
歯がカチカチと鳴る。自分でも止められない。
「離して……ください……」
「ふふ」
リデルはは肩を竦めた。
「何度お願いされても、答えは変わりません」
その微笑みはやはり美しかった。
だからこそ恐ろしい。
目だけがまるで鏡のように冷たく、何一つ感情を映していなかったからだ。
「聖女様」
リデルは思い出したように話し始める。
「以前お話ししましたよね。フメル王国の聖女が失踪した件」
「……はい……」
結奈は小さく頷く。
「私の義妹、バルツ。彼女がいなくなってから、本当に苦労しておりまして」
リデルはわざとらしく顔を曇らせる。
「なんせ、我が国の守護神が非常にお怒りでしてね」
「……」
「今までは何とか説得してきましたが……そろそろ限界なのです」
リデルの言葉に結奈は思わず目を伏せた。
(でも……逃げたのは……あなたのせいじゃないの……?)
しかし、結奈は口には出さない。
そんなことを言えば、何をされるか分からないからだ。
「ですので」
リデルは微笑む。
「聖女様」
「……っ」
「バルツの代わりに祈っていただけませんか?」
あまりにも自然だった、まるで散歩に誘うような軽さでリデルは問いかけた。
しかし、結奈は首を横に振る。
「……できません」
「ほう?」
「……他国の聖女が……他国の神様へ祈りを捧げたら……反逆罪になるって……聞きました……」
結奈は震えながら、それでも言い切った。
リデルは目を細めた。
「おや、記憶喪失と伺っていたので、知らないものと思っていましたが」
リデルはわざとらしく肩を落とす。
「残念です」
(この人……)
結奈の背筋が冷える。
(私が記憶を失ってるっていう設定を利用するつもりだったの……?そんなの……ひどい……)
「ですが」
ヴィリデルーネは立ち上がる。
コツ、コツ。
足音がゆっくりと近付く。
結奈は反射的に身を引いた、がしかし、鎖が音を出すだけだった。
逃げられない、怖い、来ないで。
「聖女様」
リデルは結奈の前で立ち止まる。
そして細い顎を指先で持ち上げた。
「ひっ……!」
逃げたい、けれど結奈は顔を逸らすことすらできない。
赤と白、異なる二つの瞳。
吸い込まれそうなほど綺麗なのに、底知れない恐怖しか感じなかった。
(怖い……助けて……)
「申し訳ありませんが」
リデルは静かな声で囁く。
「貴女に拒否権はないのです」
リデルのその言葉に、結奈は涙を堪えながら小さく首を振る。
「ヴィ、リデルーネ……様」
結奈は途切れ途切れながらも口を開き続ける。
「私は……レミーラ王国の……聖女です……大切な人がいる…レミーラ王国だからこそ、わ、私は祈れるのです」
結奈の涙がぽろりと落ちる。
「だから……フメル王国の神様には……祈れません…」
言い終えた瞬間、結奈の全身から力が抜けた。
怖かった、怒らせた、きっと殺される。
結奈がそんなことを考えている間、リデルは無言だった。
やがて深いため息をつく。
「……はぁ、困りましたね。」
その声には僅かな苛立ちが滲んでいた。
「連れて行きなさい」
その一言でどこからともなく兵士たちが現れる。
そして無言のまま鎖を外し、結奈の腕を掴む。
「い、いや……!」
立てない、抵抗できない。
「待って……!」
兵士たちは容赦なく結奈を引きずっていく。
「帰してください……!お願いです……!」
しかし、誰も止まらない。重い扉が開く。
その先は光すら届かない真っ暗な部屋だった。
「いやっ……!」
ドンッ。
結奈は乱暴に中へ突き飛ばされた。
床へ倒れ込む、肩が痛い、息が詰まる。
振り返ると、扉の向こうでリデルが立っていた。
先ほどまでの爽やかな笑みは消えている。
そこにあったのは、ぞっとするほど静かな笑顔。
「聖女様、こちらにも時間がありません、……どうか、ご協力ください。」
ガチャン。
重い鍵の音、完全に閉ざされた。
「待って……!」
結奈は立ち上がり、必死に扉を叩く。
「開けてください!お願いします!帰りたい……!」
しかし返事はない。何度叩いても、何度叫んでも。
静寂だけが返ってくる。
やがて力尽き、結奈はその場に座り込んだ。
暗い、何も見えない、息が苦しい、胸が締め付けられる。
(……怖い、誰も来ない、助けて……)
膝を抱え、小さく震える。
そんか絶望の中で、ふと違和感が結奈の胸をよぎった。
(……あれ、この感覚、初めてじゃ……ない?)
逃げ道のない暗闇、息が詰まるほどの恐怖。
どこかで、確かに一度、同じ絶望を味わった気がする。
「……思い、出せない……」
頭が痛む。
思い出そうとすると、霧がかかったように記憶が遠ざかる。
それでも、胸の奥だけが告げていた。
これは初めてではない。
結奈は訳が分からなくなった。
ただ、涙だけが静かに頬を伝い、冷たい石床へと落ちていった。
応援したい!と思ったらブックマークやリアクション、下にある⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎評価等をよろしくお願いします!




