彼女と夢の終わり
逃げたくて逃げたわけじゃない。逃げたかったわけじゃない。誰だってそう。
でも多分、それも違う。
他人ごとのように自分を見つめている。成長した彼の表情からは、当時の記憶への反応も感情も読み取れない。ただ、ほんの一瞬眼差しが揺らぎ、それでも彼はすぐに振り切るように踵を返してしまう。生々しい惨状は瞬く間に何事もなかったかのように霧散した。
もしかしたら。もしかしたら新さんは、本当は話したくなどなかったのかもしれない。誰にも明かしたくなど、なかったのかもしれない。たぶん、きっと。
その背中から、どこか張りつめたような心地を覚えた。
「そこから先は記憶がない。気が付いたら、病室のベッドに寝かされていた。なんだかよくわからなくて、暫くそのままぼうっとしていた」
次に目を向けた先は、新さんの言うとおり病室のようだった。夕暮れどきなのか、淡い茜色に包まれた部屋。その中央より窓際に小学生には少し大きすぎるように感じるベッドがあり、頭や腕に包帯、首にギプスをつけた少年が横たわっていた。
まだ成長期の少年らしい華奢で頼りない体に大仰なその処置は見るも痛々しいというのに、その少年の横顔には苦痛も恐怖の色も見えてこない。ただ、視線の先の、天井に映る四角く切り取られた鮮やかな緋色の陽光だけを、一心に見つめている。
――いや、どうだろう。本当は、なにも見ていないのかもしれない。見えていないのかもしれない。目覚めたときに一人、誰もいないところにいたらきっと私だったら心細い。けれど傍には誰もいないらしく、当の本人ですら手元に置かれたナースコールのスイッチを押そうともしない。
なぜ誰もいないんだろう。朔子さんは。……一条さんは? どうして傷ついた子供一人の傍にいてあげられる大人がいないんだろう。これって普通? 普通なのかな。しょうがないことなのかな。
喉まで出かかった言葉は、結局寸前で留まる。そんなこと言えるわけがない。他でもない当事者の新さんの横でなんて。それでも何かがもやもやと燻って、でも言えなくて、代わりのように傍らの新さんを見上げた。何を言えばいいのかわからないのに。
困り果てているうちに、そんな私に気付いているだろう新さんは、慰めるように微笑んだ。こっちの意を汲むように、悟ったような顔をして。
「ああ事故にあったんだって、思ったことはそれだけだよ。首は動かせないし体のあちこち痛いし。でもそれもすぐどうでもよくなった」
「……どうでも、よくない」
「うん。でも、このときはそういう痛覚よりもっと強い感覚があったから、あんまり気にならなかった」
「気にならないって……」
あんまり他人ごとに言うものだから、なんだかこっちが不安になる。あれだけの目にあっておいて他にどれほど強い感覚があったっていうんだろう。新さんは、無表情に天井だけを見つめる小さな彼をじっと眺めながら、ぽそりと呟いた。
「ただ、がっかり、してて」
「え」
「だから、がっかりして……いた。すごく、なにかが残念な気持ちでいっぱいだった。どうして、って。……失望っていうのかな。許せないような、やるせないような、言葉で言えないくらい凶暴な感じ。頭は冴えているのに、どこかでなにかがめちゃくちゃにがなりたてている、ような、感じだった」
――がっかり? なにに。なにが。わからない。わからないけど。わからないけどさ。
「それ本気で言ってる?」
非難めいた言い方をしてしまう。しまったと思うも、もう口に出してしまったものは戻らない。捕まえた意味への否定を確認したかっただけなのに、意に介した風もなく平然と頷かれた。
「深い意味なんてない。ただ、とにかく、とても…………がっかり、したんだ」
途方に暮れたように、言う。そんなのはおかしい。おかしいことだ。言ってはいけない言葉だ。思ってはいけない想いだ。ここにいる新さんも、あそこにいる新さんも、どっちの二人も知ってはいけない。本来抱える必要のない酷い感情だ。最低だ。最悪だよ。なんなの、それ。こんな現状。無性に腹が立つ。胸の中が気持ち悪くて仕方ない。何に対してのものなのか、わからないようで、わかる気もするのが忌々しい。
けれど、言葉にもならず暫く沈黙を食いつぶしていたその時を破るように、誰かが飛び込んできた。
「新!」
静寂を荒らすように開けられたドアの隙間から現れたその人のその声は、私にも聞き覚えがあった。記憶にさほど違いのない、馴染んだ大人の男の人の声。
一条さんだ。
枯れ色のコートをたなびかせながらカーテンの傍にあるベッドまでとてつもない勢いで駆けつけてきた。そのまま勢いに任せて毟り取るようにカーテンを脇に追いやる。少し離れたところから見る一条さんの様相は、およそ普段の余裕綽々な加減からはかけ離れている。髪は乱れいつもの温和な筈の面差しに一筋の汗が伝い、息も切れ切れに眼差しだけが鬼気迫る色を持て余して、横たわるあの小さな新さんだけを凝視していた。
「新……」
起きているはずなのに反応のない新さんに焦れたのか、一条さんの手が、掛布の上に据えられただけの小さな新さんの左手に伸びた。多分、無意識に伸ばしたんだろう。その温度を確かめたかったのかもしれない。
でもそれは叶わなかった。それまで微動だにしなかった小さな新さんの左手は、伸ばされた一条さんの指先が触れたか触れないかの刹那、飛び退くように腹部へと逸らされる。隣で新さんが小さく息を飲むのが分かった。
――――避けた。小さな新さんは触れられることを許さなかった。一条さんが触れることを、拒んだ。きっと、初めて心から他人を拒絶した。この瞬間に、よりにもよって一条さんを。
「……新」
呆然としたような一条さんの声が胸に痛い。伸ばされた手は行き場を失い、けれど下ろされることもなかった。言葉もない。何も言えない。今この光景が事実現実だとしても、かける言葉など一つたりとも見つからなかったと思う。小さな新さんも、じっと黙って天井だけを見つめるだけ。無表情であるのにも関わらずそれは縋るようでさえあって、目を背けたくなるような痛々しさしか感じられない。息の詰まるような一瞬の沈黙のあと、がくりと膝をついた一条さんはベッドの端を縋り付くようにきつく握り締め、項垂れながら呻くように言った。
「すまない。すまなかった、新」
身を引き絞る慟哭。聞いているこっちまで締め付けられるような苦痛と後悔とが、じっとりと滲んでいた。一条さんが何に対して謝っているのか。私にも身に染み入るように伝わってくるのだから、隣にいる新さんも解っているのだろう。無言で見つめる傍らで、堅く握られた拳だけがきりりと唸る。
「なんで、謝られているのか。どうして父さん……いや、関係のない、叔父さんがここにいるのか。そんな顔をしている理由も、どんな気持ちで触れようとしたのかも、どんな気持ちで――いたのかも。……なにも、なにひとつ、わからなかったし、どうしても……理解できなかった」
悲痛な面持ちで、ひたすらに謝り続けている一条さんを見つめている。後悔しか見えない。謝り続ける一条さん。それを見つめる新さん。甘すぎる茜色の中、横たわる彼も多分、また。
「とても、ひどいことをしたと思う」
まだこの時のこと、謝れていないんだ。深い悔恨の滲む声で、自嘲するように新さんは呟いて、茜色の部屋もそれとなく霧散した。けれどどこかで一条さんが謝り続ける声が聞こえる気がして、やっとの思いでなにもなくなったそこから目を逸らした。
――――それから退院した新さんは、暫くしてから一条さんに引き取られたと聞いた。一条さんは新さんには特になにも事情も理由も話さず、ただひとつだけ新さんに聞いたらしい。『一緒に行くか』と。新さんは一条さんの提案に乗って、二人で本家から出ていった。どうして理由も事情も教えてもらえなかったのについていったのかと尋ねると、こともなげに新さんは言った。
「どこに行っても一緒だと思ったから。だったら、少なくとも準備期間のあいだに制限が少ないほうが後々色々とやりやすい」
その時新さんは、こう考えていたらしい。
『義務教育を終えたら、一人で暮らす。一条の人間も自分を知っている人間も、誰一人いない場所で一人で生きる』
本気の本気で考えて、計画を練っていたという。そのためなら意図が不明でも協力的な一条さんを利用して、一族の人間を欺いて、何でもしようと決めていた。そんなことを、中学校に入学したばかりの新さんは既に決意して、計画を立て始めていた。
私と同じ。
話を聞きながら心の片隅で、口には出さずとも、確かにそう感じた。何もない自分には、何もいらない。誰もいらない。そう信じていた。ずっと。そうでも思わないと多分、そういう空っぽで惨めったらしい自分自身に押しつぶされていたから。
それから二人で暮らし始めて一年足らずといった頃、引き合わされたそうだ。佐藤椛という一人の女性に。――――つまり私の、お母さん、に。
花屋で働いている小柄な人。最初に抱いたお母さんへの印象はたったそれだけ。一条さんからのお使いで訪れたその店で初めてお母さんに出会ったのだと教えてくれた。つまりそれが最初で、本当はあの時は二回目の邂逅だったんだ。解かれたはずの真実には、まだ私の知らない結び目があったのだ。
『元気になったのね。本当によかった』
花屋に訪れた新さんによって一条さんからのメモを手渡されたお母さんは、新さんを見るなりそう言ったそうだ。記憶に映るお母さんの表情はまさしく花のように綻び、新さんの訪れを心底喜ぶように微笑んでいた。
「女の人に、こんな風に笑いかけられたことが無かったから、すごくどぎまぎした。買うものだけ買ってすぐに帰ったけど、今思うと多分……恥ずかしかったんだと思う。あまりに優しい人だったから、少しだけ怖かった」
目の前で見ている光景では、そんな心情とはかけ離れた無表情の新さんがお母さんと二言三言やりとりをして、何か花を買っていた。幾分早足で店を後にする新さんを見送るお母さんの眼差しはとても柔らかくて、そうして隣にいる彼も同じ顔で記憶の中のお母さんを見つめていた。
今まで、新さんがお母さんのことをどう思っているかなんて言明したことはなかったけれど、そんなことは今浮かべているこの表情だけですぐに解る。私たちが過ごした数年間の間で、新さんもたしかにその時を刻んでそうして築いてきたのだろう。お母さんとの絆を。お母さんへの想いを。
嬉しく思う半面で、同じくらいの強さで胸が痛む。これが私が望んだことでもあり、恐れていたことでもあった。そしてそれは確かに叶った。覆せないくらいの、力となって。
それから。それから、こうなった。そう。
――――あのときの、こと。
又聞きの現実が、まるで私の実体験のように広がる。目を背けたくなる和やかな光景。写真で垣間見た、新さんにとっては二度目の邂逅、だ。
目の前に、あの時写真でしか見れなかった光景が映し出された。淡い薄桃色のスーツを着たお母さんに、見覚えのあるこげ茶色の小さなテーブルを挟んで、濃いめのグレーのスーツに身を包んだ一条さんと、隣にはジャケットを羽織った新さんがいる。みんな正装のようにきっちりとした身なりだ。場所がどこかのホテルのカフェスペースのようだからそれも当前だろう。
「あの人の笑顔は、いいね。見るだけでほっとする」
大事な話があるからと一条さんに伴われ、お母さんと二度目の対面を果たしたとき、新さんは少し嬉しかったのだそうだ。自分に会えて嬉しいと、それだけを言って喜び微笑むお母さんの様子に何かを感じたと、そう言った。
視線の先でお母さんと対面するように座る新さんの表情は何も変化が見えなかったけれど、視線はなぜか斜め下をむいていた。照れているみたいに。それは、まるで年相応の普通の子供のような反応にしか見えない。
「可愛いね、新さん」
おかしい。なんだか面白くて、目がじんわりと熱くなる。隣りで新さんも喉の奥で少し笑って、右手で空を横に切るようなそぶりをした。少し離れていたところから全体を眺めているような光景が切り替わる。テーブルが映った。いやに近いところを見ると、誰かの視線のようだ。新さんだろうか。視線の手前のテーブルの先に、何かが置いてある。それは――――。
「……私の写真……?」
中学校に入学したとき、お母さんと校門の前で一緒に撮った写真だ。なぜ、と思う間もなく声が聞こえた。
『これが私の娘。楓っていうの。今年で十三歳だから、新くんより一つ学年が上ね』
お母さんの声だ。私の話? いや、それはそうか。この場はつまり私を抜かした顔合わせだもんね。一応説明しておく必要があるには、あるのかもしれない。
「少し当たり障りのない雑談をしてから、椛さんが姉さんの話をしてくれた。たくさん聞いたよ。知らない間に一人で自転車をマスターしていたとか、小さいころは冷蔵庫に入りたがって聞かなかった、とか」
「……やめてくれ」
そういえばそんなこともあった。自転車は一人で練習したんだよなぁ。お母さん忙しそうだったし漕げるようになったら褒めてもらえるかと思って。でもなんでか落ち込んでた。冷蔵庫は確か氷になりたかったんだよ。今思うと意味不明でしかないけどさ。
ていうかなにそれ。はてしなくどうでもいいけどそこはかとなく恥ずかしい個人情報を知りあってもいない他人に教えないでくれよお母さん。私の名誉が知らない間に崩されていた……。
がっくりくる私を置いて、目の前の三人ははた目には和やかに会話を続けていた。特にお母さんがとても、楽しそうだ。
「どうして、そんな話をするのか解らなかった。大事な話ってこのことか、って。でも楓のことを話すのが本当に嬉しくて楽しいって、椛さんはそんな顔をしていた。父さんも楽しそうにその話を聞いていた。そして……」
それは途切れた新さんの言葉を繋ぐように、唐突に告げられた。
『家族になってくれないか』
視点がゆっくりと、テーブルの上の写真から、隣へと移動していく。穏やかな微笑を向ける一条さんの瞳に、どこか呆然としながら見上げる新さんが見える。
『家族にならないか、新。ここにいるみんなで、ここにいない楓ちゃんも一緒に』
微笑んではいるけれど、声音はいたって真面目だった。本気で言っているのだろう。なんとなく、この一言に一条さんの心のすべてが集約されているような、そんな気がした。でも、新さんは……その時の新さんは、違ったらしい。そっけないくらいの速さで、ふいっと視線は逸らされた。なにもない、陰る膝元に。
『できません』
『……なぜ』
『わからないから』
――わからない。
『わからないものを求められても、僕にはできません。戸籍上でも血縁上でもあなたは叔父だし、紅葉さんと、楓さん……は、他人だ。それでもそうしろというなら、そういう真似をする努力しかできない。それでもわからないものは、作れない。それにメリットも感じられない。それで僕は何を得られるんですか。あなたたちのその家族というものに加わったとして、僕になんのメリットがあるのでしょうか。時間を無駄にしたくはありません。僕にはやりたいことがあり、今はそれを最優先にしたい』
子供らしくない、冷たく事務的でしかない声で、淡々と新さんは言い切った。
――そうだ。こんな簡単なことを考えもしなかった。果たして新さんは望んであの家の住人になったのかって。私にも色々と思うところがあったのだ。ましてやそれ以上に複雑な状況に置かれている彼が、どうしてあの同居を受け入れたんだろう。
隣りにいる新さんを見上げてみたけれど、何の返答も得られない。その代りに、一条さんが答えてくれた。
『じゃあこうしよう。これは契約だ。君は僕たちと生活を共にし、期間限定で家族ごっこをしてくれ。君の思うまま自由に家族を演じてくれて構わない。その代り、それを全うした君には望むものをなんでも与えよう。僕のできうる限りの力を尽くしてそれに応えると約束するよ』
『……望むものとは、なんでもいいのですか』
『そう、なんでも。必要なら書類に起こしてもいいよ。満期に君が満足したものを得られなかったというなら、違約金でも条件でもなんでも付け足すがいいさ』
突飛すぎる。視界に映った一条さんはいやに自信ありげで、まるで初めからこれを話すつもりだったと言わんばかりだ。家族ごっこ? あれが? あの生活が。こんな家族ごっこなんて言う契約に縛られて創られていたものだったとでもいうのか。――いや、でも……。
『……あなたは』
『わたし?』
お母さんへと、視界が移る。ウェーブのある髪を横にまとめたお母さんは、少し考えるように小首をかしげた。
『私も始さんと一緒だけど。……そうね、一緒に暮らしてくれたらきっと新くんのその『わからないもの』も、少しは解れるようになっていると思うんだけど、それだけでは駄目かな』
『あなたの、メリットは』
『……わたしのメリット』
お母さんが、得をすること……。そんなの、決まってる。だってお母さんも一条さんも初めから新さんのことを――――。
『……娘がね。楓ちゃん、とっても、優しい子なの』
え。
『優しさって色々あるけれど、楓ちゃんはね、沢山の、色々な優しさを私にくれるの。一生懸命なくらい私を気遣って、支えようとしてくれているのがわかる。親のひいき目もあるけど、本当に情が深くて、優しい子よ』
――は? なんだろう。いきなり、なに。穏やかに微笑むお母さんが何を言っているのか、理解できない。なんなの、これ。
『でも、私は、今までそんな楓ちゃんにずっと甘えていた。頼り切って、甘えてしまっていた。そんな私を楓ちゃんは許してくれるから、いつもそれに胡坐をかいていた気がする。自分のことで精いっぱいで、早くに夫を亡くしてやっぱり不安なことや怖いこともたくさんあって……でもそんなことは言い訳に過ぎないのよね。無意識に、あの子の気持ちをどこかなぁなぁにしていた。気づいていたはずなのに、気づかないふりをしていたのかもしれない。とても、ずるい大人だった』
「……おかあさん」
なに言ってんだろう。全くの見当違いだ。お母さん。そんなのは、違うよ。
『小さいころは聞かん坊だったのに、大きくなってからはちっとも我儘を言わなくなった。私に文句を言うことも、不満を言うことも、一切なくしてしまったの。いい子になることが上手になりすぎて、自分の気持ちも素直に表せなくなって……。自分を押し殺して、そんな自分に疑問も抱かないような子になってしまった。私のせいで』
「ちがう」
違う。こんなの。お母さんの思い違いだよ。私はそんないい子じゃないし、お母さんのせいなんかじゃない。そんなの、お母さんが気負うことじゃない。なんで。そうならないようにしてきたじゃない。どうしてそんなこと思うの。いつからそんなことを考えていたの。どうして。
……こんなこと、知らなかった。こんな前から私はお母さんにこんなことを思わせていたの。そんな必要なんてないのに。そうしてきたのに。それでいいのに!
『気が付くとね、あの子が何を考えているか、解らなくなっていたの。前はもっと身近に感じられたのに。共有できていたはずなのに。それを聞くのも怖くなっちゃって、どんどん、あの子が遠くなってしまった』
なにこれ。どうして。どうしよう。こんなずっと前のことをどうしたら訂正できるの。否定できるの。お母さんはずっとこんなことを思っていたの? 私のせいで。これじゃあ家なんか出たらど受け止めるのかかわからないじゃないか!余計に重荷になってしまう。どうしたらいいんだ。こんなの誤算だ。
取り乱す私を置いてけぼりにしたまま、過去の映像は突き進んでゆく。
『だから、新くんには、ただ楓ちゃんの傍に居てほしい』
『……僕が』
『そう。至らない私の代わりに……。ううん、みんなで一緒に、楓ちゃんの傍に居ましょう』
――――なに? 優しい声が囁きかけるように、通り抜けていく。傍にって、なに。
『誰だっていつか一人で頑張らなければいけない時がきっとくるけれど、ずっと一人ぼっちでいなければいけないわけじゃないでしょう。支えて支えあって、そこでやっと立ち上がって歩いて行けるんだと私は思う。だから、新くんには楓ちゃんの傍に居てほしい。隣りにいて、弟でも、お兄ちゃんでも、友達としてでもいいから、それを教えてあげてほしいの。誰かに心を打ち明けても、大丈夫なんだってこと。頼っても、我儘言っても、ちょっとくらい休んだって、私たちがそれを否定したり拒絶することは決してないと、信じてほしいということ。そういう自分がいてもいいんだっていうことを』
視界の中で、新さんの小さな両手をすくい上げたお母さんの手が、それをすっぽりと包み込んでいた。
『私は、私が楓ちゃんから取り上げた信頼を、元に戻したいの。私は新くんと始さんがいればそれがかなうって、信じたい。――――だからね、新くん。ごっこでもいいから、家族になりましょう。きっとあなたも同じように、今までもっていなかったものを、得られるから』
「紅葉さんは……いや、あの人たちは、多分最初から、解っていたんだと思う。俺が欲しくてたまらなかったもの。姉さんに、必要なもの」
「……新、さんが、欲しくてたまらなかったもの、って」
「本当のよりどころ」
ほんとうの、よりどころ。
気が付くと映像は消えていて、新さんが私を見下ろしていた。なにもない空間に、二人。空っぽの世界で。
「多分あの時の俺の精神年齢は、幼児みたいなもので、殆ど単純だったんだろうな。自分じゃ自覚していなかったけど、家を出るとか一条から離れるとか、本当のところはそんなことどうでもよかったんだと思う。幼稚なあてつけでしかなかった。本当は、心のどこかで夢想して、期待して、願ってただけだ」
頭がぐちゃぐちゃで、考えがまとまらない。どうして。あの二人は、だって、新さんのためで。でもお母さんは私のこと。私に必要なものって。新さんが欲しくてたまらなかったものって、それって――。自嘲するように眉尻を下げて、新さんがふっと笑った。
「誰かに言ってほしかっただけなんだよ。必要なんだって。そこにいてほしいって。誰かに自分を認めて、必要なんだと言ってほしかった。ただそれだけだ。……きっと」
――ひつようなんだって。
「……わたし、は」
どうしよう。どうすればいいの。頭の中がぐちゃぐちゃだ。考えようと思うのに何も考えられない。膝からかくんと、力が抜けて崩れ落ちそうになった。すかさず二の腕をがっしりと掴まれ、支えられた。働かない頭でどうにかのろのろと頭をあげると、どこかかすんだ視界の先で私を見下ろす新さんと目が合う。無感情な瞳には、情けない顔を晒した私が映っていた。
「あの人たちは本気で俺たちのことを思ってくれている。そんな二人を本当に捨てられるか」
「……そん、な」
ちがう。捨てるだなんて。そんなつもりじゃない。そんなつもりじゃなかった。
なんだろう。こわい。なにが。わからない。なにもかも。
「俺は知ってたよ。姉さんがあの人と……。俺の母さんと、会っていたこと」
「……は?」
「知ってた。あの人が、母さんが言っていたから。事前に教えてくれてたんだ。詳細は聞けなかったけれど」
――は? は? なに、それ。なにいってんの。なにを、言っているの。なに、急に。――うそ。嘘!
「だから姉さんの様子がおかしいのも気づいたけど、あえて見過ごした。……あの時にはもう、俺にとっても大事な二人だったから。もしもあの人たちを裏切るような選択を姉さんがしたらと思ったら、試したくなった」
なんだろう。なに。試すって。えっと。新さん、
「誤算だったんだ。あの人が何か言っても、俺が姉さんを守ればそれでいいと思ってた。だから試した。でも……」
「あの、新、さん」
ちょっとまって。
「……いや、違うな。――――あのさ、あの人となにを約束したか知らないけど、そんな約束に意味はないよ」
待って。
「あの人は姉さんが約束を守ろうが破ろうがどうでもいいんだよ。ただ追い詰めたかっただけだ。追い詰めて、それを俺に見せつけて、知らしめたかっただけなんだよ」
「…………なに」
なに。なに。なに。なに、これ。真っ暗な瞳に、飲み込まれる。
「俺が姉さんを守れないって、知らしめたかっただけ。本当の俺は無能の役立たずで、一人じゃ何にもできない奴だってことを、俺に思い知らせたかっただけ。……姉さんはそれだけのために利用されたんだよ。そういう人なんだ、あの人は」
嘘。なんで。知ってた? いや、待って。なに、なんなの。それじゃあ今までのことって、なんで、どうして。こんなの。ちょっと、やだ。いやだ!
「はな、……離し、て……っ」
「わかっただろ」
離してくれない。
「やめ」
「全部無駄だったんだ。今までのこと、全部」
むだ。なにが?
ぜんぶ。
暗闇の中の自分が、ぐしゃりと歪んだ。
「離して! 離せっ」
「いやだ。もう離さない」
「触んないでっ。ちょっ……と!」
いやだ。まって。なんなの。手が痛い。目が怖い。こわい。こわい。こわい!
「離せってば!こんなの……っ」
こんなの。なにこれ。なんなんだよ。どうして。何かが壊れそうだ。今にも壊れそうだ。離してくれないと壊れてしまう。ぜんぶ、なくなっちゃう。
必死でもがいても、ちっとも握られた腕を離してもらえない。ぞっとするほどの力で握りこまれ、吊り上げるように強制的に上へと引っ張られた。
「や、め」
「どこへも行けないよ。逃げ場なんてない。どこへ行ったっておんなじだよ。絶対に俺は離れないから」
「やめてよ!」
あたまがおかしくなりそうだ。いや、もうなりかかっている。恐怖でどんどん体の力が抜けていく。それなのに掴まれた腕の痛みはどんどん増していく。残酷なくらい無表情の新さんが無理やり目を合わせてきて、その真っ暗な瞳で私を縛り上げていく。
「恨むなら俺を恨めばいい。でも父さんたちは関係ないだろ。帰ろうよ。姉さんの居場所も俺の居場所も、ここにはない」
「離しッ」
「聞けよ!」
恫喝にも似た罵声が心臓を貫いた。まさかという思いで目を合わせた先には、グラグラと煮えたぎる憤怒を隠しもしない炎が、燃え上がっている。
「なぁ、どこに逃げるっていうんだ? 無駄なんだよ何もかも。本当は自分でもわかってるんだろ?」
身を切るような威圧感に膝が震える。凶暴という言葉がふさわしいくらい、その声にはむき出しの怒りと押し殺してきた感情があふれている。震えて、言葉を挟むことも、できない。
「どこに行ったって同じだよ。外国だろうが世界の裏側でも世界の外でも異世界でもさ。どこに逃げても、なにも変わらない。何度逃げても結果は同じ。何度だって姉さんは捕まるよ。やってること全部が時間の無駄だ」
「……し……さ、」
「いい加減わかれよ! なぁ!」
握りつぶさんばかりの力で二の腕を引き寄せられ、鼻先がこの上なく近づいた瞬間、私を睨みつけて彼は言った。
「どこまで行ったって、例え俺から逃れても、逃げ切れるわけないだろ。誰だって、自分からは逃げられないんだ」
逃げられない。
わかってる。わかってるから、逃げ続けるしかなかったの。逃げられないから、逃げた。
にげた、の、に。
「……ん、たに」
もういやだ。
「な……が、わかるって、いうの」
もういやだ。もうだめだ。
「なにがわかるの」
もうだめ。どうして。どうして。どうして、どうして、どうして!
どうして!
「アンタになにがわかるの! わかんないよ! 無駄だって……そんなこと今さらっ……なんなの! ねえ!人の心土足で踏み荒らしてさ! 暴き立ててめちゃくちゃに壊して! 満足? ねえ! じゃあもういいでしょ! 十分じゃん、離してよっ。これ以上踏み込んでこないでよ!」
「そうじゃない。ただ、俺は今度こそ守ってみせるから、だから」
「そういうのいいから!守るとか傍にとか、もうそんなの私には要らないんだよ! だったらお母さんを守ってよ! それでいいじゃん、ねえ! 無意味な約束でも私が守ればあっちも守るでしょ? じゃあそれでいいよ! それでいいからもうほっといてよ! もういやなのなにもかも !無駄だし無理なの全部! 全部だよ!」
「いやだ。離さないと言った。絶対に俺は離れない。そう決めた」
「そんなの……っ」
いやだ。どうして。ねえ、どうしていつも、こうなの。どうしていつも、あとちょっとのところで、こうなるの。うまくいかないの。思い通りにならないの。いつも、いつもいつもいつもあともう少しなのに。どうして。なんで。なんで邪魔するの。どうして壊すの。取り上げるの。守ろうと思ったものが、なんでこんなになっちゃったの。これ以上どうすればいいの。ちゃんとしてきたつもりだったのに。お母さんにあんな思いさせて、これ以上どうしたらうまくいくの。なんで。どうして。結局私じゃだめなの。新さんじゃなきゃいけないの。どんなときだって、主人公になることはできないの。かっこよく、うまくいくことができないの。それが許されないの。私がわき役だから。力がないから。そんな器じゃないから。新さんじゃないから。
わたしじゃ、だめだから。
いつだってわたしは。もういやだ。もういやだ。いやだ。いやだいやだいやだ。誰か。誰か。誰か。誰か!
――――でも、そうだ。あのときと一緒。誰もいない。なにもない。どうにもできない。結局後にも先にも進めない。
わかってた。もうだめなんだ。結局、だめなんだ。もう、
だったら、
だったら
「……あんたなんか」
いやだ。
「あんたなんか」
全力で腕を振り切る。
――だめだ。
「あんたなんかいなきゃっ」
だめ
『たすけてあげる』
「……なに」
こえ、が。
「……姉さん?」
『どうぞ、あねぎみさま』
視界の端に、小さな手。握りしめられた、白い花。
傍らに差し出されたそれを、今度は――――ためらわず、縋った。
「姉さ……っ」
切羽詰まった声がなにかに掻き消えた瞬間、はっと目が覚めた。
「…………え?」
そこは、さっきまで座っていた椅子だった。気を失う前、彼と会話していた状況のまま、私は一人椅子に腰かけていた。テーブルの上にはまだ湯気の立っているカップが並び、美味しそうなお菓子も丁寧に並べられている。
眠っていたのか、気を失っていたのか。さっきのは、なに。
いやに静かな部屋に気付き向かい側を見ると、そこには誰も座っていない。
……夢? いや。だって、あれは。
「――――新さん?」
返事はない。
静寂の中で、力の抜けた右手から、触れた覚えのない一輪の白い花がするりと抜け落ちた。
遅くなってしまった上にかなりの文字数で、すまねぇこってす。
鬱展開で胸焼けした方はばらえてぃーのほうにお口直しにかなり遅いバレンタインの相模君を投下したのでどうぞ読んでやってください。