【第9話】満ちる月と、寄り添う声(その1)
帝国からの圧力は、日に日に強まっていた。
学院の結界が強化され、騎士団の巡邏が増え、生徒たちの表情からも余裕が消えていく。帝国の黒狼公爵――レオン・ヴァルハイトが、正式に「月の巫女の引き渡し」を要求してから、すでに二週間が経っていた。窓の外の二つの月は、もうほとんど満ちようとしている。
澪は学院長室に呼ばれ、改めて状況を説明された。
「拒否すれば、戦争になる可能性が高い。しかし、あなたを差し出せば、帝国の思惑通りに利用されるでしょう」
エレノアの声は静かだったが、重かった。
澪は拳を握りしめた。
「私は......道具じゃない。自分で、この状況を変える方法を考えたい」
その言葉に、学院長が深く頷いた。
「それが、巫女の本当の力です」
部屋を出た後、澪はふと、机の引き出しの奥にしまったままの手紙を思い出した。
(世界は、守るだけでは変わらない――)
あの一文が、今も時々、頭の片隅をよぎる。怖い男の言葉だ。信用できるはずがない。分かっているのに、完全に忘れることもできずにいた。
(一理ある、なんて、もう思わない)
そう自分に言い聞かせながらも、澪はその手紙を、まだ捨てられずにいた。
* * *
学院に来てから、澪には初めて「友達」と呼べる相手ができていた。同室のリナだ。明るく、面倒見のいい少女で、澪の異世界での戸惑いを、いつも笑い飛ばしてくれた。
「澪ってば、またそんな顔してる。日本のこと考えてたでしょ」
夕食の席で、リナがスプーンを止めずにそう言った。
「......分かる?」
「分かるよ、毎日一緒にいるんだから」
リナは悪戯っぽく笑って、澪の器に自分のデザートを一切れ分けてくれた。
「元の世界に帰れなくなるかもしれない、なんて話、普通の子なら泣いて騒ぐと思うけど。澪は強いね」
「強くなんかないよ。ただ、今は考えないようにしてるだけ」
「それも、強さの一つだと思うけどな」
そんな他愛のないやり取りが、澪にとってはどれほど支えになっていたか、リナ自身は知らなかっただろう。異世界に一人放り込まれたようなこの毎日の中で、リナと過ごす時間だけが、日本での「普通の女子高生」だった頃と、地続きに感じられた。
ある夜、寮の部屋でリナが身を乗り出してきた。
「ねえねえ、日本の学校ってどんな感じなの? 澪の話、もっと聞きたい」
「そんな、普通だよ。制服着て、授業受けて......」
「その『普通』が知りたいの! こっちの学院とは全然違うでしょ?」
澪は戸惑いながらも、少しずつ話し始めた。
「文化祭とか、体育祭とか、行事はあるかな。あと、修学旅行......クラスのみんなで、旅行に行くの」
「修学旅行!? いいなあ、それ。こっちだと、遠征なんて騎士科の子たちの実技演習くらいしかないもん」
「あと、スマホ......えっと、遠くの人ともすぐ連絡が取れる道具があって。写真も撮れるし、みんなそれでよく喋ってる」
「魔術なしで、遠くの人と話せるの!? すごい世界だね、澪のところ」
リナは目を輝かせて、次々と質問を重ねてきた。恋バナは流行っているのか、放課後は何をして過ごすのか、好きな食べ物は何か――。
「日本の女子高生って、みんな澪みたいに大人しいの?」
「ううん、全然。派手な子も、うるさいくらい元気な子もいるよ。私はただ、その中で、目立たないようにしてただけ」
「もったいない。澪、笑うと可愛いのに」
リナは屈託なくそう言って、澪の頬をつついた。くすぐったさに、澪も思わず笑ってしまう。
(こんな風に、誰かと話すの、久しぶりかもしれない)
日本でも、これくらい自然に、誰かと言葉を交わせていただろうか。思い返そうとして、うまく思い出せなかった。それくらい、リナと過ごすこの時間は、澪にとって特別なものになっていた。
放課後、二人で寮の部屋で過ごす時間も増えていった。
「澪の世界って、髪をどうやってセットしてるの? この学院、魔術で髪型変えられるけど、なんか味気なくて」
「日本だと、コテとか使うよ。......今度、髪、触ってみる?」
「やった、絶対やって」
リナは無邪気にはしゃぎ、澪の髪を手に取って、あれこれ試しては笑った。そんな時間の中で、澪はふと、日本の友達と過ごしていた放課後を思い出すことがあった。あの頃と同じ温度が、ここにもあった。
「リナは、家族は?」
何気なく尋ねたとき、リナの表情が、一瞬だけ曇った。
「......弟と、妹がいるよ。まだ小さいの」
「会いたい?」
「うん......まあ、それなりに」
いつもの快活さとは違う、少し硬い声だった。澪はそれ以上踏み込まなかった。誰にでも、触れられたくない部分はある。それは、澪自身も同じだったから。
別の日、部屋に届いた手紙を、リナが慌てて鞄の奥にしまうのを、澪は見た。
「誰から?」
「......村の知り合い。大した話じゃないよ」
いつもよりほんの少し早口だった。澪は特に気にも留めなかった。ただ、後になって思い返すと、あの瞬間のリナの目に、何かにすがるような色があった気がした。
その夜、リナが澪の部屋を訪ねてきた。
「ねえ澪、今度の休み、街に出ない? いい茶葉が入る店があるの」
「行きたい......けど、今は結界の外に出るのは危ないって」
「平気よ、私が案内するから」
リナは笑いながら、澪の手を引いた。何の疑いも持たず、澪は頷いた。
(リナがいれば、大丈夫)
そう思えるくらいには、この数週間で、リナは澪にとって大切な存在になっていた。
* * *
翌日の昼下がり、二人は学院の裏門から街へ抜けた。日差しは柔らかく、リナは道中もずっと、街の店の話を楽しそうに語っていた。澪は、久しぶりに肩の力が抜けているのを感じていた。
(こういう時間が、ずっと続けばいいのに)
巫女でも、境界を渡る者でもなく、ただの女の子二人で、他愛のない話をしながら歩く。それだけのことが、澪にはひどく貴重に思えた。
人通りの少ない路地に入った瞬間、リナの足取りが、ふっと止まった。
「......リナ?」
振り返ったリナの顔から、いつもの明るさが消えていた。冷たく、見知らぬ誰かの顔だった。
その手が、ほんの一瞬だけ、震えているのを澪は見た。
「ごめんね、澪。太陽教にも、暮らしがあるの」
(え......?)
頭が、状況に追いつかなかった。何が起きているのか分からない。ついさっきまで、髪型の話をして笑っていた相手だ。
(違うよね。何かの、冗談だよね)
そう思おうとした。だが、リナの目の色は、冗談を言っているそれではなかった。
(リナが、私を――)
その先を、うまく考えられなかった。信じたい気持ちと、目の前の現実が、真正面からぶつかり合っていた。
路地の両側から、黒装束の男たちが現れた。澪は反射的に半歩下がり、腰を落とした。子どもの頃、道場で叩き込まれた体の使い方が、考えるより先に動いた。
「捕らえろ。傷つけずにな」
リナが低く命じる。澪は拳を握りしめ、意識を研ぎ澄ました。
――怖い。でも、竦むな。
最初の男が踏み込んできた瞬間、澪は体をひねって躱し、手のひらの光で相手の視界を焼いた。完璧な回避ではなかった。それでも、初めて「教えられた通り」ではなく「自分の判断」で動けた瞬間だった。
「澪!」
カイの声が響いた。彼は虫の知らせを覚え、裏門から後を追ってきていたのだ。短杖から放たれた光が、男たちを次々と打ち払う。
リナは最後まで動かず、ただ澪を見つめていた。その表情に、勝ち誇った色はなかった。
「私の村は、代々、太陽教の巡礼団に仕えてきたの。命令に背けば、消されるのは私じゃない。弟や妹たちの方。......分かるでしょ、こんな理不尽」
リナは自嘲するように、小さく笑った。
「最初は、任務だった。友達のふりをして、隙を見て連れ去る。それだけのはずだった。でも......ごめん。一緒に過ごした時間、嘘じゃなかった。それだけは、信じて」
「じゃあ、どうして......!」
澪の声が、震えた。信じたいのに、信じ切れない。二つの気持ちが、同時に喉を締めつけた。
(デザートを分けてくれた。髪型を試させてくれた。あの手紙、あの時の顔。全部――)
一つ一つの記憶が、今になって、違う意味を持って澪の中に押し寄せてきた。
「嘘じゃないから、余計に......もう、戻れない。ごめんね」
それだけ言い残し、リナは闇の中に消えていった。
* * *
戦いの後、澪は膝から崩れ落ちた。友達だと思っていた相手に裏切られたという事実が、体より先に、心を殴りつけていた。
(デザートを分けてくれた、あの手と、同じ手なんだ)
普通の女子高生だった頃と、かろうじて地続きだと思えていた時間。それが今、根こそぎ引き剥がされた気がした。
(この世界で、誰を信じればいいの)
カイのことも、まだ完全には信じ切れていない。エレノアのことも。そこに唯一、素直に心を開けていたリナまでもが、こんな形で崩れた。
(私、また一人なんだ)
そう思った瞬間、涙が出るかと思った。だが、不思議と涙は出なかった。悲しみは体の内側に、重い石のように沈んでいくだけだった。
「大丈夫か......」
カイが駆け寄り、澪の肩を支えた。澪は首を振った。
「大丈夫じゃない......でも、立てる」
その一言に、カイは何も言わず、ただ頷いた。
(カイに、全部委ねてしまいたい)
一瞬、そう思う自分がいた。守ってもらって、考えることをやめてしまえたら、どれだけ楽だろう。だが、その考えが浮かんだ瞬間、澪は自分でそれを押し返した。
(それじゃ、また同じだ)
誰かに委ねて、自分を守ってもらって、そのぶん自分の意志を差し出す。日本でしていたことと、同じことを、また繰り返すだけだ。




