【第10話】満ちる月と、寄り添う声(その2)
この一件は、学院内に大きな衝撃を与えた。太陽教の密偵が、生徒の中にまで入り込んでいたという事実は、誰の目にも「安全な場所」などどこにもないことを突きつけた。
その夜、隣国からの旅商人が、酒場でこんな噂話をしていた。
「聞いたか、黒狼公爵の話。先の国境戦で、降伏した敵の隊長を、無傷で解放したそうだ」
「馬鹿な、あの男が慈悲をかけるとはな」
「隊長が『部下の命だけは』と頭を下げたら、公爵はただ一言、『臆病者を殺しても得るものはない。連れて失せろ』と言ったきりだったらしい」
「一方で、自軍の中に裏切り者が出た時は、その場で斬り捨てたっていうぜ。味方には特に容赦がないってな」
「分からん男だ......」
その噂は、旅商人の口から口へと伝わり、やがて学院にも届いた。澪はその話を耳にしたとき、あの森で見た、月光の下のレオンの顔を思い出した。
(敵だから、悪い人のはず)
そう決めつけようとした。だが、降伏した敵を助けたという話は、その決めつけに小さな亀裂を入れた。
(じゃあ、どうして裏切り者は殺すの?)
理屈が繋がらない。冷酷なだけの男ではない。かといって、優しい男でもない。ただ、彼にとっての「情け」の基準が、他の誰とも違うだけなのだ。
(分からない人。でも――)
単純な悪人、と決めつけていいのかどうか、澪にはもう分からなくなっていた。あの男が良い人間だとは、とても思えない。それでも、ふとよぎった疑問があった。
(あの人は、少なくとも――嘘はつかない気がする)
リナは、笑いながら本当の顔を隠していた。レオンは、初めから隠さなかった。怖いのはむしろ、隠さないことの方かもしれない。好きになれる相手では、決してない。それでも、澪の中で、レオンという人物の輪郭が、以前よりわずかに複雑になっていた。
窓の外では、二つの月が、ほとんど重なりかけていた。あと数日で、満ちる。エレノアの言葉が、また頭の片隅をよぎった。月が満ちるたび、境界は薄くなっていく。
澪はベッドに腰かけ、空いた隣のベッドを見つめた。リナが使っていた場所だ。まだ、彼女の匂いが残っている気がした。
(信じてたのに)
そう思う一方で、今日、初めて自分の判断で敵の隙間を縫って動けたことも、また事実だった。悲しみと、かすかな手応え。矛盾する二つの感情を、無理に一つにまとめようとはしなかった。
(日本でも、異世界でも、私はいつも誰かに合わせて、誰かに委ねてきた)
(でも、それじゃ、また裏切られたときに、何も残らない)
これまでの出来事が、頭の中を巡っていく。巫女として期待されること。カイに守られること。老人の言葉に救われたこと。レオンの手紙に、少しだけ心が揺れたこと。そして今夜、リナに裏切られたこと。そのすべてが、一つの場所に集まっていくのを、澪は感じていた。
(誰を信じるか、誰かに決めてもらうことはできない)
自分の力で行動することを、少しずつ覚え始めていた。けれど、誰を信じるかを決めるのは、それよりずっと難しかった。
「私は......もう、誰かに決めてもらうだけには、ならない」
声に出してみると、思ったより掠れていた。まだ、その先に何があるのか、澪自身にも分からない。それでも、その言葉だけは、はっきりと胸に残った。
澪はそれ以上、繰り返さなかった。ただ、空いた隣のベッドのシーツを、そっと直した。




