【第11話】月の抱擁と、目覚める獣(その1)
リナの事件から、数日が経っていた。
学院の空気は、明らかに変わっていた。廊下ですれ違う生徒たちの視線には、以前の好奇心とは違う、警戒と憐れみが混じっている。誰もが「次は自分の隣にいる誰かかもしれない」と疑い、言葉の端々に、探るような響きが混じるようになった。
澪の部屋には、新しい同室者が来なかった。空いたベッドが、そのまま残されている。誰も何も言わなかったが、その空白そのものが、事件の重さを語っていた。
「大丈夫か」
食堂で、誰かがそう声をかけてくる回数が増えた。心配してくれているのは分かる。それでも澪は、その言葉の裏に「腫れ物」を見るような視線を感じてしまう自分がいた。友達だと思っていた相手に裏切られたという事実は、思っていたよりずっと深く、澪の中に根を張っていた。
(気にしてないふりをするのは、得意なはずなのに)
日本でも、ここでも、澪はいつも表面だけを整えることに慣れていた。だが今回だけは、その技術がうまく働いてくれなかった。空いたベッドを見るたび、傷の場所が分かっているのに、触れずにはいられないような感覚があった。
それでも、澪はその傷を抱えたまま、日々を止めなかった。止まっている方が、もっと苦しい気がしたからだ。
* * *
その夜、澪はカイと共に、事件のあった裏門近くを見回っていた。学院側が警備の穴を洗い出すための巡回だったが、澪は自らそれに志願していた。
「もう休んでええんやで」
カイが気遣うように言った。だが澪は首を振った。
「動いてないと、考えちゃうから」
しばらく無言で歩いていたが、不意にカイが足を止めた。拳が、白くなるほど強く握られている。
「......くそっ」
低く、絞り出すような声だった。澪は驚いてカイを見た。いつも穏やかな彼の顔が、初めて、怒りとも呼べる感情に歪んでいた。
「俺は、守るって言うたんや。せやのに、あの時、間に合わへんかった。お前が一人で戦ってる間、俺は何もできへんかった」
「カイ、それは――」
「わかっとる! 結果として、お前は無事やった。それでも、俺は悔しいんや!」
珍しく声を荒げたカイは、はっとしたように口をつぐんだ。それから、深く息を吐き、拳をゆっくりと開いた。
「......悪い。柄にもなく、取り乱してもうた」
「ううん」
澪は静かに首を振った。
「カイがそんなに悔しがってくれてること、初めて知った。いつも冷静に、優しいだけの人だと思ってたから」
「守れんかった自分が、一番腹立たしいんや。お前にやない」
その言葉に、澪の胸が熱くなった。守ることに徹してきたカイの、剥き出しの無力感。それは、彼が積み上げてきた「守る」という信念の裏側にある、生々しい人間らしさだった。
(この人も、完璧じゃないんだ)
そう気づいたことで、不思議と、カイのことがもっと近くに感じられた。完璧な守護者ではなく、悔しさを抱えたまま隣を歩く、一人の人間として。
「私は、無事だよ。カイのせいじゃない」
澪はそっとカイの手に触れた。カイは何も言わず、ただ強く、澪の手を握り返した。
その日を境に、澪の中で何かが変わった。守られることへの安心と、それでも自分の足で立ちたいという願いが、以前よりはっきりと、輪郭を持ち始めていた。
(守ってもらうのが嫌なんじゃない。守られるだけの自分が、嫌なんだ)
その違いに、澪はようやく気づき始めていた。
* * *
気づけば、最初の月の抱擁は、訓練にも慣れないうちに、静かに過ぎ去っていた。あの時は、ただ耐えることしかできなかった。そして今、二つ目の月の抱擁が近づいていた。
学院の庭園では、魔力で育てられた青と銀の花々が夜風に揺れ、甘く切ない香りを漂わせている。澪は自ら学院長に提案した。
「儀式に参加します。ただ力を出すだけじゃなく、どう使われるかも自分で確認したい」
「いいでしょう。ですが、覚えておいてください」
エレノアの声が、わずかに翳った。
「月の抱擁の夜、あなたの中の獣が、初めて姿を現すかもしれません。それは同時に、あなたと現実の世界を繋ぐ糸が、最も張り詰める夜でもあります。境界が最も薄くなる――良くも悪くも」
「それって......」
「儀式の最中に、あなたが元の世界へ引き戻される可能性も、ゼロではないということです」
澪は息を呑んだ。せっかく自分の意志で参加を決めたのに、その決断ごと、月の理に押し流されてしまうかもしれない。
(帰りたくないわけじゃない)
母の顔が、一瞬だけ浮かんだ。帰りたい気持ちは、まだちゃんとある。それでも――
「怖いなら、無理にとは――」
「参加します」
澪はエレノアの言葉を遮った。声が、自分でも驚くほど低かった。
「引き戻されるかもしれない、で逃げてたら、結局また『流される』のと同じだから」
帰る、帰らないを、今ここで決めなくてもいい。ただ、自分の意志とは関係のない力に、勝手に運ばれることだけは嫌だった。
エレノアは澪をしばらく見つめた後、静かに頷いた。
儀式に向けた訓練は、これまでとは質が違った。今までは「光を出す」だけで良かったが、今度は「己の獣を呼び覚ます」ための、もっと内側に踏み込んだ集中を要求された。
「目を閉じて。技術じゃない。あなたが何者なのか、その答えを、体に思い出させるの」
エレノアにそう言われるたび、澪の脳裏に浮かぶのは、竹刀を構えた小さな頃の記憶や、リナに裏切られた路地の冷たさ、カイに支えられた手のひらの温度だった。技術ではなく、記憶そのものが、力の源になっているらしかった。
ある夕暮れ、カイが裏庭で澪に小さな青い花を差し出した。
「この花、俺が育てたんや。君の力で咲かせてみてくれ」
澪が優しく触れると、花は銀色の光を帯び、美しく咲き誇った。カイの笑顔が、夕陽に照らされて優しく輝いた。
「君がここにおるだけで、学院が変わった気がするわ」
二人は並んでベンチに座り、しばらく無言で二つの月を見つめた。カイの肩が、そっと澪の肩に触れた。今度は、澪はもう身をずらさなかった。
「カイ......ありがとう。あなたがいてくれると、安心する」
「俺はただ、君のそばにおりたいだけなんや」
(安心する。それは、本当)
同時に、澪は自分にそっと釘を刺した。安心することと、この人に委ねてしまうことは、まだ別のものにしておきたい。カイが隣にいてくれることは嬉しい。それでも、選ぶのは自分でありたかった。
* * *
しかし、その夜。
澪は、これまでにない夢を見た。黒い玉座に腰かけたレオンが、金色の瞳で澪を見つめていた。その目には、これまで戦場で見せてきたような余裕も、嘲りもなかった。
「お前は、俺のことを、少しは知ろうとしている。他の誰も、そんなことはしなかった」
夢の中で、澪は思い切って問いかけた。
「あなたは、何を失ったの?」
レオンは、少しの間、答えなかった。ただ、その沈黙の長さが、何かを物語っているようだった。
「......さあな。数えたことがない」
はぐらかすような答えだった。それでも、その声には、これまでのような余裕はなかった。
「知りたいなら、お前が自分の目で見にくればいい」
目覚めた澪は、汗ばんだ額を拭いながらベッドに起き上がった。胸のざわつきが、なかなか収まらなかった。怖いはずの相手なのに、なぜかその夢を、悪い夢として片づけられない自分がいた。
(知りたい、なんて思っちゃだめだ)
そう思いながらも、澪はしばらく、暗い天井を見つめたまま眠れずにいた。
(さっきまで、カイと一緒にいて、あんなに安心してたのに)
数時間前の温かい記憶と、今しがた見た夢の余韻が、同じ胸の中でせめぎ合っている。まるで、二つの感情を同時に抱えることが、それ自体が罪であるかのように、澪は自分を責めた。
(レオンの夢を見て、こんな風に心が波立つなんて。私、最低かもしれない)
一つに定まらない自分の心が、ひどく頼りなく感じられた。今日はカイに安らぎ、次の瞬間にはレオンに引き寄せられる。まるで、秋の空のように、変わりやすい。
(誰かを好きになるって、こんなにあやふやなものだったんだろうか)
日本にいた頃は、誰かを強く好きになることさえ避けてきた。傷つくのも、誰かに執着するのも、怖かったから。今、初めて誰かに惹かれる気持ちを知ったのに、それが一つに定まらないという事実だけが、澪を戸惑わせた。




