【第12話】月の抱擁と、目覚める獣(その2)
儀式の日が来た。
学院の中央広場に、複雑な魔術陣が描かれ、二つの月が完全に重なろうとしていた。
魔術陣の外縁で、月神教の老巫女――誰もがただ「オルガ様」とだけ呼ぶ、腰の曲がった女性が、祈りの言葉を唱えていた。長年、幾人もの巫女や騎士を、この均衡のために送り出してきた人だった。
「均衡のためとはいえ、まだこんなに若い子を......」
老巫女は祈りの合間に、そう小さく呟いた。頬に涙が伝っていたが、彼女は祈りの手を止めなかった。優しさと、非情さは、彼女の中で矛盾せずに同居していた。世界を守るためなら、涙を流しながらでも、この子を犠牲にすることを受け入れる。それが、彼女の背負ってきた役目だった。
澪はその涙に気づかなかった。ただ、老巫女の唱える祈りの声だけが、遠くから響く子守唄のように、耳の奥に残った。
澪は魔術陣の中心に立った。二つの月が重なる寸前、体が、ふっと軽くなった。
(――これ)
足の裏から、地面の感覚が薄れていく。周りの音が遠のく。日本の部屋の匂い、雨音、母の声が、記憶ではなく、まるで今そこにあるかのように、視界の端に滲み始めた。
(お母さん......)
一瞬、強烈な引力に、体ごと持っていかれそうになった。帰りたい。その気持ちに、嘘はなかった。
糸が、引かれている。
抗いようのない力だった。だが澪は、奥歯を噛みしめ、その場に踏みとどまった。かつて竹刀を構えたときの重心の置き方で、足の裏に意識を集める。流されるな。ここで攫われたら、また「選ばされる」側に戻ってしまう。
(帰りたくないわけじゃない。ただ、今、勝手に決められたくないだけ)
「私は......まだ、選んでいない」
声にした瞬間、光が爆発的に広がった。
その瞬間――澪の背後に、銀色の狼の姿が浮かび上がった。
大きく、気高く、けれど群れを持たない一匹狼。金色の瞳が、澪自身の瞳と同じ色に輝いている。周囲から、驚きのどよめきが起こった。
「あれが......月の巫女の魂の獣」
「銀狼だ......なんて孤高な......」
カイが息を呑んで、その姿を見つめていた。彼の隣に立つ澪自身は、何も変わっていない。ただ、後ろに浮かぶ銀狼だけが、彼女の本当の姿を語っていた。
――群れない。従わない。自分で決める。
澪は、自分の中に眠っていたものの正体を、初めてはっきりと理解した。それは、月の力に選ばれた特別な印などではなく、澪自身が今この瞬間、現実へ引かれる力に抗って「ここにいる」と選び取ったことの、証だった。
代償として、激しい頭痛と、現実世界の幻影が襲ってきた。日本にいた頃の自分の部屋、母親の顔、図書室の本棚......それらがチラチラと視界に浮かび、胸が締め付けられた。
澪は痛みを堪えながら、心の中で誓った。
「私は......まだ、選んでいない。自分の意志で、必ず答えを出してみせる」
二つの月が、完全に重なった。銀狼が、月に向かって一度、静かに遠吠えをした。それは、悲しみではなく、覚悟の声だった。
そして澪は、意識を保ったまま、二つの世界の狭間に、確かに立ち続けていた。




