【第13話】帝国の影、学院の危機(その1)
帝国軍の小規模な侵攻が、学院の守備範囲を襲った。
警報が鳴り響き、騎士団が慌ただしく動く中、澪は自室の窓から、遠くに上がる黒煙を見ていた。
(また、誰かが傷つく)
心臓が、いやな音を立てて鳴っている。それでも、部屋にじっとしているという選択肢は、もう澪の中になかった。拳を握り、澪は廊下へ駆け出した。
学院長室の扉を、ノックもせずに開ける。
「私を連れて行ってください。ただ待っているだけじゃ嫌です」
エレノアは一瞬、言葉を失ったように目を細めた。すぐに冷静を取り戻したが、その瞳には複雑な影が残っていた。
「......わかった。ただし、決して無理はしないこと」
カイも即座に同行を申し出た。彼の表情は、いつになく硬かった。
戦場は混沌としていた。黒い霧が低くなびき、魔物が村の家屋を壊していく。村人たちの悲鳴と、金属のぶつかる音が夜の空気を切り裂いていた。
「待っとけ。俺が先に――」
カイの言葉が終わる前に、澪はすでに霧の縁へ足を踏み入れていた。
「私がやらなきゃ、意味がない」
声は低かった。手のひらを広げると、迷いなく銀色の光が満ちる。今度は最初から強く、無駄なく。霧はほとんど一瞬で晴れ、魔物たちが悲鳴を上げて後退していった。
「またあなたに、助けられましたね......!」
その声に、胸が熱くなった。同時に、後から追いついたカイの手が、澪の腕を強く掴んだ。
「勝手なことすなや......! 危ないやろ」
声に、優しさよりも苛立ちが混じっていた。澪は振り返らずに答えた。
「......ごめんなさい。でも、止まっていられなかった」
(カイの気持ちも分かる。それでも――)
謝る言葉と、退かない足。その両方が、今の澪には必要だった。
その瞬間、空が暗くなった。黒い飛竜が舞い降り、その背にレオン・ヴァルハイトが立っていた。金色の瞳が、月光の下で妖しく輝いている。
飛竜が着地する寸前、負傷した帝国兵の一人が、体勢を崩して落馬した。レオンは眉一つ動かさず、その兵に歩み寄ると、無言で自分のマントを外し、傷口に押し当てた。
「後方へ下がれ。ここでお前に死なれては困る」
短い一言だったが、声には確かな気遣いがあった。兵は驚いた顔で頭を下げ、仲間に支えられて下がっていった。
一方で、澪たちの村を襲っていた魔物を統制していた斥候の一人――帝国軍の指揮系統を無視して勝手に村を襲わせた男――が、レオンの前に引きずり出された。
「命令にない殺戮を行ったそうだな」
レオンの声から、温度が消えた。
「へ、閣下、我々はただ功を――」
「要らぬ」
それだけだった。レオンは男に一瞥もくれず、背を向けた。その後の男がどうなったかを、澪は知らない。ただ、味方の兵たちが誰も、その処遇に異を唱えなかったことだけは分かった。
(味方にすら容赦しない。それでも、傷ついた兵は助ける)
矛盾しているようで、矛盾していないのかもしれない。澪にはまだ、その基準がうまく飲み込めなかった。
「ようやく、自分で動くようになったか、月の巫女」
レオンは戦わず、ただ澪を観察するように立っていた。
カイが即座に澪の前に立った。短杖を構え、声を張り上げる。
「近づくな! 澪を渡すわけにはいかへん。俺は、俺の信じるやり方で世界を守るんや」
「守る、か」
レオンが冷たく笑った。
「守るだけの世界に、変化などない。壊さなければ、何も変わらんぞ、白の騎士」
剣と魔術が交錯し、激しい戦闘が始まった。カイは必死にレオンを食い止めるが、力の差は明らかだった。肩に浅い傷を負いながらも、カイは一歩も引かない。その背に、一瞬だけ、白い光をまとった巨大な虎の翼の残像が広がった。だが彼はそれを解き放とうとはしなかった。あくまで人の身のまま、剣と魔術だけで戦う道を選んでいた。
「澪を......守るんや!」
その姿が、澪の胸を強く揺さぶった。彼女は光の壁を展開し、二人の間に割り込むように前へ出た。
「レオン。あなたはなぜ、私を欲しがるの? ただの道具として?」
問いかけながら、澪は自分でも驚いていた。少し前までの自分なら、こんな問いを、自分から投げかけることすらできなかった。連れて行かれることに怯えるだけの澪ではなく、今、自分から相手の意図を尋ねている。
レオンはわずかに笑った。その笑みには、ただの敵意ではない何かが宿っていた。
「道具などではない。お前は、俺の闇を照らす光だ」
その言葉が、澪の心に落ちた。怖い。それでも、目を逸らせなかった。この感情に名前をつけるとしたら、それは恋心などではなく、もっと得体の知れない――彼という人間の輪郭を、もっと知りたいという、危うい好奇心に近いものだった。
(好きとか、そういうことじゃない。ただ、この人が何を考えてるのか、知りたいだけ)
そう自分に言い聞かせながらも、澪は光の壁を維持したまま、はっきりと言った。
「待たないで。次は、私があなたに会いに行く」
一瞬、戦場が静まった。レオンの金色の瞳が、明らかに揺れた。余裕のある笑みが消え、初めて本気の興味と、わずかな動揺が混じる。
「......自分から来る、だと?」
戦いは膠着状態に終わり、レオンは飛竜に跨って撤退した。去る前に、彼は澪に向かって低く言った。
「いいだろう。次は、お前の番だ」
飛竜が夜空に溶けていく。戦場が静まった後、カイは澪の肩に手を置いた。血が滲んでいる。
「大丈夫か......?」
「うん......カイこそ」
澪はカイの傷を手当てしながら、胸の奥で色々な感情がせめぎ合っているのを感じた。カイの優しさに安心する気持ち。レオンに問いかけたことへの、自分でも説明のつかない緊張。そして、自分が今、言い放った言葉の重み。
(連れて行かれるんじゃなくて、自分で行くって言った)
その事実だけは、はっきりと分かった。恋愛感情かどうかは分からない。それでも、澪は今、自分の意志で、次の一歩を決めていた。
それでも、胸の紋章は淡く、しかし確かに光を脈打たせていた。二つの月が、夜空で静かに輝いていた。
* * *
「――派手にやったな。片付けは俺の仕事じゃないんだが」
不意に、明るい声が割り込んできた。振り返ると、燃えるような金髪の男が、崩れた家屋の瓦礫に軽々と腰かけていた。仕立ての良い外套を纏い、余裕たっぷりの笑みを浮かべている。歳は二十二、三といったところか。
カイが即座に警戒し、身構えた。
「誰や」
「怖い顔するなよ、白の騎士。俺は敵じゃない」
男は瓦礫から飛び降り、澪の前に立つと、芝居がかった仕草で胸に手を当てた。
「マイケルだ。獣王一族の端くれで、まあ、第三勢力とでも思ってくれ。お前らの派手な喧嘩の後始末――というより、様子見に来ただけさ」
彼はそう言うと、澪の顔を覗き込み、輝くような笑顔でこう言った。
「――で、どうだ? 当然、俺は素敵だろ?」
一瞬の沈黙が流れた。
「興味ありません」
澪は間髪入れずに、平坦な声でそう答えた。
「......アレ?」
マイケルは、心底ショックを受けた顔で固まった。カイが思わず噴き出しそうになるのを、慌てて堪えている。
「お、おかしいな......普通、ここで頬を染めるところだろう......」
「残念ながら」
澪が素っ気なく返すと、マイケルは肩を落としながらも、すぐに持ち直したように笑った。切り替えの早さも、彼の身上らしい。
「面白いな、お前。まあいい、また会おう、月の巫女。俺の獅子は、退屈な話には付き合わない主義でね」
その言葉と共に、彼の背後に一瞬、黄金の鬣を持つ巨大な獅子の影が浮かび上がり、すぐに消えた。百獣の王と呼ぶにふさわしい、圧倒的な存在感だった。マイケルはひらりと踵を返し、瓦礫の向こうへと去っていった。
「......何やったんや、あいつ」
カイが呆れたように呟く。澪も同じ気持ちだったが、なぜか、胸の中に残る奇妙な軽さに、少しだけ救われた気がした。
(帝国、学院、そして獣王一族。この世界は、思っていたより、ずっと複雑だ)
それでも、怖いとは思わなかった。今の澪には、少しずつでも、自分の目でこの世界を確かめていく覚悟が芽生え始めていた。
幕間 束の間の帰郷
その夜、澪は自室に戻ると、着替える間もなくベッドに倒れ込むように眠りに落ちた。今日一日で使った力の分だけ、体の奥から、何かが静かに抜け落ちていくような感覚があった。
夢とも現実ともつかない感覚の中、遠くで雨の音がした。




