【第14話】帝国の影、学院の危機(その2)
目を開けると、そこは見慣れた天井だった。
木目の模様。小さな染み。カーテンの隙間から差し込む、灰色の光。
(ここ......)
澪はゆっくりと体を起こした。制服ではなく、いつも寝るときに着ているパジャマ姿だった。窓の外では、雨が静かに降っている。
自分の部屋だ。日本の、あの部屋。
心臓が、大きく跳ねた。慌てて枕元のスマートフォンを手に取る。電源はとうに切れていた。震える指で起動すると、日付が表示された。澪は指を止め、あの雨の夜の日付を、頭の中で思い返した。
五日。
こちらでは、五日も経っている。
画面には、母からの着信とメッセージが、数えきれないほど並んでいた。「どこにいるの」「お願いだから連絡して」「警察に相談した」――時間が経つごとに、文面から余裕が消えていくのが分かった。
澪が身動きする気配に気づいたのか、階下から慌ただしい足音が響いた。ドアが勢いよく開く。
「澪っ......!」
母の顔は、記憶にあるよりずっと痩せていた。目の下には濃い隈があり、澪の姿を見た瞬間、その場に崩れ落ちるように駆け寄ってきた。
「どこに......どこに行ってたの......! 学校にも連絡して......警察にも......」
「異世界に――」
そこまで言葉が浮かび、澪はそれを飲み込んだ。
「お母さん......ごめんなさい」
ただ、母の背中に腕を回し、その震えが少しずつ収まっていくのを、黙って感じているしかなかった。
母は何度も、同じ言葉を繰り返した。
「よかった......よかった......」
声は震え、涙でほとんど言葉にならなかった。何度も澪の頬に触れ、髪に触れ、腕に触れ、まるでそこに本当に娘がいることを、確かめずにいられないかのように。指先が、何度も同じ場所を往復する。娘の輪郭を、目だけでなく、手のひらでも確かめないと、安心できないというように。
後で少しずつ分かったことだが、母はこの五日間、こんな風に過ごしていたらしい。
一日目の朝、母は仕事を休み、澪の携帯に電話をかけ続けた。昼には学校に連絡し、夕方には交番へ向かった。二日目の夜、作り置きの惣菜には誰も手をつけないまま、冷蔵庫の奥で冷えきっていった。三日目、警察から「万一のことも、覚悟しておいてください」と告げられた。それでも母は、毎晩、玄関の鍵を何度も確かめては、夜中に何度も、誰もいない澪の部屋のドアを開けては、また静かに閉めていた。そんな夜を、五日間、繰り返していた。
「もう、二度といなくならないで。お願いだから」
母のその一言が、澪の胸に深く刺さった。頷くことしかできなかった。頷きながら、澪はすでに、いつかまた同じことが――いや、今度は二度と戻れない形で――起こるかもしれないことを、うっすらと予感していた。その予感を、今は口にできなかった。
その日は、警察への説明と、病院での検査で、ほとんどの時間が過ぎた。「記憶がはっきりしない」という言葉で、澪はその場をやり過ごした。嘘ではなかった。本当に、うまく説明できる言葉が、この世界には存在しなかった。
夕方、ようやく一人になれた部屋で、澪はカーテンの隙間から外を見た。雨は上がり、雲の切れ間に、細い三日月が覗いている。
(また、始まってる)
心臓の音が、その月の細さと同じリズムで、静かに脈打っている気がした。
* * *
翌朝、学校に行くかどうか、澪はしばらく迷った。休むように、と母には言われていた。それでも、じっとしていることの方が、かえって苦しかった。
制服に着替え、久しぶりの通学路を歩く。何もかもが、少しだけよそよそしく見えた。
昇降口で靴を履き替えていると、聞き慣れた声がした。
「――星野」
淳だった。いつもと変わらない、抑揚の薄い声。
澪は身構えた。何を聞かれるだろう。どこにいたのか、何があったのか。答えられる言葉を、必死に探そうとした。
淳は一度だけ澪の目を見て、それから視線を外した。
「おかえり」
それだけだった。詮索も、驚いた顔も、何もない。ただ、いつもの場所に、いつも通り立っていた。
澪の喉の奥が、不意に熱くなった。誰よりも、その一言が、今の自分には必要だったのだと、遅れて気づいた。
「......ただいま」
そう答えるだけで、精一杯だった。淳は小さく頷くと、それ以上は何も言わず、先に昇降口を出て行った。深追いしない優しさが、こんなにも体に染みるものだと、澪は初めて知った。
* * *
その夜、澪はベッドに横たわり、窓の外の月を見つめていた。三日月は、少しずつ、確かに太くなっている。
無意識に、指先が冷たくなっていた。澪は、パジャマの上から、胸の紋章のあった辺りに、そっと手を当てた。
(また、呼ばれる)
怖いのに、同時に、そちらへ戻りたいと願っている自分がいた。カイの温かさ、レオンの熱、学院の仲間たち。あちらにも、確かに自分の居場所ができていた。
けれど、この部屋も、母の涙も、淳の「おかえり」も、同じくらい本物だった。母の震える腕。冷蔵庫の奥で冷えたままの惣菜。何も聞かずに「おかえり」とだけ言ってくれた声。そのどれもを、澪は失いたくなかった。
どちらかを偽物にしてしまえば、きっと楽だった。
(私は、二つとも、本当なんだ)
かつて剣道の道場で覚えた「型と自分は矛盾しない」という感覚が、今度は世界そのものに対して、静かに広がっていくのを、澪は感じていた。
月が満ちていくにつれ、体の奥に、あの引かれる感覚が戻ってきた。胸の紋章が、皮膚の下でかすかに熱を持ち始める。雨上がりの夜気の中に、かすかに、あちらの世界の風の匂いが混じっている気がした。目を閉じると、二つの月の気配と、カイの声、そしてレオンの金色の瞳が、順番に浮かんでは消えていく。
数日後の晩、澪は自室のベッドで、糸に引かれるように意識を失った。
再び目を開けたとき、そこは、学院の見慣れた白い天井だった。




