【第15話】二人の想いと、選び取る覚悟(その1)
学院の白い天井を見上げた瞬間、澪はまだ、日本の部屋の残り香を体のどこかに感じていた。母の涙、淳の「おかえり」――あちらでの記憶は、夢のようでいて、ひどく生々しかった。誰にも、まだこのことは話していない。エレノアにさえ。
戦場から戻ってからというもの、カイはこれまで以上に、澪のそばにいるようになった。
訓練の行き帰り、食事の席、ちょっとした空き時間。理由をつけては顔を出すカイに、澪は気づかないふりをしながら、内心では少しくすぐったい気持ちを持て余していた。
その夜、カイが「見せたいものがある」と、澪を天文台に誘った。
螺旋階段を上りきると、ガラス張りの丸屋根の下に、二つの月がゆっくりと近づき始めているのが見えた。空全体が、銀と青の淡い光に染まっている。
「綺麗......」
「やろ? この時期だけ、月がこんな風に見えるんや」
二人は並んで石造りのベンチに腰かけた。しばらくの間、どちらも口を開かなかった。沈黙は気まずいものではなく、むしろ心地よかった。
やがて、カイが小さく息を吸う音がした。
「澪」
いつもと違う声色に、澪は思わずカイの方を見た。カイは月を見上げたまま、視線を合わせようとしない。指先が、膝の上で握られては、また開かれる。それを、何度も繰り返している。
「あのな......ずっと、言おうか迷ってたことがあるんや」
言葉が、途中で二度、途切れた。喉まで出かかった何かを、そのたびに飲み込んでいるようだった。
「......うん」
心臓が、いやに大きな音を立て始めた。澪自身、なぜこんなに緊張しているのか、うまく説明できなかった。
カイはようやく、澪の方に顔を向けた。それでも、その視線は一瞬だけ澪の目を捉え、すぐにまた月の方へ逃げた。もう一度、意を決したように、今度はしっかりと澪を見た。
「澪。俺は......君のことが、本気で好きなんや」
その言葉に、澪の心臓が大きく跳ねた。
「守るだけやのうて、そばにおりたい。君がこの世界に残るんやったら、俺が一生守る。帰りたいなら......それでも、できる限り一緒におりたい。俺は、君を失いとうないんや」
澪は胸が熱くなり、同時に痛みを感じた。
「カイ......私も、あなたのこと......」
そこで言葉が止まった。自分の気持ちを、うまく言葉にできない。それでも、確かめるように、もう一度だけ口にした。
「......好き」
二人の手が重なり、カイがそっと澪の頬に触れた。距離が縮まり、唇が触れ合いそうになった瞬間――
胸の紋章が熱を帯び、澪は頭を押さえた。
また、レオンのビジョンが襲ってきた。
黒い玉座の間。レオンが一人で立っている。金色の瞳に、深い孤独と、抑えきれない熱が同時に宿っていた。
「お前がいれば、この冷たい帝国を変えられるかもしれない。いや――変えたいなどと、綺麗なことを言うのはよそう。俺はただ、お前を手元に置いておきたい。光を、独占したい」
言い終えると、金色の瞳がわずかに揺れ、澪から逸れた。選ばれることを、どこか恐れているような目だった。
「......今、他の男に触れられていただろう」
唐突な一言に、澪はビジョンの中で戸惑った。何のことか分からない。だが、レオンの声には、明らかな苛立ちが滲んでいた。
「見えるんだ、多少は。お前の周りで起きていることが、断片的に」
「それって......」
「気にするな。俺には、口出しする権利なんかない」
そう言い切った直後、レオンは小さく舌打ちし、一度言葉を止めて、視線を逸らした。皇帝と呼ばれ、恐れられる男の、その一瞬の仕草に、澪は恐怖よりも先に、小さな驚きと、かすかな愛おしさを覚えた。
ビジョンが消えた後、澪は荒い息をつきながらカイの胸に顔を埋めた。
「ごめん......また、見えた」
カイは何も言わず、ただ澪を強く抱きしめた。
カイの腕の中で、澪はしばらく動けなかった。好きだと言われて、好きだと答えて、心から幸せだったはずなのに――その同じ瞬間に、レオンの孤独に胸を締め付けられている自分がいた。
(どうして、今、あの人のことを考えるの)
自分自身に問いかけても、答えは出なかった。カイへの想いは、本物だ。それは疑いようがない。それなのに、レオンの声を聞くたび、彼の孤独に触れるたび、胸の奥の別の場所が、確かに反応してしまう。
(浮気とか、そういうことじゃない、と思う。でも――)
うまく言葉にできない矛盾を抱えたまま、澪はカイの背に腕を回した。今この瞬間、カイを想う気持ちに嘘はない。それでも、この心が、明日も同じ形をしているとは、澪自身にも約束できなかった。




