【第8話】二つの月と、揺れる想い(その2)
帰り道、夕陽が森を赤く染めていた。カイが歩みを緩め、澪の横に並んだ。
「君、変わったな。来たばっかりの頃より、目、輝いとるで」
「......そうかな」
自分では、まだ何も変わっていない気がした。それでも、カイにそう言われると、少しだけ、そうかもしれないと思えた。
「うん。自分で動こうとしてる。それ、めっちゃええと思うわ」
カイの手が、そっと澪の手に触れた。温かい。安心する。だが同時に、澪の中で、小さな疑問符が灯った。
(この安心に、甘えすぎたら――)
甘えることと、頼ることの境界が、澪にはまだよく分からなかった。
「カイ......ありがとう。あなたがいてくれたから、ここまで来られた」
「俺はただ、君を守りたいだけやねん」
優しい言葉が、胸に染みた。でも、同時にどこかで疼くものがあった――カイの「守りたい」という気持ちの奥に、時々、彼自身の自由を差し出しているような影が見える気がしたからだ。まるで、翼を持ちながら、自ら地上に留まることを選んだ生き物のように。
(この人は、私を守ることで、自分の何かを諦めてるんじゃないだろうか)
うまく言葉にできない違和感だった。それを口にする勇気は、まだ澪にはなかった。
* * *
その夜、部屋に戻ると、扉の前で寮母が待っていた。
「お帰りなさい、澪さん。先ほど、これがお部屋の前に置かれていたんです。差出人も、届けた人の姿も、誰も見ておりません」
差し出されたのは、封のされた一通の手紙だった。表には、ただ一言、『月の巫女へ』とだけ書かれている。
(誰も見ていない......? 学院には、警備の魔術がかかっているはずなのに)
寮母もそれを不審に思っているのか、眉をひそめたまま、それ以上何も言わずに去っていった。
澪は手紙を握りしめたまま、しばらく扉の前から動けなかった。警備をすり抜けて、これを届けられる者が、この学院の中に――あるいは、外から易々と忍び込める者が、存在する。その事実だけで、背筋が冷たくなった。
部屋に戻り、震える指で封を切る。中には、力強い筆致で、こう書かれていた。
『お前の力は、学院の檻に閉じ込めるには惜しい。俺の元に来い。真の自由をやる。世界は、守るだけでは変わらない。壊してこそ、初めて新しいものが生まれる。――レオン・ヴァルハイト』
澪は手紙を握りしめ、胸の鼓動が速くなるのを感じた。
(怖い。こんな人、信用できるわけない)
そう思う。思うのに、手紙を握った指先から、力が抜けなかった。
(でも――)
レオンの言葉には、どこか、澪自身が抱えていた違和感と重なる部分があった。「守るだけでは変わらない」――その一文が、今日、村で感じた小さな疑問と、微かに響き合っている気がした。守られること、期待に応えること、巫女として振る舞うこと。そのどれもが、澪自身の意志とは、少し違う場所から来ている気がしていたから。
(一理ある、なんて思っちゃだめだ)
思った瞬間、自分にぞっとした。危険な男の言葉に、少しでも頷きかけた自分が、気持ち悪かった。それに――こんな手紙を、警備をかいくぐってまで届けられる相手だ。関わること自体が、危険信号のはずだった。
窓の外では、二つの月が、来た日よりも確かに丸みを帯びて、静かに輝いている。あとどれくらいで満ちるのか、澪にはまだ分からなかった。
澪はベッドに座り込み、手紙を胸に押し当てた。
カイの手のひらの温度が、まだ手に残っている。優しくて、あたたかくて、ずっとこのままでいたいと思わせる温度だった。
それなのに、レオンの手紙の文字を思い出すと、別の場所――喉の奥か、胸の底か、自分でもよく分からない場所が、ちりちりと熱を持つ。怖いはずなのに、目が離せない。
(私、どうかしてる)
そう思っても、心臓は静まらなかった。
守られている安心と、まだ見ぬ場所へ引きずり出されるような緊張。その両方が、同時に、同じ強さで澪の中にあった。どちらか一方を選べば楽になれるのに、澪にはまだ、それができなかった。
(カイは、安心。レオンは......何だろう)
名前のつけられない感情だった。恋愛感情とは、たぶん違う。もっと根っこの部分――自分がどう生きたいか、という部分に触れられている感じがした。
「私......どうしたいの?」
声に出してみても、答えは返ってこない。ただ、窓の外の二つの月だけが、いつまでも静かに、澪を見下ろしていた。満ちていく月を見ながら、澪はふと、エレノアの言葉を思い出した。月が満ちるたび、境界は薄くなっていく――。
(じゃあ、今の私は、まだどっちの世界にも、ちゃんといるのかな)
答えの出ない問いを抱えたまま、澪は手紙を机の引き出しの奥にしまった。捨てることは、なぜかできなかった。誰かに――エレノアにでも、カイにでも――この手紙のことを話すべきなのは分かっている。それでも、澪はまだ、誰にも見せる気になれなかった。




