【第7話】二つの月と、揺れる想い(その1)
「もう一度」
エレノアの声に、澪は乱れた息を整え、再び両手を構えた。
学院生活が始まって、今日でちょうど一週間になる。窓の外の二つの月は、来た日よりも、少しだけ丸みを増していた。訓練場の床には、澪が今までに失敗して吹き飛ばした机の跡が、いくつも焦げ付いていた。
「そもそも......この光は、何のためにあるんですか」
澪が尋ねると、エレノアは杖を置き、珍しく丁寧に答えた。
「月の巫女に宿る力は、瘴気を祓い、傷を癒し、魔物を退ける浄化の光。伝承では、大陸のどこにでも滲み出す『黒い澱み』――瘴気を清められるとされています。制御できれば、あなたは戦わずして、人を救える。ですが」
エレノアは、澪の焦げた訓練場を一瞥した。
「制御できなければ、その光は味方すら傷つける諸刃の剣です。今のあなたの力は、いわば剥き出しの刃。まずは、意志どおりに灯し、意志どおりに消す。それができて、初めて『使える』力になります」
(できなかったら、誰も守れないどころか、傷つけてしまうかもしれない)
澪は自分の手のひらを見下ろし、小さく息を吐いた。
(また、失敗した)
さっきの光は、灯った瞬間にすぐ弾けて消えた。
(月の巫女なのに、こんなこともできないなんて)
思ってから、その言葉自体に引っかかった。「月の巫女なのに」――まるで、澪自身にはできなくて当然で、巫女という肩書きだけが「できて当然」を要求しているような言い方だった。
(私、何に期待されてるんだろう)
エレノアの視線が、時々怖かった。優しい。でも、その優しさの向こうに、常に「巫女としての澪」への期待が透けて見える気がした。星野澪という一人の人間ではなく、伝説に出てくる存在としての「月の巫女」を、見られているような感覚。
(日本にいた頃も、そうだった)
誰かに合わせて、期待された自分を演じる。愛想笑いも、相槌も、そうやって作り上げてきた。ここでもまた、同じことをしているだけなのかもしれない。「巫女らしく」振る舞おうとしている自分に、澪はふと嫌気が差した。
「集中して。力は心の鏡よ」
言われた通り、目を閉じる。だが、浮かんでくるのは光の使い方ではなく、日本の教室の風景だった。愛想笑い。窓際の席。誰にも本音を見せない毎日。それから、一瞬だけ、下駄箱で交わした短い言葉。
(違う。今、考えるのはそれじゃない)
澪は頭を振り、もう一度、手のひらに意識を集めた。「巫女らしく」ではなく、ただ、自分がどうしたいのかだけを考えてみる。誰かの期待に応えるためじゃない。ただ、自分の手で、何かを変えてみたい――それだけを。
淡い光が、震えながらも灯る。今までで一番、安定していた。
「......できた」
「ええ。少しずつね。その調子なら、次の満月の頃には、村ひとつを浄化できるようになるでしょう」
エレノアが、珍しく口元を緩めた。その小さな変化が、澪には何よりの手応えだった。同時に、ふと思う。今、エレノアは「星野澪」を見て微笑んだのか、それとも「うまく力を使えた巫女」を見て微笑んだのか。区別がつかないことに、澪は小さな寂しさを覚えた。
「守られたい」という気持ちと、「自分で決めたい」という気持ち。この一週間、その二つが澪の中でずっとせめぎ合っていた。だが今、光が灯った瞬間だけは、その両方を、少しだけ手放せた気がした。誰に守られるでも、誰かに決められるでもなく、ただ自分の手のひらの中に、確かな何かがあった。
* * *
訓練の合間、澪は自ら提案した。
「私、外の村に行ってみたい。自分の力で、誰かを助けられるか試したい」
言ってから、心臓が速くなっているのに気づいた。撤回するなら今しかない、と思う自分もいた。
(カイが守ってくれる。それは、嬉しい)
だが同時に、その先を考えてしまう。ずっと守られているだけでいいのだろうか。日本にいた頃も、澪はいつも誰かに合わせていた。輪の端で、当たり障りのない相槌を打ちながら。ここでも、同じことをするつもりなのか。
(自分で、何かをしてみたい)
その思いが、震える声を後押しした。
カイは心配そうな顔をしたが、澪の決意を見て頷いた。
「俺も一緒に行くわ。危険やから、絶対に離れんといてくれ」
その言葉に、安心と、ほんの少しの物足りなさが同時に混じった。守られることは嬉しい。それでも、「絶対に離れないでくれ」という言葉の裏に、また自分が「守られる対象」に戻ってしまう予感があった。
村は学院から半日ほどの距離にあった。近づくにつれ、空気が変わっていくのが分かった。木々の葉が黒ずみ、鳥の声が消え、代わりに、獣とも人ともつかない低い唸り声が、あちこちから聞こえてくる。
「ここ最近、瘴気の濃い土地が増えとる。月が満ちに向かうたび、境界が薄うなって、瘴気が滲み出てくるんや」
カイが声を落として説明した。
「太陽教との戦の対応に人手が割かれて、辺境の浄化まで手が回ってへん。この村も、もう半月も見捨てられたまま放っとかれとる」
村に入ると、家々の隙間から、黒い霧がまとわりつくように漂っている。井戸の水は黒く濁り、家畜は力なく横たわったまま動かない。咳き込む子ども、うずくまる老人。乾いた咳の音が、あちこちから重なって聞こえてくる。
「村長は......もう三日前に、瘴気にやられて寝込んどる」
出迎えた村の若者が、震える声でそう言った。
澪は喉が渇くのを感じた。
(本当に、私にできるの)
足がすくみそうになる。手のひらに、じっとりと汗が滲む。魔術を習い始めて、まだ一週間だ。失敗したら。何もできなかったら。カイに任せた方が、確実に村人は助かるのではないか――そんな考えが、頭の中を駆け巡った。
低い唸り声が、すぐ近くで大きくなった。黒い霧の奥から、影が滲み出るように姿を現す。狼に似た輪郭を持ちながら、輪郭そのものが霧でできているような、実体の定まらない獣――瘴気に呑まれた獣、《穢れ狼》だった。
「澪、下がっとけ!」
カイが叫び、短杖を構えて前に出た。一体を斬り伏せる。だが、霧の奥から、二体、三体と、新たな影が次々に湧き上がってくる。
「きりがない......!」
カイの声に、初めて焦りが滲んだ。彼一人で防ぎきれる数ではなかった。
それでも、うずくまる老人の姿から、澪は目を逸らせなかった。ここで一歩を引いたら、この光景を、一生忘れられない気がした。気づかないうちに、拳を強く握っていた。
「私に、やらせて」
手のひらを広げ、銀色の光を放つ。最初は弱々しかった光が、澪の呼吸に合わせて、少しずつ強さを増していく。体の中から、何か温かいものが流れ出していく感覚があった。血が集まってくるような、あるいは失われていくような、不思議な感触。
《穢れ狼》の一体が、澪めがけて跳びかかった。
「危ない――!」
カイの声と、澪の光が放たれるのは、ほぼ同時だった。眩い銀の光が、獣の輪郭を内側から食い破るように弾ける。悲鳴とも唸り声ともつかない声を残し、獣は霧に溶けるように消えた。
膝から、力が抜けそうになる。それでも、澪は光を絶やさなかった。光が霧の奥まで届き、村全体を包み込んでいく。獣たちが、苦しみながら次々と後退していく。
やがて、黒い霧が晴れ、澄んだ空気が戻ってきた。
「ありがとう、巫女様......!」
その声に、澪の胸が熱くなった。初めて、自分の力で誰かを助けられた実感があった。同時に、頭の片隅で、別の声がした。
(この人たちが感謝してるのは、星野澪じゃない。巫女様、なんだよね)
嬉しい気持ちと、その小さな引っかかりが、同時に澪の中にあった。矛盾していることは分かっている。それでも、どちらも本物の感情だった。膝が震えていたことにも、少し遅れて気づいた。
* * *
村の外れで、一人の老人が焚き火にあたっていた。旅装束に、獣の毛皮を纏っている。傍らには、大きな一匹の鹿――いや、鹿にしては大きすぎる、角に淡い光を宿した獣が、静かに伏せていた。
澪は、なぜかその横顔から目を離せなかった。深く刻まれた皺、少し猫背の背中。亡くなった祖父が、縁側でよく日向ぼっこをしていた、あの姿によく似ていた。
(おじいちゃん......? まさか、そんなはずないのに)
吸い寄せられるように、澪は焚き火に近づいていた。
「月の巫女さんかい」
老人はしわがれた声で笑った。声の掠れ方まで、どこか懐かしかった。
「学院の連中や、教会の坊主どもは、色々と難しいことを言うだろう。だがね、わしら精霊を敬う者にとっちゃ、話はもっと単純だ。獣は神でも予言でもない。ただ、そこにいる」
老人は隣の獣の首筋を撫でた。
「銀狼だ、白虎だと、名前をつけたがるのは人間の性分でな。獣自身は、そんなものは知らんよ。ただ、風を読み、月を見て、自分の道を歩くだけだ。――巫女さんも、そうすりゃいい」
澪はその言葉に、不思議と心が軽くなるのを感じた。学院で聞いた壁画の物語とも、エレノアが語った予言とも、また違う響きだった。
(学院ではああ言われた。手写本にはこう書かれてた。でも、この人はまるで違うことを言ってる)
どれが本当なのか、澪には分からない。分からないことが、これまでは不安の種だった。でも今は、少しだけ違う感じがした。
(一つだけを信じなくても、いいのかもしれない)
そう思うと、肩の力が、ほんの少しだけ抜けた気がした。
「同じ話でも、聞く人によって、ずいぶん違うんですね」
「そういうもんさ。神話ってのは、そもそも一つに定まっとらん。定まった瞬間に、それは神話じゃなくて、教義になっちまう」
老人はそれだけ言うと、獣を連れて、ふらりと森の奥へ歩き去っていった。澪はしばらく、その後ろ姿が見えなくなるまで、見送っていた。
(また、会えるだろうか)
理由の分からない未練が、胸の奥に小さく残った。




