月の学院と、予言の重み(その2)
その夜、学院長室に呼ばれた。
銀髪の美しい女性――エレノア・セレストが待っていた。四十代に見えるが、目元に底知れぬ年輪が刻まれている。
「ようこそ、星野澪さん」
エレノアはそれだけ言うと、しばらく澪を観察するように黙っていた。長い沈黙だった。やがて、机の上に置かれた古い燭台に、そっと火を灯す。
「怖い?」
唐突な問いに、澪は戸惑いながらも頷いた。
「はい......でも、それだけじゃありません。どこかで、待っていた気もするんです。うまく言えないけど」
エレノアはその答えに、わずかに目を細めた。
「その目、少し前にも見たことがあります。――群れを離れた獣の目です」
老婦人と同じ言葉に、澪は思わず息を呑んだ。
「私......そんな大層なものじゃありません。ただの、目立たない高校生です」
「今はまだ、そうでしょうね」
エレノアは微笑み、机の引き出しから、古い天球儀を取り出した。二つの月を模した銀と黒の球が、ゆっくりと軌道を巡っている。
「あなたがこの世界に来られたのは、偶然ではありません。この世界とあなたの世界は、二つの月の巡りによって、細い糸で繋がっている」
エレノアは言葉を切り、少し声を落とした。
「ただし、あなたが最初にここへ来た夜――月は、まだ細い弧を描いたばかりだったはずです。あれは、月の巡りによるものではありません。あの本自体に宿っていた、古い力によるもの。いわば、扉をこじ開けるための、特別な鍵だったのでしょう」
澪は、月影堂で本を受け取った夜のことを思い出した。老婦人の言葉――「大切に開くんだよ、後悔しないように」――が、今になって、また別の重みを持って蘇る。
「あの本の力は、一度きりのものでした。今のあなたを繋いでいるのは、月そのものです。月が満ち、重なる夜――『月の抱擁』と呼ばれる夜に、扉は開き、その力が届く者を、こちらへ引き寄せる」
「じゃあ、私は......」
「そして、月が欠けはじめれば、糸はあなたを、あなたの世界へと引き戻す。次にまた月が満ちる時、扉は再び開き、あなたはここに戻ってこられるでしょう」
澪は言葉を失った。行ったきりでも、帰ったきりでもない。まるで、二つの世界の間を、月の呼吸に合わせて往復させられるような話だった。
「安心、していいんですか......それ」
「一つだけ、覚えておいてほしいことがあります」
エレノアの声のトーンが、わずかに低くなった。
「月が満ちるたび、あなたの中の『境界』は、少しずつ薄くなっていく。いずれ、どちらの世界にも、完全にはいられなくなる時が来るでしょう。――どちらか一つを選ぶ日が、必ず来ます」
「選ぶって......何を、ですか」
声が、思ったより小さく出た。
「日本に帰るか、この世界に残るか。いずれ、あなた自身がそれを決めることになります」
「それと、一つだけ、頭の隅に置いておいてください。二つの世界は、時の流れる速さも同じではありません。あちらの長い月日が、こちらでは瞬き一つほどの間に凝縮されて過ぎることもある。境界が薄くなるほど、その差は大きくなっていくはずです」
澪の胸が、鈍く痛んだ。行き来できる安堵と、いずれ選ばなければならないという予告。二つが同時に降ってきて、うまく飲み込めなかった。
(そんなの、今決められるわけない)
考えようとするほど、頭の中が真っ白になる。日本に帰れば、また元の生活に戻るだけなのだろうか。それとも――ここで何かが、変わり続けているのだろうか。答えの出ない問いが、いくつも重なった。
(今すぐ答えを出さなくていいって、思っていいのかな)
すがるようにそう思ってから、澪は自分の弱さに苦笑した。エレノアは「必ず来る」と言った。先延ばしにしているだけだと、分かってはいる。
(私は、渡されるものじゃない。選ぶのは、私自身のはず)
誰に言われたわけでもないのに、そう思った。思った直後、すぐにもう一つの声が続いた。
(......でも、何を?)
まだ分からない。何を選べばいいのかさえ、今の澪には見えていなかった。それでも、その未完成な問いだけが、胸の奥に静かに居座った。
部屋を出る廊下で、澪は二人の神官が言い争う声を耳にした。
「月神教の連中め、また『調和』などと綺麗事を......」
「太陽教の方こそ、異端狩りで民を煽っているだけだろう。あの子は、ただの一人の娘だ」
「巫女が現れれば、いずれ帝国は牙を剥く。太陽教はそれを口実にするだけさ」
声はすぐに遠ざかっていったが、澪の耳には、その言葉の重みだけがはっきりと残った。自分の存在が、すでに二つの信仰の間で綱引きの種になっている。実感の湧かないまま、それだけを飲み込むしかなかった。
(さっきまで、期末テストの心配してたのに)
自分でも笑えないくらい、ちぐはぐだと思った。国同士の争いの種にされていると聞かされた直後に、頭の片隅では、まだ日本の学校のことを考えている。どちらも、同じ自分の中にあった。
(私って、ほんとに巫女とか、そんな柄じゃないんだけどな)
自嘲めいた考えが浮かぶ。それでも、その柄でもない役割を、拒否できる立場にはもういないことも、薄々分かり始めていた。
部屋に戻った後、カイが再び訪ねてきた。手には温かいハーブティーを持っている。
「無理すなよ。まだ来たばっかりなんやから」
「ありがとう......」
二人は窓辺に並んで座り、静かに月を見上げた。カイの肩が、そっと澪の肩に触れた。
(......近い)
一瞬、そう思って、澪はわずかに体をずらした。カイがそれに気づいたように、少し身を引く。
「悪いな、狭かったか」
「あ......ううん、そういうわけじゃ、ないんだけど」
言いながら、自分でも何を言い訳しているのか分からなくなる。嫌だったわけじゃない。ただ、少し、心の準備ができていなかっただけだ。
(何、意識してるの、私)
自分で自分に呆れながら、澪はもう一度、少しだけ距離を詰めた。今度は、肩が触れても、動かなかった。温かくて、安心する。
「俺がおるから。できる限り、そばにおるよ」
その言葉が、澪の心に染み込んだ。初めて誰かに「そばにいる」と言われた気がした。
(これは、安心してるだけ。それだけ、のはず)
そう思う一方で、この感覚に、別の名前がついていないとも言い切れない気がした。
(......これって、どういう気持ちなんだろう)
答えは出なかった。ただ、隣にあるカイの体温だけが、今はやけに確かだった。窓の外、二つの月は、まだ細い光を放っているだけだった。
* * *
しかし、次の朝。学院中に衝撃の報せが走った。
帝国の黒狼公爵レオン・ヴァルハイトが、正式に「月の巫女の引き渡し」を要求してきたという。
「期限は一ヶ月。拒否すれば、聖ヴェルティア王国に対し宣戦布告する」
澪は朝食の席でその話を聞き、フォークを落とした。
(引き渡し......? 物みたいに)
込み上げてきたのは、恐怖より先に、静かな反発だった。誰かの都合で差し出されたり、囲われたりするものになるつもりはない。たとえ相手が国同士の争いでも。
カイが唇を噛む。
「あの男......本気やで。太陽教の連中が、また『異端の巫女を差し出せ』言うて騒いどる。守るための戦いは、俺がやったるわ」
その言葉には、迷いのない正義があった。守ることこそが正しい――カイの中では、それが揺るがない一本の軸だった。
(守られること、嬉しいはずなのに)
なぜだろう。素直に喜べない自分がいた。守られるだけの存在に、また戻っていくような気がして。教室の隅で、誰かに合わせてやり過ごしていたあの頃と、今の自分が、少しだけ重なって見えた。
澪の脳裏に、昨夜の金色の瞳が蘇った。冷たいのに、なぜか熱を帯びていた視線。
――また会おう、月の巫女。
あの言葉は、単なる脅しではなかったのかもしれない。
(私は、どうしたいんだろう)
日本に帰りたい。それは本当だ。けれど同時に、この白い学院にも、カイのそばにも、ほんの少しだけ、心が動き始めているのも本当だった。二つの気持ちのどちらも手放せないまま、澪はまだ、その答えを持っていなかった。




