【第5話】月の学院と、予言の重み(その1)
魔術学院は、森の奥に浮かぶような白い城だった。
二つの月を反射する尖塔が、淡く発光しながら夜空に突き刺さっている。魔力で育つという青と銀の花々は、風もないのに小さく震えるように揺れ、触れるたびに花弁の先から光の粉がこぼれ落ちた。夜通し青く灯るランプの明かりが、石畳の上に、幾重にも重なる淡い影を落としている。
澪はカイに連れられて門をくぐりながら、言葉を失っていた。空気そのものが澄んでいるのに重く、肌をなでる風には、微かに甘い匂いが混じっている。それが花の匂いなのか、魔力そのものの匂いなのか、澪には判断がつかなかった。これまで見てきた、どんな映画のセットも、どんなゲームの中の景色も、ここまで「本物」の質量を持ってはいなかった。画面の向こうの出来事ではなく、今、自分の体温と同じ場所に、この光景が存在している。その事実だけで、頭の奥が痺れるようだった。
(これが、学校......なんだよね)
そう思ってみるものの、見慣れた昇降口や、油の匂いのする体育館とは、あまりにかけ離れていた。「学校」という言葉でくくるには、無理がありすぎる気がした。それでも、廊下に貼られた掲示物らしきものや、生徒たちが小走りに移動していく様子には、どこか見覚えのある空気があった。
(授業に遅れそうで急いでる、とか。そういうのは、同じなんだ)
そんな些細な共通点を見つけて、少しだけほっとする自分がいた。
建物の中は魔術の匂いがし、廊下を行き交う生徒たちは皆、興味深そうな目で澪を見ていた。
「本物の月の巫女......?」
「制服、見たことないわ。異世界からだって本当?」
「あの紋章......本当に光ってる」
そんな囁きが聞こえてくる中、澪は肩をすくめた。日本にいた頃から目立つのは苦手だったのに、ここでは逃げ場がない。視線が痛い。廊下を歩くたび、頬のあたりがちりちりと熱くなる。
(早く、どこかに隠れたい)
そう思う一方で、心の奥の、もっと小さな場所が、ざわついていた。
(......こんなふうに見られたこと、今まであったっけ)
教室では、いつも輪の端にいた。誰の一番にもならない距離を、自分で選んでいた。それなのに今、これだけ多くの視線が、自分ひとりに集まっている。
(嬉しい......?)
浮かんだ感情に、澪は自分で戸惑った。こんな状況で、そんなことを思うなんて。
(でも、こんなの、私じゃない)
慌ててその感情に蓋をする。今、必要とされているのは「星野澪」ではなく、「月の巫女」という記号だ。それを、勘違いしてはいけない。分かっているのに、胸の奥に残った小さな熱は、そう簡単には消えてくれなかった。
(勘違いしたら、みっともない)
自分にそう言い聞かせながら、澪はできるだけ目立たないように、俯き加減で歩いた。それでも視線は、俯いた頭の上を素通りしてはくれなかった。
すれ違いざま、同い年くらいの女子生徒が二人、こちらをちらちら見ながら、何か囁き合っている。目が合うと、慌てて逸らされた。
(話しかけたら、変に思われるかな)
(でも、ちょっとだけ、話してみたい気もする)
日本にいた頃なら、こんな相手には自然に笑いかけて、当たり障りのない一言を返せたはずだった。それが今は、言葉の一つも出てこない。ここでは、自分がどう見えているのか、まるで見当がつかなかった。制服も、話し方も、何もかもが違う場所で、「変な子」と思われないための正解が分からない。
結局、澪の方から声をかける勇気は出ないまま、二人の背中は廊下の角に消えていった。
(......そんなもんか)
小さくため息をついて、澪はまた歩き出した。
長い回廊の壁に、澪は足を止めた。
そこには、色褪せた大きな壁画があった。銀色の狼、翼を持つ白い虎、そして黒い龍――三つの獣が、二つの重なった月の下で向き合っている絵だ。狼の足元には、砕けた玉座のようなものが描かれ、その意味までは澪には分からなかった。
「これ......」
「ああ、《月の三獣》の壁画やで。この学院より古いもんらしいわ」
カイが隣に立ち、絵を見上げた。
「小さい頃、寮の年上の連中に、よう歌わされたわ。――月がふたつ重なる夜、狼は選び、虎は待ち、龍は嘆く、ってな」
「歌......?」
「童歌やで。子供が遊びながら歌うような、他愛もないやつや」
カイは少し照れくさそうに、小声で節をつけて口ずさんだ。
「――銀は選び、白は守り、黒は焦がれる。二つの月、重なる夜に、獣は人の影に立つ――」
素朴な旋律だった。けれど、澪の胸の奥で、何かが小さく共鳴した気がした。壁画の狼の金色の瞳が、まるで自分を見ているようで、澪は思わず目を逸らした。
(この歌、どこかで――)
古書店の老婦人の声が、ふいに耳の奥で蘇った。月は、満ちれば、必ず欠ける。欠ければ、また満ちる。あの言葉と、この童歌が、同じ何かを指している気がした。うまく言葉にできないまま、澪はその感覚を胸の奥にしまった。
寮に案内された部屋は、白を基調とした簡素で清潔な空間だった。大きな窓から見える夜の森と、二つの月。どちらも、まだ細い弧を描いたままだった。
一人になった瞬間、澪はベッドの縁に座り込んだまま、しばらく動けなかった。
(ついさっきまで、私の部屋にいたのに)
雨音、電気を消した部屋、開いたはずの本。あの続きに、こんな場所があるなんて、頭がまだついていっていない。制服の裾についた泥と、擦り剥けた膝の痛みだけが、これが夢ではないと告げていた。
涙は出なかった。ただ、体の力が抜けていくのが分かった。怖かったこと、分からないことだらけなこと、それでも足だけは止まらなかったこと――全部が、今になって一気に押し寄せてくる。
窓の外の月を見上げる。
(お母さん、日本の月も、今頃見てるかな)
同じ月のはずがない。それでも、そう思わずにはいられなかった。母は今頃、帰ってきているだろうか。〈了解〉とだけ送った、あの短いやり取りが、今はひどく遠い。学校では、明日から欠席が続く。説明のしようがない。担任は何と思うだろう。数学の小テストは、結局受けられないままだ。
そんな些細なことばかりが、次々と浮かんでは消えていく。壮大な運命よりも、そういう小さな現実の方が、澪の胸をずっと強く締め付けた。
(もし、このまま帰れなかったら)
考えたくなかった問いが、ふいに滑り込んでくる。母は、自分がいなくなったことに、いつ気づくだろう。捜索願を出すだろうか。友達は、担任は、どう思うだろう。想像するだけで、胸の奥が冷たくなった。
ふと、下駄箱で交わした短い会話が頭をよぎった。傘、持ってきてないだろ。何でもないことのように言った、あの声。
(心配、してないといいけど)
そう思ってから、澪は自分でも意外に思った。今、この状況で思い出す顔が、家族でも親しい友人でもなく、あの人だったことに。
(別に、そんなに仲良かったわけじゃないのに)
思い出したところで、何がどうなるわけでもない。分かっているのに、傘を差し出しかけて引っ込めた、あの手の動きだけが、やけに鮮明に浮かんでは消える。
(......私、何考えてるんだろう)
自分にあきれて、澪は小さく首を振った。今、考えるべきことは他にたくさんあるはずなのに。こんな場所で、こんな時に、あの人のことばかり思い出す自分が、少し滑稽にすら思えた。
ノックの音がした。カイが、湯気の立つ器を手に立っていた。
「とりあえず食べえ。回復魔術入っとるから」
カイがそう言って、自分も隣の椅子に腰を下ろした。
澪は少しずつ口に運びながら、カイの横顔をチラチラと見た。
「カイは......いつもこんな風に、召喚された人を助けるの?」
「いや。君が初めてや。月の巫女が現れるやなんて、何百年ぶりかやろな」
(この関西弁にも、ちょっとずつ慣れてきたかもしれない)
カイは照れくさそうに笑った。その笑顔が、意外と幼くて澪の胸を温かくした。
(この人といると、ちょっとだけ、息ができる気がする)
まだ全部を信じたわけじゃない。それでも、さっきまでの緊張が、少しだけ緩んでいるのは確かだった。




