【第4話】銀髪の騎士と、初めての選択(その2)
やがて大きな古木の根元に身を隠した。カイが息を潜めながら囁く。
「帝国の騎士団や。君を捕らえようとしとる。生きたまま、な」
「早すぎるって、さっき......」
「月の巫女の召喚は、何百年ぶりの大魔力や。放たれた瞬間、国中の魔術師が気づいたはずや。帝国が本気なら、真っ先に動くんは――」
カイはそこで言葉を止めた。言いかけたことの先が、あまり良い想像ではないというように。
澪は自分の胸の三日月を指でなぞった。光が淡く脈打っている。信じたくない。でも、この光は、確かに自分の体から発せられている。
「私に......そんな力があるの? 信じられない......」
呼吸を整えながら、澪はカイの横顔を盗み見た。息を潜め、澪をかばうように木の陰に体を寄せている。無理に手を握り直そうとはしない。距離を詰めてくることもない。ただ、必要な分だけ、そこにいる。
(この人、少なくとも――)
まだ何も分からない。それでも、澪を怖がらせないように、無意識に動いているようには見えた。
しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。遠くで、鳥の羽ばたく音がする。澪はその静けさの中で、ようやく少しだけ、自分の呼吸を取り戻していった。
(考えろ。落ち着いて、考えろ)
分かっていることを、頭の中で並べてみる。ここは日本ではない。自分は「月の巫女」と呼ばれる何かになっているらしい。誰かに追われている。隣にいるこの少年は、少なくとも今のところ、自分を傷つけようとはしていない。
(でも、それだけ)
分かっていることは、それだけだった。信じるにはあまりに材料が少ない。かといって、疑い続ける余裕も、今の澪にはなかった。
カイは少しの間、黙った。答えを探しているというより、言葉を選んでいるような沈黙だった。
「まだ目覚めてへんだけやと思う。信じられんでも構わへん。せやけど、君自身がどうしたいかが大事なんや。守られるだけやのうて、自分の意志で選んでくれ」
その言葉が、澪の胸に刺さった。今までずっと「流されるまま」に生きてきた。ここでは、そうはいかない。信じる・信じないを決める前に、もう、選ばなければならない瞬間が迫っていた。
(信じたわけじゃない。でも――)
一人でいるより、この人の隣にいる方が、今はまだましだと思った。それが信頼なのか、ただの心細さなのか、澪自身にも判断がつかなかった。
(頼るのと、信じるのは、違う気がする)
うまく説明できないまま、澪はその考えを、ひとまず胸の奥にしまった。今は、それ以上を考える時間がなかった。
馬の音がすぐ近くまで迫ってきた。先頭に立つ黒いマントの男が、月光の下で姿を現した。
(――っ、何、この人)
理屈より先に、肌が粟立った。長い黒髪。金色の瞳。冷たく整った顔立ちと、圧倒的な威圧感。腰に下げた剣は、まるで夜そのものを切り取ったようだった。彼の足元の影が、一瞬、鱗を持つ巨大な何かの尾のように長く伸びた。
言葉より先に体が反応していた。喉が、からからに乾いている。手のひらに、じっとりと汗が滲んでいた。
――怖い。理由なんて、後からでいい。ただ、怖い。
「......まさか......閣下自らとはな......」
カイが背後で息を呑む声がした。ただの騎士団の出動ではない。あの規模の魔力を、指揮官任せにできなかったということなのだろう。
レオン・ヴァルハイト。
その名前を、澪はまだ知らない。分かるのはただ、目の前の男が、これまで見たどんな人間とも違う、ということだけだった。教室にいる誰とも、道ですれ違う誰とも、根本的に違う何かを纏っている。
彼はゆっくりと微笑んだ。その笑みには、一切の温かみがなかった。
「月の巫女よ。出てこい」
低く、甘く響く声。命令であって、問いではなかった。澪の背筋がぞくりとした。カイが澪を守るように前に出た瞬間――澪の頭の中を、いくつもの思いが一度に駆け抜けた。
(巫女なんて、知らない。信じたくない。怖い)
(帰りたい。お母さんのところに、帰りたい)
(でも――)
木陰からレオンを覗き見た瞬間、なぜか、竹刀を構えた時の、あの感覚が蘇った。迷いを顔に出すな。一度覚悟を決めたら、退くな。意味も分からず体に染みついていたはずのその感覚が、今、はっきりと澪を突き動かしていた。
それでも、足はすぐには動かなかった。カイの背中の陰で、澪はしばらく、自分の心臓の音だけを聞いていた。ドクン、ドクン、と耳の奥で響く音が、やけに大きい。
(このまま、隠れていたい)
心の底では、それが一番の願いだった。誰かの背中に隠れて、全部が終わるのを待つ。それが、一番安全なはずだった。
(でも――ずっと誰かの後ろにいるだけなの、私)
その考えが浮かんだ瞬間、教室の風景がふいに重なった。輪の端で、愛想笑いを浮かべながら、一歩だけ引いていた自分。誰の後ろにもつかず、誰の前にも出ず、ちょうどいい場所を選んでいたつもりの自分。
(結局、いつも同じだ)
葛藤は一瞬ではなかった。怖い。カイに任せてしまいたい。今すぐこの場から動かず、全部が終わるのを待ちたい。でも、それでは今までと何も変わらない気がした。周りに合わせて、誰かの後ろについて、自分の意志を持たないまま生きてきた、あの日々と。
(このままだと、私は一生、こうなんだ)
その考えが、澪の中で何かをわずかに押した。恐怖が消えたわけではない。それでも、恐怖より少しだけ重いものが、胸の奥に生まれていた。
澪は、自分の手首を握るカイの手を、そっと外した。
「......待って、カイ」
声が、自分でも驚くほど低かった。決意したとき、いつもこうなる。
カイが振り返る。青い瞳が、戸惑いと焦りで揺れた。
「何すんねん――」
「私が、自分で出ていく」
言った瞬間、心臓が跳ねた。撤回するなら今しかない、と頭のどこかが囁いた。それでも、澪は木の陰から、ゆっくりと姿を現した。足が震えている。それでも、止まらなかった。
レオンがわずかに目を細めた。金色の瞳に、明らかな興味が宿る。だがそれは、瞬きひとつの間だけだった。
「......自ら出てくるとは。勇敢だな、小娘」
本音を隠すように、口の端だけで笑う。カイが低く呟いた。ほとんど聞こえない声だった。
「アホか......勝手なことすなや」
その声には、優しさよりも、初めて露わになった焦りが混じっていた。澪はそれを背中で感じながら、レオンの前で立ち止まった。距離は十歩ほど。近いようで、遠い。
膝が笑っている。今にも崩れ落ちそうだった。それでも、澪は両足を、地面に踏みしめ直した。
「私は......星野澪です」
声は小さかったが、はっきりとしていた。胸の紋章が、淡く脈打つ。澪は自分でも理解していた。怖い。逃げたい。でも、ここでまた誰かに守られるだけなら――今までと何も変わらない。
レオンが剣の柄に手をかけたまま、澪を観察するように見下ろした。
「星野澪、か。覚えておこう」
その瞬間、澪は自分が「ただ守られる側」ではなく、「選ぶ側」になれるかもしれないと、初めて思った。足の震えは止まらない。それでも、彼女は視線を逸らさなかった。
カイが後ろから駆け寄り、澪の腕を掴む。
「もうええ。下がっとけ」
澪は首を横に振った。声は、さらに低くなった。
「......まだ、終わってない」
レオンの唇が、わずかに吊り上がった。今度の笑みには、冷たさの奥に、何か別の光が混じっていた。
「面白い。気に入ったぞ、月の巫女」
馬の蹄の音が再び近づく。カイが澪を強引に抱きかかえるようにして、森の奥へと走り出した。澪は後ろを振り向かなかった。ただ、胸の奥で熱く疼くものを、強く押し込めた。
(自分が、あんなことをするなんて)
少しだけ、自己嫌悪がよぎる。無謀だった、と思う。カイを困らせただけかもしれない。命がいくつあっても足りない真似だった、と今さらのように震えが来る。
それでも、足は止まらなかった。まるで、初めて自分の意志で駆け出したことを、体のどこかが喜んでいるようだった。
走りながら、澪はさっきの自分の声を、頭の中で何度も反芻していた。「私が、自分で出ていく」――あんな言葉が、自分の口から出るなんて、少し前の自分には想像もつかなかった。
(信じたわけじゃない。まだ、何も分からない)
カイのことも、この世界のことも、自分に何ができるのかも。分からないことばかりだった。
それでも――さっき自分の意志で一歩を踏み出した、あの感覚だけは、確かに本物だった。震える足も、乾いた喉も、全部そのままに、澪はただ、その一つの手応えだけを胸に抱えていた。




