【第3話】銀髪の騎士と、初めての選択(その1)
意識が戻ったとき、澪は冷たい土の感触を掌に感じていた。
(......あれ)
頭の芯が痺れている。目を開けても、しばらくは何も像を結ばなかった。瞼の裏に、まだ銀色の光の残像がちらついている。
顔を上げる。見知らぬ森だった。空には信じられないほど大きな二つの月が浮かび、木々の葉は銀色に鈍く光っている。二つの月は、今はまだどちらも細い弧を描いているだけだった。空気は澄み切り、どこか甘い花の匂いがした。肌を撫でる風は冷たく、制服の薄い生地越しに体温を奪っていく。
「ここ......どこ......?」
声が震え、足がすくんだ。制服は泥に汚れ、髪は乱れ、心臓が激しく鳴っている。現実感がまるでない。
(夢。これ、夢だ)
そう思おうとした。思おうとして、うまくいかなかった。夢になら、こんなに膝が痛むはずがない。頬に当たる風が、こんなに冷たいはずがない。分かっているのに、頭のどこかが、まだ現実だと認めることを拒んでいた。
(大丈夫。落ち着こう。私、学校から帰って、それで、本を見つけて......)
そこまでは覚えている。じゃあ、その後は。
思い出せない。
「......嘘」
指先が、震えていた。震えを止めようと、澪はもう片方の手でそれを握りしめた。落ち着け。落ち着け、と自分に言い聞かせる声が、頭の中で空回りする。落ち着こうとすればするほど、心臓だけが勝手に速くなっていく。息を吸っても、うまく肺まで届いていない気がした。
(違う。こんなの、あり得ない)
膝を抱えるようにして、澪はもう一度目を閉じた。目を開ければ、いつもの天井が見えるはずだ。カーテンの隙間から差し込む、街灯の白っぽい光。目覚まし時計の、あの安っぽい電子音。
――目を開けても、そこにあったのは同じ森だった。
(お母さん、今頃......帰ってきてるかな)
こんなときに浮かぶのが、そんな些細なことだった。母は今夜も遅いと言っていた。自分がいなくなったことに、いつ気づくだろう。もしかしたら、まだ何日も気づかれないかもしれない。それを考えると、寂しさとも呼べない、何か鈍い感覚が胸の底に沈んだ。
スマホは――スカートのポケットを探ったが、指に触れたのは泥だけだった。落としたのか、それとも。
(学校、明日......)
数学の小テストがあったはずだ。そんなことを考えている場合ではない、と分かっているのに、思考は勝手にそこへ逃げようとする。現実的な、いつも通りの心配事にしがみついていれば、目の前の異様さから、少しだけ目を逸らせる気がした。誰も助けてくれない場所で、澪はただ一人、自分の頭の中だけで、必死に「普通」を組み立てようとしていた。
(漫画みたい。でも、漫画じゃない。膝、痛い)
その痛みだけが、やけに現実だった。
澪はゆっくりと体を起こし、周囲を見回した。高い木々が天を覆い、足元には見慣れない銀色の苔が広がっている。ふと、近くの水たまりに自分の顔が映った。
一瞬――その水面に、人間の顔ではなく、金色の瞳を持つ銀色の狼の影が重なって見えた。
「......っ!」
瞬きをすると、それはもう消えていた。見間違いだ、と澪は自分に言い聞かせた。だが、鼓動はまだ速いままだった。
(今の、何。何なの、ここ)
立ち上がろうとして、足に力が入らない。地面に手をついたまま、澪はしばらく動けなかった。膝が震えているのが分かる。情けない、と思う一方で、この状況で震えない方がおかしいのだとも思った。
近くの茂みが動いた。
心臓が跳ねる。逃げなきゃ、と思うのに、足が根を張ったように動かない。頭の中で「逃げろ」という信号だけが空回りしている。
「誰だ!」
鋭い声と共に、銀髪の少年が飛び出してきた。白い魔術師のような衣装を着て、手には光る短杖を構えている。年は澪と同じくらい。澄んだ青い瞳が、驚きに大きく見開かれた。彼の背後に、一瞬だけ、白く巨大な虎の翼のような影が揺らめいた気がした。
――知らない人だ。
その事実だけが、澪の中で警報のように鳴った。知らない男。武器を持っている。ここがどこかも分からない場所で。しかも、向こうは既に構えている。自分は、逃げることすらできない。
(どうしよう。どうしよう)
頭の中で同じ言葉だけが回っていた。
「女......? しかも、そんな格好で......」
少年は警戒を解かないまま、それでも早口で続けた。
「季節外れの肝試しにしちゃ、場所を間違えてるぞ。ここは――いや、悪い、今のは忘れてくれ」
澪が答えられずにいると、少年は自分の軽口に自分で気づいたように、一瞬だけ口をつぐんだ。それから、澪の格好とただならぬ様子を、あらためて確かめるように見た。
澪は無意識に一歩、後ろへ下がっていた。距離を取りたかった。この人が敵か味方かも分からないうちに、近づかれたくなかった。膝の裏が木の幹に当たって、それ以上は下がれないことに気づく。
(逃げ場、ない)
「ここ、どこですか? 私、どうして......」
自分の声が、震えているのが分かった。夢だ。そうに決まっている。傘も差さずに歩いていて、車にでもぶつかって、今は病院のベッドの上で、都合のいい夢を見ているだけだ。
そう思おうとしたのに、頬に当たる夜気の冷たさも、擦り剥けた膝の痛みも、あまりに生々しかった。
――理解することと、受け入れることは、違う。
頭のどこかでは、もう分かり始めていた。これは夢ではないのかもしれない、と。それでも心は、まだそれを認めようとしなかった。理解と納得の間には、大きな溝があった。認めてしまえば、後戻りできなくなる気がした。
少年の視線が、澪の左胸に浮かび上がった三日月の紋章に止まった。薄い光が、服の上からでもはっきりと分かる。
「......まさか」
少年は眉をひそめ、一歩近づいた。にわかには信じがたい、というように、目を細めて紋章を見つめる。
「いや、まさかな。月の巫女の紋章なんて、伝承の中の話だ。何百年も、現れていないはずだ......」
そう呟きながらも、少年の視線は紋章から離れなかった。光の色。脈打つ間隔。何かを確かめるように、口の中で小さく詠唱のようなものを唱える。紋章の光が、それに応えるように、一瞬だけ強く瞬いた。
少年は、息を呑んだ。
「『月の巫女』......?」
「え......? 巫女? 何の話ですか」
澪は思わず、声を裏返らせた。
「人違いです。私はただの、高校生で......日本にいて、それで、気づいたらここにいて......」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。ただ、目の前の少年が口にした「巫女」という言葉が、あまりにも現実離れしていて、受け入れる余地がなかった。
(この人、私に何をさせようとしてるの)
警戒が、また強くなった。名前も知らない相手に、勝手な役割を押しつけられている気がした。巫女、という響きには、何か重たいものが引っかかっているような気がした。何をさせられるのか分からないまま、勝手に何かの型に押し込められる。それだけは、絶対に嫌だった。
少年は短杖を下ろし、少し声を和らげた。だが、口調に軽さは戻らなかった。
「本当に、月の巫女なんか、俺にも確信は持てへん。伝承と全部が一致するわけやないしな。せやけど、その紋章の反応は、偽物にはできんもんや。俺はカイ。魔術学院の三年生や。もし本物やったら、君は異世界から召喚された『月の巫女』ってことになる」
(え......この人、なんで急に関西弁......?)
杖を下ろした――その仕草に、澪はほんの少しだけ、緊張が緩むのを感じた。けれど、それだけだった。優しそうに見えるからといって、信じていいとは限らない。むしろ、優しそうに近づいてくる人間ほど、注意しなければならないことを、澪は経験の中でどこかで学んでいた気がした。
(名前を名乗った。それだけで、安心していいわけじゃない)
「そんな......そんなの、聞いてない。私、何も――」
「わかっとる。混乱してるのも、信じたくないのもわかる。せやけど、今は説明してる時間、あらへんのや」
(関西弁、なんだか怒られてるみたいで、地味に怖いんですけど......!)
その口調には、苛立ちではなく、彼なりの気遣いがあった。澪は、喉の奥が詰まるのを感じながら、それでも首を振った。
(この人は、本当に私を助けようとしてるの? それとも――)
なぜ、という疑問が拭えなかった。見ず知らずの自分を、なぜこの少年は助けようとするのか。理由が分からないことが、優しさそのものよりも、澪を不安にさせた。何か目的があって近づいてくる人間を、澪は学校生活の中でも、何人も見てきた気がする。ここでも、それが違うとは限らない。
「無理です。急に言われても......」
「帝国が君を欲しがっとる。今は逃げな、まずいことになる」
後方から、馬の蹄の音が聞こえてきた。複数。しかも近づいている。
カイの顔から、さっと血の気が引いた。
「......早すぎるやろ。まさか、あの光を感知したんか」
呟きの意味を、澪が問い返す間はなかった。
「はよ走れ!」
「待って、まだ、心の準備が――」
「準備なんか、後でなんぼでもせぇ! 今は生きることだけ考えんかい!」
カイが澪の手を掴んだ。温かくて、少し荒れた手だった。とっさに振り払いそうになる。知らない男に、こんなふうに触れられることへの拒否感が、体の奥から湧いた。けれど、蹄の音は本物で、その恐怖の方が、わずかに上回った。
澪は混乱したまま、体だけが動いていた。頭では何も納得していない。それでも、足はカイに引かれるまま、地面を蹴っていた。枝が顔を切り、スカートが裂ける。息が上がり、頭がくらくらする。
「待って......私、走るの苦手なの......!」
「今は文句言うてる場合やないで! 生きるんや!」
(何言ってるのか、正直、半分もわかりません......!)
それでも、澪の足の運びは、思ったより乱れなかった。呼吸を短く、浅く刻み、木の根に視線を落とさず、足の裏の感覚だけで地面を捉える。かつて道場の板の間で、数えきれないほど繰り返した体の使い方が、考えるより先に動いていた。
(体は、ちゃんと覚えてるんだ)
そのことに気づく余裕は、まだなかった。ただ、握られた手のひらの熱だけが、やけに鮮明に感じられた。心臓が痛いくらい鳴っている。怖いのか、走っているせいなのか、もう自分でも区別がつかなかった。




