【第2話】月が呼んでいる(その2)
母は今日も遅い。合鍵で開けた部屋は、しんと静まり返っている。
スマホには、母からの短いメッセージが一件。〈今日も遅くなる。ごはん先食べてて〉。澪はそれに〈了解〉とだけ返し、冷蔵庫を開けた。作り置きの惣菜が、いつもの場所に、いつもの量だけ入っている。
(別に、慣れてるし)
慣れている、というのは本当だった。母の仕事が忙しいことも、それが自分たちの生活を支えていることも、澪はちゃんと分かっている。だから、寂しいと思う権利なんて、自分にはない気がした。
それでも、しんとした部屋の空気は、慣れてもなお、少しだけ肌に冷たい。誰もいない部屋で、テレビをつける気にもならず、澪はしばらく、その静けさの中に立ち尽くしていた。
(別に、いつものことじゃん)
自分に言い聞かせる回数だけが、少しずつ増えていく気がした。
制服のまま、澪はベッドに腰かけ、本棚から一冊を取り出した。異世界に召喚され、強大な力に目覚め、誰の手も借りずに自分の足で立つ少女の物語。ページをめくる指が、いつもより少し速い。
物語の中の少女は、ある日突然、見知らぬ誰かにこう言われる。――お前でなければならない。お前以外は、要らない。
澪はそのページで、少しだけ手を止めた。
(いいな。......こんな風に、なれたら)
強さに憧れているのだと、自分では思っていた。けれど本当は、「お前でなければ」の部分に、指先が触れていたことに、澪は気づいていない。誰かにそう言われる自分を、想像してしまった。想像して、すぐに恥ずかしくなった。
(何、想像してんの。子供みたい)
そう思ってすぐ、自分にあきれて笑った。現実はそんなものじゃない。ここにあるのは、灰色の毎日と、愛想笑いの積み重ねだけだ。子供っぽい。分かっている。分かっているのに、澪はもう一度、そのページに目を落とした。今度は、少しだけゆっくりと。
夕食を終え、風呂から上がった頃には、外は本降りの雨になっていた。
コンビニに寄る用事を思い出し、澪は傘を差して外に出た。ふと見上げた空に、月がにじんで見えた。雨粒のせいだと思ったのに、一瞬だけ、ひとつだったはずの月が、ふたつに重なって見えた気がした。
(......見間違い、よね)
目をこすってもう一度見上げると、月はいつも通り、ひとつだけだった。澪は小さく息を吐いて、歩き出した。
いつもの道を歩いていたはずなのに、気づけば、見覚えのない路地に入り込んでいた。
(あれ......こっちだったっけ)
雨に濡れたアスファルトが、街灯の光を鈍く反射している。少し不安になりながらも、澪は足を進めた。引き返す方が、なぜか面倒に思えた。
路地の奥に、傾いた木の看板が見えた。
『月影堂』
古書店らしい。こんな場所に店があったことすら、澪は知らなかった。
(入ってみようかな)
思ったそばから、澪は苦笑した。知らない店に、雨の夜に、一人で。褒められた行動ではない。
(......やめとこう)
そう決めて、通り過ぎようとした足が、なぜか止まった。振り返ると、扉の隙間から漏れる灯りが、やけに温かく見える。
(でも、なんか、気になる)
理由なんてなかった。何かに呼ばれている、というほど大袈裟なものでもない。ただの好奇心だ、と自分に言い聞かせる。それでも、澪は自分の足で、その扉の前まで戻っていた。傘を畳み、扉を押すと、鈴の音が思いのほか長く響いた。
「いらっしゃい......珍しいお客さんだね」
カウンターの奥から、白髪の老婦人が澪を見上げた。値踏みするようでいて、どこか温かい視線だった。
店内には、古い紙とほこりの匂いが充満していた。所狭しと積まれた本の山を眺めながら、澪は奥の棚へ、なぜか自然と足を向けていた。
そこに、一冊だけ違う本があった。
黒い革表紙。金色の三日月の紋様が、淡く光っているように見える。よく見ると、その紋様は満ち欠けする月のかたちに、ゆっくりと形を変えていた。
(気のせい、よね)
そう思いながらも、澪は本に手を伸ばした。指先が表紙に触れた瞬間、かすかな震えを感じた。まるで、本の中に何かが息づいているような。
「それ......特別な本なんですか?」
「君を待っていた子かもしれないね」
老婦人は目を細め、澪の顔を覗き込んだ。
「その目の奥に、群れを持たない獣の光がある。気づいているかい?」
意味の分からない言葉だった。澪は曖昧に首を傾げた。老婦人はそれ以上、説明してくれなかった。ただ、静かに本を差し出しただけだった。
値段も聞かれないまま、澪はその本を受け取っていた。断る、という選択肢が、なぜか頭に浮かばなかった。
「大切に開くんだよ。後悔しないように。......ああ、それと」
扉に向かいかけた澪を、老婦人の声が呼び止めた。
「月は、満ちれば、必ず欠ける。欠ければ、また満ちる。覚えておくといい」
その一言だけが、やけに耳に残った。意味を尋ねる間もなく、澪は店の外に出ていた。振り返ると、看板の明かりはもう消えていて、店があった場所さえ、雨に紛れて曖昧になっていた。
* * *
家に帰ってからも、澪はしばらく本を開けずにいた。理由のない胸騒ぎがあった。
濡れた鞄の中から本を取り出し、机の上に置く。それだけのことなのに、妙に手が緊張していた。
ベッドに横になり、電気を消す。窓を叩く雨音を聞きながら、澪は本の表紙にそっと手を置いた。
(ただの古い本の、はず......)
自分に言い聞かせるように、そう思う。語尾が、小さく掠れて消えた。
けれど、そのまま指を離すことも、澪にはできなかった。
怖い。開けば何かが変わる気がする。それでも――このまま知らずに眠ってしまえば、きっと一生、今日という日を「ただの雨の日」として片づけてしまう。
(......何、期待してるんだろう、私)
そんなもの、期待していない。異世界も、運命も、あるわけがない。分かっている。分かっているくせに、心臓は少しも落ち着かなかった。誰かに命じられたわけでも、誰かに背中を押されたわけでもない。ただ、澪は、自分の意志で、その先を選びたかった。
かつて竹刀を構えたときの、あの静かな緊張が、久しぶりに体の奥で目を覚ました。
澪は、大きく息を吸った。
――澪は、自分の手で、本を開いた。
次の瞬間、文字が銀色の光を放ち始めた。光は、脈打つように強くなったり弱くなったりしながら、部屋中に満ちていく。まるで、どこか遠くにある大きな心臓が、ゆっくりと鼓動しているように。
「え......」
声を上げる間もなく、ページが独りでにめくれ、部屋中が光に満たされる。体が浮く感覚。風が全身を叩く。
恐怖で、頭が真っ白になった。
(や......やめて......帰りたい......)
そう思ったはずなのに、光の奔流の中、澪は同時に、はっきりとこうも思っていた。
(――やっと、始まる)
意味が分からなかった。怖くてたまらないのに、同時に、長い間ずっと待っていた何かが、ようやく動き出したような感覚があった。矛盾している。分かっている。それでも、その二つの感情は、どちらも本物だった。誰かに与えられた運命というより、自分がたった今、扉を開けてしまったことへの、確かな手応えだった。
遠のいていく意識の中で、澪は声を聞いた気がした。女性の声。優しく、それでいて、どこか有無を言わせない響きを持っていた。
「ようこそ、私の巫女よ」
(巫女......? 何それ)
問い返す間もなく、光がすべてを塗りつぶした。




