【第23話】重なる月と、選び直す心(その2)
澪と別れた後、カイは一人、王都の外れの丘に登った。夜風が銀髪を揺らす。
隣に、音もなく白虎が座った。誰に見せるためでもなく、ただ、カイ自身のための姿だった。
カイは星空を見上げたまま、しばらく動かなかった。振り返れば、まだ澪の後ろ姿が見えるかもしれない距離だった。それでも、彼は振り返らなかった。
胸の奥は、まだ鈍く痛んでいた。守れなかった、というのとは違う。今度は、望まれなかった。その事実を、飲み下すには時間が要った。
――守る守るって、まるで自分に言い聞かせてるみたいだ。守られてる方は、たまに息が詰まるってことも、覚えとけよ。
マイケルの声が、今になってようやく、頭の中で形を持ち始めていた。あのとき図星を突かれて言葉を失ったのは、澪のためだったのか、自分自身のためだったのか、カイにはまだ、はっきりとは分からなかった。
(俺は、誰かを守っていないと、俺のままでいられないのか)
答えは、出なかった。それでも、隣に伏せる白虎の温もりに、カイはゆっくりと手を伸ばした。翼を持ちながら、自ら地上に留まることを選んだ獣。守るためではなく、怖くて、飛べなかっただけの獣。
(俺は、俺のために、生きたことがあっただろうか)
問いの形をしていたが、まだ答えの形にはなっていなかった。それでも、澪を失った悲しみの奥に、カイは、自分がずっと後回しにしてきた「自分自身」を、少しだけ探し始めていた。
「......行こか」
誰にともなく呟き、カイは立ち上がった。白虎も、静かに身を起こす。翼が一度、大きく広がり、月明かりの下で銀色に光った。それは、答えの出た男の背中ではなかった。ただ、問い続けることを、自分に許し始めた男の背中だった。
カイは丘を下り、王都の灯りの中へと歩いていった。
* * *
同じ夜、日本では。
澪の母は、閉店したばかりの店の奥で、一人、古いアルバムを開いていた。
剣道着を着た、小さな澪の写真。少し疲れたように笑う、制服姿の澪。指先で、そっとページをなぞる。あの雨の夜から、もう一年以上が経っていた。
娘の部屋は、今も片付けていない。制服も、教科書も、あの日のままだ。「もう、諦めたら」と言われるたびに、母は笑って受け流しながら、心の中でだけ、そっと反発した。諦めるのと、待つのとは、違う。
窓の外に、ひとつの月が見えた。理由もなく、その夜だけ、月がやけに大きく、優しく見える気がした。
「澪......」
母は、小さくその名を呼んだ。応える声はない。それでも、呼ぶことをやめなかった。
* * *
淳は、伸びをしながらベランダに出た。空気はまだ肌寒く、雲の切れ間から、ひとつの月が静かに見えていた。閉店間際の、あの店に少し顔を出してきた帰りだった。
下駄箱に、今も星野の傘立てのスペースだけが、なんとなく使われないままになっている。誰かが決めたわけではない。ただ、自然とそうなっていた。
星野の机は、もう空のままではなかった。転校の手続きが済んだと聞いたのは、数ヶ月前のことだ。理由は誰も知らない。担任は「家庭の事情で」とだけ言い、それ以上は誰も追及しなかった。
淳は、それ以上、誰にも尋ねなかった。踏み込まないことは、彼にとって一番自然な優しさだったから。それに、聞いたところで、自分が納得できる答えが返ってくるとも思えなかった。
(あの日、傘、渡しておけばよかったな)
今更どうしようもないことを、淳はふと思う。それだけだった。特別な後悔でも、未練でもない。ただ、時々、そんなことを思い出す。それだけの話だった。
淳は月を見上げ、小さく息を吐いた。
「――元気で」
それだけ呟くと、部屋の中に戻り、灯りを消した。
* * *
その夜、城のバルコニーで、レオンは澪を後ろから抱きしめた。
二つの月が、静かに夜空を照らしている。
「お前がいてくれて、俺は初めて......本当の幸せを感じる」
レオンの声は低く、しかし温かかった。
澪は彼の腕の中で、ゆっくりと振り返った。
「私も......ここにいるよ」
レオンは澪の頬に触れ、静かに唇を重ねた。優しく、穏やかな口づけだった。澪もまた、目を閉じてそれに応えた。
けれど、閉じた瞳の奥で、何かが小さくざわめいているのを、澪は感じないふりをした。
カイと過ごした日々も、母の涙も、淳の何気ない「おかえり」も、今はもう遠い。それでも、忘れられたわけではなかった。忘れるどころか、目を閉じるたび、そのひとつひとつが、やけに鮮明に胸の奥へ滑り込んでくる。
ふと、澪の脳裏に浮かんだのは、カイの顔ではなかった。傘を差し出しかけて、結局渡さなかった、あのぶっきらぼうな優しさだった。(――今、何してるんだろう)
「これが......私の選んだ道」
澪は小さく笑い、そっと呟いた。まるで、自分自身に、言い聞かせるように。
ふと、澪の背後に銀狼の気配が立った。振り向かなくても、分かった。
レオンの腕の中で、彼女は静かに目を開けた。
夜風が、二人の髪を撫でていく。遠くの森から、獣の遠吠えが一つ、長く尾を引いて響いた。
頭上を、大きな影が横切る。翼が風を切る音が、空の高いところで一度だけ鳴った。
厚い雲が、月の縁をゆっくりと渡っていく。誰も、それが何であるかを説明しなかった。
レオンは、ただ静かに、澪の肩を抱く腕に力を込めた。
窓の外、二つの月が、今夜、重なろうとしていた。
夜は、まだ何も終わらせないまま、静かに更けていった。
エピローグ ――そして、雨の匂いがした
やがて、二つの月は、寸分の隙もなく一つに重なり合った。
澪はゆっくりと目を閉じ、この夜の重さを、体の芯に刻みつけようとした。
――その瞬間だった。
胸の紋章が、これまでにない強さで脈打った。
「......え?」
視界の端が、白く滲む。レオンの腕の感触が、指先から、まるで水に溶けるように薄れていく。
「澪......?」
レオンの声が、急に遠くなった。
「レオン......レオン、待って――」
伸ばした手は、何もつかめなかった。
体が、光の粒になってほどけていく感覚があった。月影堂から帰ったあの夜、初めてここに来た時と同じ感覚。ただし今度は、引き込まれるのではなく、引き剥がされる感覚だった。
あの夜、澪は「帰りたい」と願いながら、光の中に消えていった。
今、澪は同じ光の中で、あの夜とは違う想いを抱えていた。
(本当に――帰れるのか。淳に、また会える......?)
声にならない問いが、光の中に溶けて消えた。
* * *
――目を開けると、そこは、見慣れた自分の部屋だった。
窓を叩く雨音。カーテンの隙間から漏れる、街灯の白っぽい光。手の中には、黒い革表紙の本が、開かれたまま握られていた。ページの上で、銀色の文字が、まだ微かに光を残している。
澪は、しばらく動けなかった。
制服は、濡れても汚れてもいない。膝に、あの夜のような擦り傷もない。ただ、雨の匂いだけが、開けたままの窓から流れ込んでいた。
震える手で、スマートフォンを取った。電源は、切れていなかった。表示された時刻を見て、澪は息を止めた。
家を出てから、まだ一時間も経っていない。
古書店に寄った、あの夜と、同じ夜だった。
(......え)
母からの新しいメッセージはなかった。〈今日も遅くなる〉――さっき確認した、あの一件だけが、そのまま残っている。
(一年......一年以上、あっちにいたはずなのに)
――境界が閉じるこの夜、その差は、これまでのどの夜よりも大きくなります。エレノアの声が、耳の奥で蘇った。あれは、このことだったのだ。
心臓が、痛いくらいに鳴っていた。カイの声。レオンの手の熱。銀狼の遠吠え。学院の白い天井。噴水のほとりで見た夜明け。どれもが、あまりにも鮮明だった。夢と呼ぶには、あまりにも重く、あまりにも、体の奥深くに刻まれていた。
(夢......だったのかな)
そう考えようとした瞬間、喉の奥から、こみ上げてくるものがあった。
あの世界での日々が、指の間からこぼれ落ちていくようだった。カイの笑顔も、レオンの不器用な優しさも、銀狼の遠吠えも、もう二度と、あの熱量では取り戻せないのかもしれない。
(――終わっちゃう......)
けれど――涙は、出なかった。
代わりに澪は、開いたままの本を、そっと閉じた。表紙の三日月の紋様は、もう光っていなかった。ただの、古い革表紙の本に戻っていた。
(本当に、あったことなの......?)
答えは、どこからも返ってこなかった。
* * *
その夜、澪はしばらく、本を机の引き出しの奥にしまったまま、開かなかった。
翌朝、目を覚ましたときも、雨は降り続いていた。制服に着替え、鏡の前に立つ。そこに映っているのは、いつもの自分の顔だった。それでも、鏡の中の自分の目に、以前とは違う何かが宿っている気がした。
学校へ向かう道すがら、澪はふと、下駄箱で淳と交わした、あの短いやり取りを思い出した。「傘、持ってきてないだろ」――たった昨日のことのはずなのに、ひどく懐かしく感じられた。
教室に入ると、いつもの見慣れた光景があった。誰かの恋バナに、輪になって笑う女子たち。窓際の、自分の席。何も変わっていない。
けれど、澪自身は、もう同じではなかった。
昼休み、いつものように輪に誘われたとき、澪は初めて、こう答えた。
「ごめん、今日はちょっと、一人で本読みたい気分」
一瞬、驚いたような沈黙が落ちた。それでも、誰も気を悪くした様子はなかった。澪は自分の席で、静かに窓の外を見た。断ったことに、後悔はなかった。
(前の私なら、絶対に言えなかった)
小さな変化だった。それでも、澪にとっては、確かな一歩だった。




