【第24話】重なる月と、選び直す心(その3)
それから、数週間が経った。
澪は、変わらず高校に通い、母と夕食をとり、時々コンビニに寄り道をした。傍から見れば、何も変わらない、ごく普通の女子高生の日常だった。
けれど、澪の内側には、確かな変化があった。
誰かに合わせて笑うことは、まだあった。それでも、心から嫌なことには、はっきりと「嫌だ」と言えるようになっていた。進路について、母に自分の意見を伝えられるようになっていた。淳と話すときも、以前のような戸惑いだけでなく、自分から言葉を返せることが増えていた。
「星野、なんか、雰囲気変わったな」
ある日、淳がふと、そう言った。
「そう見える?」
「うん。前より、その......自分の意見、言うようになった気がする」
澪は少し笑った。
「......何かを、経験したから、かも」
「何かって?」
「秘密」
そう答えると、淳は「ふうん」とだけ言って、それ以上は聞いてこなかった。詮索しない優しさが、以前と変わらず、そこにあった。
* * *
夜、澪は窓辺に立ち、空を見上げることが増えた。
満月に近い夜、月を見つめていると、ふと、レオンの金色の瞳を思い出すことがあった。彼の声、彼の手の震え、額に押し当てられた手のひらの熱。
(本当に、いたのかな。あなたは)
問いかけても、答えは返ってこない。
それでも、月を見上げるたび、澪の胸の奥に、あたたかいものと、少しの痛みが同時に灯った。夢だったとしても、いなかったことにはしたくなかった。カイの誇らしげな笑顔も、マイケルの飄々とした声も、リナと過ごした短い友情も、老巫女オルガの祈りも――全部、澪の中では、確かに「あった」ことだった。
机の引き出しの奥、あの本は、今も静かにしまわれたままだった。二度と開かれることのないまま。それでも、澪はそれを捨てることができなかった。
* * *
ある夜、澪はふと、自分に問いかけた。
――もしまた、あの本が光ったら。
――もう一度、あちらへ行けるとしたら。
考えて、澪は静かに首を振った。
(ううん)
もし本当に選べるとしても、今の澪は、こちらを選ぶ。あちらでの経験は、澪の中に確かに残っている。だからこそ、今、ここで生きていける。それは、あちらへ戻るための理由ではなく、こちらで歩き出すための理由だった。
澪は本のしまわれた引き出しに、そっと手のひらを重ねた。開けるかどうかを、誰かに委ねるつもりはなかった。今はただ、静かに閉じておく。それだけで、十分だった。
ふと、淳の顔が浮かんだ。前の澪なら、この気持ちに気づかないふりをして、そのまま蓋をしていただろう。好きなのかどうか、まだ自分でもよく分からない。それでも、分からないことを、分からないままにしておく理由はもうなかった。
今度、ちゃんと話してみよう。断られてもいい。ただ、自分の気持ちから、もう目を逸らさずにいたかった。世界を選んだように、今度はこの気持ちも、自分で選び取る番だった。
* * *
数日後の放課後、昇降口で靴を履き替えていると、聞き慣れた声がした。
「星野、まだ帰らないのか?」
振り返ると、淳が、いつもの気の抜けた顔で立っていた。
澪は小さく息を吸った。前の自分なら、きっとこのまま「ううん、なんでもない」と笑って誤魔化していた。
「ねえ、淳。今度、二人で――」
言い切る前に、心臓が大きく跳ねた。それでも、もう目は逸らさなかった。
淳は一瞬、きょとんとした顔をしてから、少しだけ耳を赤くした。
「......うん、いいよ」
それだけのやり取りだった。けれど澪にとっては、これまでのどんな選択より、確かな一歩だった。
異世界へ行ったから、人生が変わったのではない。あちらで手に入れたのは、特別な力でも、劇的な結末でもなかった。ただ、迷ったときに、自分の足で一度立ち止まれる――その一点だけだったのかもしれない。
窓の外、細い雲の切れ間から、月が覗いていた。
一瞬――ほんの一瞬だけ、月が、二つに重なって見えた気がした。
澪は目をこすった。
そこにあったのは、いつも通りの、ひとつの月だけだった。
(......見間違い、だよね)
そう呟きながらも、澪は、しばらくの間、その月から目を離せなかった。
(完)




