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【第22話】重なる月と、選び直す心(その1)


一年が経った。


帝国の王都ヴァルハイトは、以前より少しだけ明るくなっていた。澪の浄化の力が多くの村を救い、レオンと共に進めた改革は、太陽教との対話の道を開いた。すべてが綺麗に変わったわけではない。旧太陽教の強硬派は地方の一部に潜み、貴族たちの中にも、表向きは頭を垂れながら、陰では舌打ちをする者がいた。変化は、まだ道半ばだった。澪もレオンも、それを知らないわけではなかった。


その朝も、澪はいつものように、城の執務室でレオンの隣に座り、届いた嘆願書に目を通していた。


「この村、また水路の陳情か」


「三度目ですね。今度こそ、ちゃんと予算をつけましょう」


「......分かった」


レオンは仏頂面のまま、羽根ペンを取り、書類にサインをした。一年前なら考えられなかった光景だった。皇帝の執務室に、巫女が当たり前のように同席し、意見し、時には言い争う。誰もそれを、もう不自然だとは思わなくなっていた。


* * *


その数日後、地方から戻った将軍の一人が、謁見の間で声を荒げた。旧太陽教の残党に加担していた疑いのある貴族を、独断で処刑してきたという報告だった。


「陛下のためを思ってのことです。膿は、早く出すに限る」


レオンは、しばらく無言で将軍を見下ろしていた。かつての彼なら、褒美すら与えたかもしれない仕事だった。だが今、その手は、拳ではなく、机の上で静かに組まれたままだった。


「――次から、俺の許可を得ろ。俺の名の下で人を殺すなら、それは俺の意志であるべきだ。お前の判断ではない」


「し、しかし......」


「これは温情ではない。命令だ」


将軍は青ざめた顔で頭を下げ、退出していった。


謁見の間を出た後、澪はレオンの横顔を見上げた。


「......前のあなたなら、多分、何も言わなかった」


「そうかもな」


レオンはそっけなく答えたが、その口の端は、わずかに緩んでいた。


「約束はできないと言っただろう。ただ、覚えてはいる」


* * *


そんなある晴れた午後、和平交渉のために王都を訪れていたカイと、澪は再会した。


久しぶりに見るカイは、銀髪を少し短く切り、瞳に静かな強さを宿していた。以前より、大人びて見えた。


「元気そうでよかったわ......ほんまに」


カイの笑顔は優しく、そして今度は、遠いものではなく、穏やかに澄んでいた。澪は微笑んだ。


「ありがとう、カイ。あなたのおかげで、私はここまで来られた。本当に、心から感謝している」


「そない畏まらんでええ。惚れ直されても、正直、今さらやしな」


澪は思わず、噴き出した。真面目な空気が、あっという間にほどけていく。


「もう、そういうところ、本当に変わらないね」


「せやろ? これくらいが、ちょうどええんや」


二人は短い時間だけ、昔の思い出を語り合った。学院の庭園のこと。二つの月のこと。あの夜のこと。


「あのな、澪。俺は最近、久しぶりに空を飛ぶ夢を見るんや」


カイは少し照れくさそうに言った。


「お前が、自分の意志で選ぶ姿を見せてくれたから......俺も、ずっと地上に縛りつけとった自分の翼を、少しだけ思い出せた気がするわ。今は、騎士としてだけやのうて、俺自身の生き方を、俺なりに選び直してるとこなんや」


その言葉に、澪の目に涙がにじんだ。悲しい涙ではなかった。


「よかった......本当に、よかった」


「幸せになってくれ。それが、俺の願いや」


「うん......あなたも、絶対に」


カイはそれ以上何も言わず、ただ一度だけ、澪の顔を真っ直ぐに見た。


* * *


広間を出る途中、澪は見覚えのある後ろ姿に気づいた。腰の曲がった老巫女――オルガが、供の者に付き添われ、和平交渉の証人として王都を訪れていたのだった。隣には、あの日広場で頭を下げた若い神官、ファレンの姿もあった。ファレンは今、太陽教の穏健派をまとめる立場になったと聞いていた。


「オルガ様。ファレンさんも」


澪が声をかけると、オルガは皺の刻まれた顔を、ゆっくりと綻ばせた。


「大きくなられましたね、月の巫女様。......いいえ、もう、そう呼ぶのも野暮か」


「あの夜は、泣きながら祈ってくださっていたと、後で聞きました」


澪の言葉に、オルガは驚いたように目を見開き、それから静かに微笑んだ。


「均衡のために、多くの子を見送ってきました。ですが、あなたのように、自分の足で選び取った子を見送ったのは、初めてでした。それだけで、老いた心には、十分な救いです」


ファレンも、深く頭を下げた。


「あの日は、何もできませんでした。今も、償いきれているとは思いません。それでも――あなたが選んだ道が、正しかったと思える世界を作る手伝いを、続けさせてください」


「そういえば」


オルガが、ふと思い出したように付け加えた。


「太陽教に仕えていた、とある姉弟の話を、風の噂に耳にしました。姉が禁を破ったにもかかわらず、幼い弟妹たちは今、静かに暮らしているそうです。......理由は、誰も語りませんが」


その一言に、澪の胸が、ふっと軽くなった。名前は出なかった。それでも、澪には、それが誰のことか、分かる気がした。


「ありがとうございます。お二人とも」


澪は、二人にそう告げ、微笑んだ。


* * *


交渉の広間を出たところで、澪はマイケルとすれ違った。彼は書類の束を小脇に抱え、面倒くさそうな顔をしていた。


「よう、月の巫女。相変わらず、面倒事に首を突っ込んでるみたいだな、俺も」


「あなたも、和平交渉に関わってたんですか」


「獣王一族としての仕事でな。恋のさや当てより、よっぽど疲れる」


マイケルは肩をすくめ、それから、いつもの調子でにやりと笑った。


「――で、どうだ? あの夜のことを思えば、少しは俺に惚れ直したんじゃないか?」


「興味ありません」


「......アレ? もう慣れたはずなのに、地味に効くな、それ」


本気で肩を落とすマイケルに、澪は思わず声を上げて笑った。


「ありがとう、マイケル。あの夜、あなたが言ってくれたことがなかったら、私はまだ迷ったままだったと思う」


マイケルは、珍しく少しだけ照れたように頬をかいた。


「柄にもないこと言うなよ。俺はただ、本当のことを言っただけだ」


「それでも」


マイケルは少しの間、澪をまっすぐに見つめた。それから、いつもの飄々とした笑みに戻る。


「――まあいい。お前が自分の足で、自分の道を歩いてるならそれでいいさ。俺の仕事は、もう終わりだ」


彼はひらりと手を振り、廊下の向こうへ歩き去っていった。


少し離れた柱の陰から、レオンがその様子を見ていたことに、澪は気づいていなかった。


* * *


その夜、寝室に戻ったレオンは、いつもより言葉数が少なかった。


「マイケルと、随分親しそうだったな」


唐突な一言に、澪は目を丸くした。


「見てたんですか」


「......たまたま通りかかっただけだ」


明らかに嘘だった。澪は笑いを堪えながら、レオンの隣に座った。


「安心してください。マイケルは、そういうのじゃないので」


「そういうの、とは」


「恋愛対象、ってことです」


レオンは黙り込んだ。しばらくして、ぼそりと呟く。


「......別に、疑ってなどいない」


「疑ってる顔ですけど」


「うるさい」


不機嫌そうにそっぽを向いたその横顔は、皇帝としての威厳とはかけ離れた、ただの拗ねた男のものだった。澪はその頬に、そっと手を伸ばした。


「レオンだけです。私が選んだのは」


その一言に、レオンの耳が、わずかに赤くなった。


* * *


それから数日が経ったある夜、レオンの様子が、いつになく硬かった。


澪の護衛の交代がわずか五分遅れただけのことで、レオンは近衛兵を厳しく叱りつけていた。廊下の奥まで届くほどの、抑えのきかない声だった。


「たった五分のことです」澪がそう窘めると、レオンは苛立ちを隠しもせず言い返した。


「五分で、何が起きるか分からない。お前がどれだけ危うい立場にいるか、忘れたわけじゃないだろう」


その声には、澪を思いやる響きより、抑えきれない不安の方が濃く滲んでいた。まるで、澪を失うことだけを恐れて、常に息を詰めているような。


(これは――)


澪の胸に、小さな違和感が生まれた。守られているというより、閉じ込められている感覚に近かった。


――悪くはない。だが、檻は檻だ。優しい檻ほど、中の者は気づかない。


いつか、レオン自身がカイに向けて放った言葉が、不意に耳の奥で蘇った。あのときは聞き流した一言が、今になって、やけに重たく胸に落ちてくる。


(コレは、違うのかもしれない)


その夜、一人になった部屋で、澪はぼんやりと窓の外の月を見上げた。


(カイなら、こんな時、どうしただろう)


自然と、そんな考えが浮かんだ。押しつけがましくない優しさ。必要な分だけ、そばにいてくれた、あの距離感。懐かしさに、胸の奥が、じんと疼いた。


けれど、澪は小さく首を振った。


(ううん......違う。カイでもない)


もっと遠くにある何かを、今、自分は求めている気がした。閉じていたはずの記憶の扉の向こうから、ふと、下駄箱で交わした短いやり取りが蘇る。――傘、持ってきてないだろ。何でもないことのように言った、あの声。


(淳......)


名前を思い浮かべた瞬間、澪は自分でも驚くほど、はっきりとした気持ちに気づいた。


(会いたい。日本に、帰りたい)


それは、義務感でも、後悔でもなかった。ただ、静かで、確かな、心の底からの願いだった。

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