【第20話】黒狼の城と、選び取った者たちの絆(その1)
帝国の王都ヴァルハイトに到着したとき、澪は息を呑んだ。
黒と銀を基調とした荘厳な城が、夜空にそびえ立っていた。
レオンは澪を城の最上階にある部屋に案内した。
「ここがお前の部屋だ。好きに使え」
低く、しかしどこか硬い声だった。優しくしようとしているのはわかる。だが、その手つきは不器用で、触れ方を知らない男のそれだった。
最初の数日は、戸惑いと不安ばかりだった。貴族たちの視線は、好奇と警戒と、明らかな侮蔑が混じっていた。太陽教の司祭たちは、澪の存在そのものを「神への冒涜」と公然と非難した。
夜になると、澪はベッドで小さく丸くなり、日本にいた頃の部屋を思い出した。母親の顔が浮かぶ。それから、淳の抑揚のない「おかえり」も。それから――カイの、あの誇らしげな笑顔も、瞼の裏に浮かんだ。
(もう、痛みだけじゃない気がする)
そう思えるまでに、どれくらいの夜がかかったのか、澪自身にもよく分からなかった。ただ、今夜はその記憶に、少しだけあたたかい部分があった。それだけで、十分だった。
* * *
レオンは、夜ごと部屋に来るようになった。
最初の夜、彼はしばらく無言で窓の外を見ていた。澪が何も言わずに隣に座ると、ようやく、ぽつりと口を開いた。
「父上が死んだとき、俺はまだ十だった。母上はその前に亡くなっていた。兄上は――俺が皇位を継ぐ邪魔になると判断されて、消された。誰にとは言わない。分かるだろう」
淡々とした口調だった。まるで、他人の話をしているような。
「それから、誰も信じないと決めた。信じれば、いつか裏切られる。裏切られれば、また何かを失う。それなら最初から、何も信じない方がいい。そう思って、生きてきた」
澪は何も言わず、ただ黙って耳を傾けていた。相槌すら、今は邪魔になる気がした。
「俺は長年、誰も近くに寄せなかった。でも、お前は違う」
その言葉を聞いたとき、澪は胸が熱くなった。
レオンの手が、彼女の髪に触れる。指先が、わずかに震えている。優しさを示すことが、彼にとってどれほど不自然な行為なのかが、痛いほど伝わってきた。
城の廊下を一人で歩いていたある夜、澪はふと、口の中で小さく旋律をなぞっていることに気づいた。――銀は選び、白は守り、黒は焦がれる。カイが照れくさそうに口ずさんでいた、あの童歌だった。澪は口を閉じ、その先を、そっと胸の奥にしまい直した。名前を呼ぶことはしなかった。それでも、その声は、消えずに残っていた。
* * *
ある日の夕方、澪は隣国からの使者と、庭園で少しだけ言葉を交わした。他愛のない世間話だった。
その夜、レオンはいつもより不機嫌そうに部屋へ入ってきた。
「今日、隣国の使者と話していただろう」
「え......ええ、少しだけ」
「長かったな」
澪は首をかしげた。
「五分くらいですよ」
「五分は、長い」
レオンは仏頂面のまま、澪の手を取り、自分の隣の長椅子に座らせた。理由は言わなかった。ただ、隣にいさせたかっただけらしい。
「......もしかして、拗ねてます?」
「拗ねてなどいない」
即答だったが、視線はわずかに逸れていた。皇帝としては非のうちどころのない威厳を持つ男が、こんな些細なことで機嫌を損ねている。澪は思わず、笑いを堪えきれなかった。
「ふふ......レオンでも、そういう顔するんだ」
「......笑うな」
「ごめんなさい。でも、ちょっと可愛いなって思って」
「皇帝に向かって、可愛いとは何だ」
口ではそう言いながら、レオンは澪の手を離さなかった。指を絡めるように、そっと握り直す。強引さの中に、隠しきれない不器用さがあった。
「――お前が誰と話そうと、俺には止める権利なんかない。分かってる。分かってるが......気に食わないものは、気に食わない」
「勝手なんですね」
「勝手で悪いか」
開き直ったその物言いに、澪はまた笑ってしまった。けれど、彼の指が、まだ自分の手を離そうとしないことに気づいたとき、澪は笑みを収めた。しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。
「レオン」
澪は、静かに、けれどはっきりと言った。
「束縛と、大切にすることは違うから。あなたが本気で私を大切に思うなら、私が誰と何を話したかを逐一知ろうとするんじゃなくて、時々は、私を信じて一人にして」
レオンの瞳が、一瞬、傷ついたように揺れた。反論しかけて、けれど言葉を呑み込み、やがて小さく頷いた。
「......分かった」
* * *
すぐに変われる人ではなかった。
翌週、澪が城の下働きの少年と立ち話をしていただけで、レオンはまた不機嫌になった。今度は何も言わず、ただ執務室に籠って出てこなくなった。澪は扉の前で少し迷ってから、そのまま声をかけずに引き返した。
「まだ、なんですね」
その夜、澪は誰にともなく呟いた。呆れているのか、それとも、少しだけおかしいと思っているのか、自分でもよく分からなかった。
それでも、以前と違うところはあった。三日後、レオンの方から、ぼそりと切り出したのだ。
「......悪かった。また、同じことをした」
謝る言葉は、ひどく不器用だった。それでも、以前なら決して口にしなかった一言だった。澪はそのことに、以前より少しだけ、安心した。
一歩進んでは、また同じところでつまずく。その繰り返しの中に、確かに、以前とは違う速度で、何かが変わり始めていた。
* * *
ある日、太陽教の司祭たちが率いる一団が、帝都の広場で澪の排斥を訴える集会を開いた。緊張が走る中、澪は自ら広場に足を運んだ。
「私は、道具でも、穢れでもありません。この力で、誰かを救いたいだけです」
澪は集まった群衆の前で、黒い霧に苦しむ子どもを、その場で浄化してみせた。光が霧を払う。母親が泣きながら我が子を抱きしめた。
その様子を、一人の若い神官が、青ざめた顔で見つめていた。ファレンという名の、まだ二十歳そこそこの司祭だった。彼は数日前、この広場の外れで、澪の力によって熱病から救われた老人を見舞ったばかりだった。教義では、月の巫女は排すべき異端のはず。だが、彼の目の前にいるのは、ただ人を救おうとする一人の娘でしかなかった。
「......くそっ」
ファレンは拳を握りしめた。教えに従うなら、彼女を告発せねばならない。人として見るなら、彼女を守りたい。二つの想いが、胸の中で引き裂かれていた。
「惑わされるな! これは異端の力だ!」
叫んだのは、ファレンではなく、彼の隣に立つ年配の大司教だった。ファレンはとっさに一歩踏み出しかけたが、それが澪を庇うためだったのか、教義を執行するためだったのか、自分でも分からなかった。
その混乱に乗じるように、大司教が懐から短剣を抜き、澪に向かって踏み出した瞬間――広場の空気が、凍りついた。
レオンが群衆の間を裂くように現れ、大司教の腕を掴んだ。次の瞬間には、大司教は地面に組み伏せられ、レオンの手が、その喉元に伸びていた。
「......殺す」
低く、感情を殺した声だった。だが、その手の震えが、逆に本気であることを物語っていた。周囲の騎士たちでさえ、誰も動けなかった。金色の瞳から、いつもの余裕も、駆け引きも消えていた。ただ、剥き出しの殺意だけがあった。彼の足元の影が、龍の形にうねり始めている。
「レオン」
澪の声だけが、その場に響いた。静かで、けれど確かな声だった。澪はゆっくりと歩み寄り、レオンの腕にそっと触れた。
「その人を殺しても、何も変わらない。私は、無事だから」
レオンの手が、止まった。
しばらくの間、彼は動かなかった。荒い息だけが、広場に響いていた。やがて、ゆっくりと、喉元にかけた手を離す。大司教は震えながら、這うようにその場を逃げていった。
ファレンだけが、その場に残っていた。彼は澪に向かって、深く、長く頭を下げた。言葉はなかった。それが、彼にできる精一杯の詫びであり、敬意だった。
レオンは何も言わず、澪の方を見た。金色の瞳に、怒りではなく、戸惑いが浮かんでいた。自分でも、自分の激情を持て余しているようだった。
「この国の皇帝として言う。彼女は、俺が選んだ者だ。彼女を害する者は、俺を敵に回すと思え」
その声は、先ほどまでの殺意とは違う、静かな決意に変わっていた。群衆から、戸惑いと、わずかなどよめきが起こった。
* * *
その日の夜遅く、澪はレオンの執務室を訪ねた。今度は、広場でのような、とっさの言葉ではなかった。
「レオン。昼間のこと、ちゃんと話したい」
レオンは書類から顔を上げ、わずかに身構えた。
「......まだ、怒っているのか」
「怒ってるわけじゃない。ただ、確かめておきたいの」
澪はレオンの正面に立った。
「もし私が止めなかったら、あなたはあの人を殺していた。そうだよね」
レオンは、しばらく答えなかった。やがて、短く頷いた。
「......ああ」
「私は、それを望まない。あなたが誰かを守ろうとしてくれるのは嬉しい。でも、殺すことでしか守れないんだとしたら、それは私が一緒にいたい人じゃない」
レオンの金色の瞳が、初めて、たじろぐように揺れた。皇帝として、これまで誰からも突きつけられたことのない言葉だったのかもしれない。
「......俺のやり方は、これしか知らない」
「知らないなら、覚えて。私と一緒にいたいなら」
短い沈黙が落ちた。レオンは、何かに耐えるように、一度目を伏せた。
「......約束はできない。俺は、俺のままだ」
「約束じゃなくていい。ただ、覚えておいて。今日みたいなことが、また起きたときのために」
レオンは何も答えなかった。それでも、澪が部屋を出るまで、その視線は、ずっと澪の背中を追っていた。




