【第19話】運命の夜、重なり合う想い
最後の月の抱擁の夜が、ついに訪れた。
学院の中央広場は、厳重な警備態勢に包まれていた。白い大理石の地面に複雑な魔術陣が描かれ、銀色の光を静かに放っている。
儀式の前、エレノアが澪の手を取り、静かに告げた。
「今夜が、最後の月の抱擁です。この夜を越えれば、あなたの中の境界は、ほぼ完全に閉じるでしょう。――どちらの世界に、その先を生きるか。今夜、決めることになります」
「以前、話しましたね。二つの世界の時の流れは、同じではないと。境界が閉じるこの夜、その差は、これまでのどの夜よりも大きくなります」
覚悟していたはずの言葉が、それでも澪の胸を強く突いた。
澪は純白の儀式衣装を纏い、胸の三日月の紋章を淡く輝かせて、魔術陣の中心に立った。二つの月が頭上で完全に重なり始めていた。
糸が、これまでで一番強く引かれるのを感じた。
目を閉じると、瞼の裏に、いくつもの光景が浮かんでは消えていった。雨に濡れた通学路。母の泣き腫らした顔。参考書を机に置く、抑揚の薄い声。「おかえり」――あの一言。
(ごめんね)
声には出さず、澪は心の中でだけ、そう呟いた。謝る必要なんてないのかもしれない。それでも、置いていくものの重さを、なかったことにはしたくなかった。
(ありがとう。大好きだよ、お母さん。――淳も、ありがとう。あなたの『おかえり』が、私を何度も繋ぎ止めてくれた)
涙が一筋、頬を伝った。悲しみだけの涙ではなかった。感謝と、覚悟が入り混じった、透明な涙だった。
糸が、ふっと緩んだ。引かれる感覚が、静かに凪いでいく。振り切ったのではない。澪自身が、自分の意志で、そっと手を離したのだった。
皆の視線が一斉に集中する中、澪は深く息を吸い、声は、決意とともに低く落ちた。
「私はこの力で、世界の均衡を守ります。しかし、最終的な選択は、私自身の意志で行います。誰かに決められるのではなく、自分で選びます」
その言葉に、周囲からどよめきが起きた。学院長エレノアが静かに頷き、カイが複雑な表情で澪を見つめていた。
儀式が始まった瞬間、光が爆発的に広がった。澪の背後に、銀狼が完全な姿で現れた。気高く、孤高で、けれど確かに――自分の意志で立つ獣だった。
そのとき、正門の外から強烈な魔力が迫ってきた。
「あれは......儀式の力の高まりに、引き寄せられたのか」
エレノアが呟いた。今夜を逃せば、境界は完全に閉じる。それが分かっているのは、澪だけではなかったらしい。
レオン・ヴァルハイトだった。黒い飛竜に跨り、結界を強引に破りながら広場に降り立つ。彼の背後に、初めて完全な黒龍の姿が浮かび上がった。天を統べるほどの威容でありながら、その金色の瞳は、どこまでも孤独だった。
カイが即座に杖を構え、前に出た。彼の背にも、白く輝く虎の翼が、初めてはっきりと展開された。
「澪を守るんや! 近づくな!」
激しい戦いが始まった。銀狼が唸り、黒龍が咆哮し、白虎の翼が閃光のように舞う。魂の獣たちがぶつかり合う様は、まるで神話そのものだった。
カイの動きは、これまでにないほど鋭かった。白虎の力を借りた一撃が、レオンの黒龍の鱗を捉え、浅く裂く。レオンが片膝をつく。
「――やるな、白の騎士」
レオンが口の端から血を拭い、笑った。愉しむような、それでいて本気の笑みだった。
「お前は、守ることしかしない。それで、いつまで彼女を留めておけると思っている」
「守ることの、何が悪いんや」
カイが吐き捨てるように答えた。
「悪くはない。だが、檻は檻だ。優しい檻ほど、中の者は気づかない」
黒龍の咆哮が高まり、闇のような奔流がカイに襲いかかる。カイはとっさに白虎の翼で己を庇ったが、勢いを殺しきれず、地面に片膝をついた。
このままでは、どちらかが取り返しのつかない傷を負う。澪はそれを、肌で感じ取った。
迷いを顔に出すな。一度構えたら、退くな。体の奥底に染みついた、あの感覚が澪を突き動かした。
澪は自ら光の壁を展開し、二人の戦いを強引に制止した。渾身の力を込めたせいで、視界の端が白く霞む。それでも、足は震えながらも、しっかりと地面を踏みしめていた。
「待って! 二人とも......私の話を聞いて」
広場が一瞬、静まり返った。澪は二人を交互に見つめ、静かだが力強い声で語り始めた。
「カイ......あなたはいつも私を守ってくれた。優しくて、真っ直ぐで、どんなときもそばにいてくれた。あなたは翼を持ちながら、それでも私のために、地上に留まってくれた。私はあなたに、本当にたくさん救われた。心から、ありがとう」
澪の背後で、銀狼が静かに伏せ、頭を垂れた。
カイの青い瞳が震えた。彼の白虎が、静かに翼をたたんだ。
「でも、私はもう守られるだけの存在でいたくない。自分で世界を変えたい。自分の足で、道を切り開きたいの」
澪は深く息を吸い、今度はレオンに向き直った。
「レオン。あなたは怖い人だ。冷たくて、強引で、危険で......最初は本当に恐ろしかった」
そこで、澪は一度言葉を切った。
「でも、あなたの前でだけ、私は、誰かに合わせるための笑い方を、忘れていられた。困らせないための言葉を、探さなくてよかった。それが、どれだけ楽だったか、たぶんあなたは知らないと思う」
澪は一度、目を伏せ、それからまっすぐにレオンを見た。
「でも、あなたは私に、守られることも、期待に応えることも、求めなかった。ただ、私自身がどうしたいかだけを、いつも見ていた」
黒龍の全身を覆っていた鱗が、澪の言葉の一つ一つに合わせて、わずかに緩んでいくのが見えた。
「私は、あなたに救われたいわけじゃない。あなたの隣に、自分の足で立ちたい」
レオンは、何も言わなかった。
言葉を探しているのではなかった。ただ、何かを言えば、この瞬間が壊れてしまうとでもいうように、彼は口を閉ざしたまま、澪をじっと見つめていた。金色の瞳が、かすかに揺れている。
やがて、レオンがゆっくりと手を差し伸べた。その大きな手は、はっきりと震えていた。差し出したまま、彼はすぐには澪に触れようとしなかった。まるで、触れた瞬間にすべてが幻だったと分かるのを、恐れているように。
澪は迷わず、その手を取った。
「私は、あなたを選ぶ」
レオンの瞳が、大きく見開かれた。信じられない、というように。彼の黒龍が、初めて、威嚇ではなく、戸惑うように、わずかに首を傾げた。
「......本気で、言っているのか」
珍しく、確かめるような、掠れた声だった。
「私は、あなたを選ぶ」
その一瞬、頭の隅を、埒もない考えがよぎった。
(もし、ここにいたのが、カイだったら――)
澪は小さく首を振り、その考えを追い払った。今、選んだのは自分だ。誰かの代わりに誰かを重ねるような選び方は、もうしない。
澪がもう一度そう告げると、レオンは澪の手を額に押し当て、深く息を吐いた。長年、誰にも見せなかったであろう、無防備な仕草だった。
その瞬間、銀狼が黒龍のそばに寄り添うように立ち、月に向かって一度、長く遠吠えをした。それが何を意味する声なのか、澪自身にも、まだ分からなかった。
飛竜が力強く羽ばたき、夜空に飛び立つ前――澪はレオンの手をそっと止め、もう一度だけカイの方を振り返った。
「カイ、待たせてしまってごめんね。でも、これだけは伝えさせて。あなたのくれた優しさは、これからもずっと、私の中で消えない光だから」
カイは、すぐには答えなかった。一瞬だけ、視線が下に落ちる。拳が固く握られ、それから、ゆっくりと開かれた。
「......行けや、澪」
声は、少し掠れていた。
「お前が選んだ道や。俺は――お前を守れたことを、誇りに思うわ」
その声に、嘘はなかった。それでも、笑顔にはなりきれていない、その中間のような表情を、澪は見た。彼の白虎が、月に向かって静かに、一度だけ吠えた。
飛竜が夜空に飛び立った。澪はレオンの胸に顔を埋めながら、目に涙を浮かべていた。悲しみではなく、感謝と、これから歩む道への確かな覚悟の涙だった。
二つの月が最高潮に輝く中、澪は自らの意志で、新しい運命へと飛び立った。
遠く、日本の空でも、その夜、細い雲の切れ間から、いつもと変わらない月が見えていた。窓辺に立つ誰かが、ふと空を見上げる。
一瞬だけ、月が、二つに見えた気がした。
「......?」
目をこすると、そこにはいつもの月が一つだけ、静かに浮かんでいた。




