【第18話】決断の前夜(その2)
一人残された澪は、噴水の水面を見つめた。波紋の向こうに、自分の顔が映っている。
――怖いんだろ、お前。
その一言が、胸の奥に刺さったまま、抜けなかった。否定しようとして、否定しきれなかった自分に、澪は気づいていた。
(怖いだけ、なのかもしれない)
澪は膝を抱え、噴水の縁に座り直した。夜風が冷たい。制服代わりの巫女装束の裾が、かすかに揺れた。
まず浮かんだのは、カイの顔だった。
――傷つける。
その言葉が、鉛のように腹の底に沈んだ。カイはずっと、優しかった。守ってくれた。何も見返りを求めず、ただそばにいてくれた。その手を、自分から離す。それは、彼が注いでくれたものすべてに、背を向けることのように思えた。
(私は、ひどい人間なのかもしれない)
そう思いながら、澪はふと、この数日、カイの前でどんな顔をしていたかを思い返した。
――ありがとう、カイ。私、大丈夫だよ。
何度も、そう言った気がする。本心だった。同時に、いつかどこかで聞いたことのある響きだとも思った。
(あ)
思い当たって、澪は息を止めた。それは、日本にいた頃、教室の隅で繰り返していた言葉と、驚くほど似ていた。うん、また明日。大丈夫、慣れてるし。誰にでも合わせられる程度には愛想がよく、誰の一番にもならない程度に、距離を保つ、あの型どおりの自分。
カイの隣にいるとき、澪はいつも、守られるにふさわしい自分でいようとしていた。感謝し、微笑み、決して困らせない。それは、心地よかった。心地よすぎて、澪は今の今まで、その心地よさの正体に気づかずにいた。
――それは、たぶん、恋じゃない。恋に似た、別の何かだ。
自分の中で、その考えがはっきりと形になった瞬間、澪は怖くなった。カイを傷つけたくないからではない。カイのそばにいる自分を手放すことが、もう一度、慣れ親しんだ「型」に戻ることのように感じられたからだった。
次に、レオンの顔が浮かんだ。
冷たくて、強引で、危うい人だ。今でも、そう思う。けれど、彼の前では、愛想笑いも、相槌も、一度も役に立ったことがなかった。レオンは、澪が黙っていれば苛立ち、澪が怒れば驚いたように黙り、澪が本音を言えば、初めて満足そうに目を細めた。彼は、澪の「型どおり」なところに、一度も興味を示さなかった。
(あの人の前でだけ、私は――)
言葉にしかけて、澪は喉を詰まらせた。あの人の前でだけ、誰かに合わせようとする自分の癖が、通用しなかった。通用しないから、苛立つこともあった。怖いと思ったことも、一度や二度ではない。それでも、あの不器用な誠実さの前でだけ、澪は自分の輪郭を、誰かのために薄めずに済んだ。
――型を守ることと、自分で決めることは、両立できる。
不意に、記憶の底から、剣道場の先生の声が聞こえた気がした。何年も忘れていたはずの声だった。型に嵌められているはずのあの瞬間、誰よりも自分が自分でいられた、あの感覚。守られることに慣れて、いつしか蓋をしてしまった、あの静かな緊張感。
(覚悟を決めた者の背中は、揺れない――)
その言葉の意味が、今になって、ようやく分かった気がした。覚悟とは、誰かに守られて安全でいることではない。自分の足で立ち、自分の選択の責任を、自分で引き受けることだ。
そう思うと、涙が滲んだ。カイの笑顔、カイの声、カイの手のひらの温度。どれも本物だった。それを失望させることが、怖くないはずがなかった。
けれど。
澪は水面の自分の目を、じっと見つめた。
泣いている。それなのに、口元だけが、わずかに笑っていた。
(何で、笑ってるの、私)
今度は、理由が分かる気がした。長い間、探していた答えの輪郭に、指先が触れた気がしたからだ。
夜は、ゆっくりと色を変えていった。
濃い藍色だった空が、東の端からわずかに白み始める。星が一つ、また一つと薄れていく。噴水の水音だけが、変わらずに続いていた。
小鳥が一羽、どこかで短く鳴いた。冷たかった空気に、かすかな温度が戻り始める。
澪は膝の上に顎を乗せたまま、その移ろいを、ただ黙って眺めていた。何かを結論づけようとするのではなく、ただ、夜が明けていく時間の中に、自分を委ねていた。
やがて、水平線の向こうから、淡い金色の光が差し込み始めた。
澪はベッドに戻らず、そのまま朝まで、噴水のそばに座り込んでいた。
夜が明ける頃、澪はようやく顔を上げた。目は赤く腫れていたが、瞳の奥には、これまでになく澄んだ光が宿っていた。
「私は......もう、誰かに合わせるために、自分を選ぶのは、やめる」
声には出さなかった。澪はただ、赤く腫れた目のまま、ゆっくりと膝を伸ばし、立ち上がった。噴水の水しぶきが、朝日を受けて一瞬だけ光る。それを合図にしたわけでもないのに、澪の足は、迷いなく寮の方角へ向いていた。
それは、まだ何かを決めた宣言ではなかった。ただ、目を逸らし続けていた何かから、もう逃げられないと悟った、その最初の一歩だった。
最後の月の抱擁まで、あと二日。
決断の時が、静かに、しかし確実に近づいていた。




