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【第17話】決断の前夜(その1)


最後の月の抱擁まで、あと三日。


学院全体が張りつめた空気に包まれていた。太陽教の司祭たちが帝国の後ろ盾を得て、正式に「異端の巫女排斥」を宣言したという報せが届いていた。儀式の準備が進み、騎士団の警備がさらに厳しくなり、生徒たちの表情からも余裕が消えていく。


澪は自分の部屋で窓辺に立ち、指先でそっと胸の紋章に触れていた。


「あと三日......」


胸の奥が、重く沈む。選択の時が、確実に迫っていた。ここを越えれば、もう現実に引き戻される猶予すらないかもしれない。エレノアの言葉を思い出すたび、澪はそっと自分の胸に手を当てた。


その夜、カイが部屋を訪れた。いつもより静かで、少し寂しげな顔をしていた。


「ちょっと、外出えへんか」


二人は学院の裏庭に出た。魔力で育つ花々が夜風に揺れ、甘い香りを漂わせている。


カイは澪の手をそっと握り、ベンチに座った。その手は温かかった。あまりにも、温かかった。


「澪。俺は君を失いとうない」


カイはそこで一度、言葉を止めた。月を見上げたまま、しばらく黙っていた。


「......ほんまは、残ってほしい。今でも、そう思うてる。たぶん、最後まで変わらへん」


その正直さに、澪の胸が締めつけられた。カイが、初めて「守る」ではなく、自分の欲しいものをそのまま口にした瞬間だった。


「せやけど、それでも、君が決めることを邪魔したないんや。強制はせえへん。君がほんまに幸せになる道を、選んでくれ」


カイの声は優しく、しかし切なかった。


「俺はずっと、『守る』ことだけを自分に許してきたんや。ほんまは、もっと自由に生きたかったんかもしれん。空を飛ぶみたいに。せやけど、家族を失ってから、それが怖なった。誰かを守ってたら、また何か失うても、意味があると思えたからな」


その告白に、澪は胸を突かれた。カイは、自分の翼を自分で封じてきた人だった。


「カイ、あなたはもう、十分すぎるほど誰かを守ってきた。これからは、あなた自身のために生きてもいいんだよ」


「......そうかもな」


カイは少し笑った。それは、これまで澪が見た中で、一番自由な笑顔だった。それでいて、その目の奥には、まだ手放しきれていない何かが、確かに残っていた。


「どんな選択をしても、俺は君の味方や。それだけは、変わらへん」


* * *


夜が更け、澪が一人になったとき、夢が訪れた。


またあの場所だった。黒い玉座の間。今夜のレオンは、玉座に深く腰掛けたまま、微動だにしなかった。金色の瞳の奥に、これまで見たことのない弱さが、抑えきれない熱と共に沈んでいる。


「俺は長年、誰も信じられなかった」


そこで一度、言葉が途切れた。何かを続けようとして、やめたようだった。


「お前を見ていると......分からなくなる」


夢の中のレオンが、迷うように手を持ち上げた。指先が、小さく震えている。それでも、彼はその手を澪に伸ばしきれず、宙で止めたままだった。


「お前が俺を選んでくれれば、俺はすべてを変える。この冷たい帝国も、俺自身も。だが――嘘は言わない。俺はお前を、手放したくない。光を、独占したいんだ」


澪は夢の中で、彼の手に触れた。冷たいはずの指先が、熱を持っていた。手のひらに走った痺れるような感覚に、澪は思わず息を止めた。怖いはずなのに、指を離す気にはなれなかった。喉の奥が、ちりちりと焦げつくように熱い。


(怖い。それなのに――)


言葉にはならなかった。ただ、その両方が、同時に胸の中にあった。


目が覚めたとき、澪は枕を強く握りしめていた。涙が頬を伝っていた。


片方の手には、まだカイの温もりが残っている気がした。もう片方の胸の奥には、レオンに触れられた指先の熱が、消えずに燻っていた。優しさに包まれていたいのに、危うさに引き寄せられずにいられない。そんな自分が、少し嫌になる。


* * *


澪は部屋を出て、当てもなく夜の中庭を歩いた。冷たい空気が、火照った頬に心地よかった。


「眠れないのか」


噴水の縁に、マイケルが一人で座っていた。珍しく、いつものおどけた調子は鳴りを潜めている。


「......あなたも」


「俺は元々、あまり眠らない主義でね」


澪は少し迷ってから、彼の隣に腰を下ろした。しばらく、二人とも黙って月を見上げていた。


「まだ、迷ってるんです」


澪はぽつりと呟いた。


「カイのことも、レオンのことも、大切に思ってる。でも、まだ......どちらか一つに決めきれない」


マイケルは、月から視線を外さないまま、静かに言った。


「怖いんだろ、お前」


「......え?」


「選んだ瞬間、もう戻れなくなる。今の、誰も傷つけずにいられる場所から、永遠に出ていくことになる。それが怖いから、迷ってるフリをしてるんじゃないのか」


「そんなこと......」


澪は反論しようとした。だが、言葉が続かなかった。喉の奥が、熱く締めつけられる。


マイケルはそれ以上、何も言わなかった。ただ、澪の反応を見て、小さく笑っただけだった。


「まあ、俺の勘だけどな」


彼は立ち上がり、伸びをした。


「昔な、誰かが同じように迷ってるのを、見て見ぬふりをしたことがある」


それだけだった。彼はそれ以上、何も語らなかった。過去の名前も、顔も、結末も。澪は何も言わず、ただマイケルの横顔を見た。それ以上、聞いてはいけない気がした。


「俺は、カイの味方でも、レオンの味方でもない。お前の味方ですらない。俺はただ、『本当のこと』の味方なんだ」


彼はそれだけ言うと、踵を返して歩き去った。去り際、いつもの調子で肩越しに笑いかける。


「ちなみに、俺は今の発言でちょっと惚れ直されても構わないぜ」


「結構です」


即答する澪に、マイケルは「......アレ?」と大げさに肩を落としながら、闇の中へ消えていった。

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