第2話 馬産の世界
「ブランドフォード系の種牡馬で『ミルキィ』という馬がおってな、これが月毛だったのだ。この馬の子孫を大事に繋げて月毛の遺伝子を残そうとしている牧場があるんだよ」
『ミルキィ』なんて馬名、これまで一度も聞いた事が無い。もしかしたら老人の与太話なんじゃないかと思って、携帯電話を取り出して調べてみた所、確かに『ブランドフォード』のサイアーラインにその名はあった。
「今調べてみたのですけど、その『ミルキィ』のところに『パロミノ』って書かれているんですけど、これが月毛という事なんですか?」
「そうだ。海外ではそう呼ぶらしい。一見すると白毛なのだがな、ほんのりと黄が差しておるのだ。私も実物を見た事があるのだが、これが実に神々しくてな」
これがその写真だと言って、濱野さんは名刺入れから小さな写真を取り出して見せてくれた。
確かに言われても白毛との区別がわからない。老いて色の抜けた芦毛と言われても納得してしまいそうな。
「この月毛の仔を日本で走らせて重賞を取らせるのが今の私の夢なんだよ」
「それはなかなかに夢のある話ですね。実に楽しそうです。ですけど、ブランドフォード系ってあまり聞かないですよね」
「大昔に少しだけ流行った血統だからな。『ハクチカラ』というダービー馬も排出しているんだが……」
「不勉強で申し訳ないですけど、聞いた事ありませんね」
知るわけがないと言い切った私に、濱野さんも大笑い。
実際、濱野さんも月毛を調べていくうちに、『ブランドフォード』という血統を知る事になり、かつて日本にも入って来ていた血だと知ったのだそうだ。
濱野さんが調べたところによると、ドイツでは比較的メジャーな血統ではあるものの、それ以外ではさっぱりなのだとか。
だとすると、重賞を取らせるどころか、一勝を挙げさせる事すら困難に思えてならない。もはや完全な道楽。単なる夢物語。はっきり言って現実的だとは思えない。
「来年に先ほどの写真の仔が日本に輸送されて来る。牝馬だぞ。その仔がターフを走る日が来るのが待ち遠しくてならんよ。だが一つ問題があってな。実はJRAは月毛を認めておらんのだ。月毛の馬は栗毛にされているんだよ。私は今、それを月毛として登録できるよう交渉しておるのだよ」
こんな老人になっても、なお、ここまで目をギラギラさせる事がある。それが競馬、馬主というものだと、私は初めて思わされた。
周囲の言葉を借りて、何となくで「ダービーオーナーになりたい」と口走っていた自分が若干恥ずかしく感じていた。
◇◇◇
濱野の爺さんに触発された俺は、時間を作って北海道は浦河にある児玉牧場に足を運ぶ事にした。
「今年産まれたとねっこ(=当歳馬)は、どれも父の良い所を引き継いでいます。脚の形も悪くないですし、中々に期待できると思いますよ」
芦毛、栗毛、鹿毛。それぞれ、母や父の毛色を引き継いだ当歳馬たち。二歳馬の逞しい姿とは異なり、顔も幼く愛らしさがある。この中から一頭でも走ってくれれば、牧場にも生産者賞が入って経営が楽になるのだが。
一通り当歳馬を見終えた後で、牧場の事務室で談話をする事になった。
「右を向いても左を向いても、どの牧場も『ディープインパクト』に『キングカメハメハ』。あんなに種付け料が高騰してしまったら、うちのような零細では最早手が出ませんよね」
「その二頭の産駒が近年『ダービー』を独占ですからね。先日セレクトセールに行ってみたんだけど、産駒の値段は段違いでしたよ。あれではさすがに手が出ないよね」
「そこで田安社長、『ヘニーヒューズ』が美味しいんじゃないかって私は最近思っているんですよ。海外では結構、『ストームキャット』の系統が走っているんですよね」
「だけど、海外で活躍する血統が日本でも走るかというと、そういうわけじゃないんでしょ?」
何年か前、偶然この牧場を訪れた時に、同じように仔馬を見せてもらい、この児玉場長と知見を得た。
溢れる知識、血統だけでなく、馬そのものの知識が非常に豊富。独自にデータ分析をし、それに基づいて配合を考えるという理論派。それに魅力を感じ、融資を申し出たのだった。
今ではこうしてブレーンの一人となってもらっている。
「ところで、話は変わるんですがね。児玉さんは馬の毛色がどういう仕組みで出るのかってのは詳しいですか」
「私は獣医では無いので概要だけですが。答えられる範囲でよろしければお答しますよ」
「では、芦毛と白毛の違いって何なんですか?」
「ああ、最近話題の『ユキチャン』の話ですか」
すると児玉場長は背後の本棚から一冊の本を取り出してきて、パラパラとめくって毛色のページを開いた。
「芦毛と白毛は、実はちょっと似た遺伝子だったりするんですよ。メンデルの遺伝の法則は覚えておいでですか?」
「遺伝子は二本ワンセットで、優性遺伝と劣勢遺伝があるというやつですよね。確か授業ではソラマメの話をされたような」
「優秀、優秀。さすがですね。血液型がわかりやすいんですけど、A型と言ってもAO、AAの二種があり、Aが優勢、Oが劣勢なので、AOだとA型になるというやつですね。実は芦毛、白毛の遺伝子も優性遺伝子なんですよ」
「つまり、遺伝されれば発動すると」
「です。なので両親のどちらかが芦毛、白毛でなければ普通は芦毛、白毛の仔は生まれないんですよ。その例外が『ユキチャン』の母『シラユキヒメ』だったんですよね」
発動するかしないかであれば、理論上では確率は五分。ところが、どういうわけか芦毛に比べ、白毛の遺伝子は遺伝しづらいらしい。当然、白毛の遺伝子を受け継がなかった仔からは、以降、白毛は生まれてこない。
だから白毛は自然と数を減らして行く事になり、故意に増やして行こうとしなければ淘汰されてしまう。これがここまでの馬産の歴史で起きてきた事らしい。
「それっていうのは、白毛の種牡馬が誕生すると、一気に白毛が増える事になると言う事ですか?」
「理論上ではそうなりますね。ですけど、ただ白毛だからという理由で走りそうもない馬を買う人は中々いません。馬主さんはまず競争能力を最優先で見ますから。仮に繁殖入りしたとして良い産駒が出せるかというと……」
「なるほどね。そもそも種牡馬として成功できる確率がほぼ奇跡の数字なのだから、それが白毛ともなればという事ですか」
「まあ、限りなく0という事になりますね」
これが厳しい馬産の現実というものなのだろう。夢だけでは済まない。現実の商品価値の問題が立ちはだかる。
要約すると児玉場長の話はそういう事であった。
「なるほどなあ。それが月毛でも同じ事なんだろうなあ……」
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