第1話 馬主としての夢
「君は馬主として、何か夢というものは抱いているのかね?」
目の前の上品な身なりをした老人が、ワイングラスをクルクルと傾けながら言った。
髪は真っ白、蓄えられた口髭も見事に真っ白。歩くのにはもう杖が欠かせない。誰がどの角度から見ても老い先短い老人。
その老人が『夢』という単語を口にした。それが何だか奇妙な事に感じている。心のどこかに違和感という棘で引っかかっているような変な感覚を覚えた。
「もちろん馬主として活動しているからには、最終的にはダービーオーナーになる事ですよ」
「もしそれが叶ったら?」
「そうですねえ。何年か前に牧場を買い取りましたから、自家生産馬でダービーが取りたいですね」
目の前の老人はワイングラスを鼻に近付け、香りだけ嗅いで静かに机の上に置いた。じっとこちらを見ているが、その目には若干の侮蔑の色がある気がする。
「ダービーか。確かにそれは大いなる夢だな。私も最初はそうだった。どんな手を尽くしてでもダービーが欲しいと願って、金を使い、人脈もフル活用した。そしてダービーオーナーという称号をつかみ取ったんだ」
「どうでした、夢が叶って?」
「思ったほど充足感は長くは続かなかったな。心に開いた穴が徐々に大きくなっていくように、虚しさが強くなっていくんだよ。まあ、夢なんて存外そんなものなのかもしれんな」
恐らく喋りながら遠い昔の事を思い出しているのだろう。その視線は目の前に座る俺の遥か後ろを見ているよう。
老人はそこで一口だけワインを口に含んだ。
「君は馬主になって何年になるんだったかな?」
「八年ですね」
「そうか。八年で八大競争の一つを制したのか。中々に良いペースというものだろう。私の八年目といったら重賞は勝てるが、なかなかGⅠには縁が無かったからな」
「でも濱野さんは、その最初のGⅠがダービーだったわけですよね。私は秋天ですから。それも七歳でやっと開花した馬ですから。いや、まあ、結構稼がせてもらったから足を向けては寝れませんけどね」
ポロリと零れた俺の本音に、濱野さんが「ふふ」と静かに笑った。そして、新たに運ばれて来たビワのゼリーをスプーンで掬い口に運んだ。その後で、じっとビワに視線を固定させ続けている。
「あの馬はセリで入手したのだろう。買うきっかけのようなものはあったのかね? 血統を見たら、そこまで手が出せる馬ではなかったように思うが」
「こんな事を言うと笑われるかもしれませんが、実は毛色が決め手だったんですよ」
「なるほど、『尾花栗毛』(=たてがみと尻尾だけ白い栗毛)か。栗毛の中でも尾花栗毛は特に見栄えがするものな。そうかそうか」
「仮に走らなくても、尾花栗毛を走らせているというだけで、何となく運気が向いて来る気がするんですよね。神々しさのようなものを感じるというか」
神々しい。その単語が俺の口から発せられると、濱野さんはビワからこちらに視線を移し、ギロリと鋭い眼光で見てきた。
「君は、馬の毛色が何種類あるかは知っておるかな?」
「もちろん。芦毛、栗毛、栃栗毛、鹿毛、黒鹿毛、青鹿毛、青毛です。あっ、白毛が抜けてましたね」
「では、その毛色がどのような仕組みで現れるかは知っておるかね?」
「私も詳しいわけではありませんが、以前聞いた話では、鹿毛の遺伝子と、その濃さを調節する遺伝子があって、それによって芦毛以外は決まるそうですね」
まず鹿毛の遺伝子があり、それを劣性で持つ栗毛になる。優性なら鹿毛系になる。鹿毛、黒鹿毛、青鹿毛、青毛は濃さを調整する遺伝子によって決まる。本当はもっと複雑なのだそうだが、ざっくりと言うとそんな感じだと聞いた。
「ふむ。では芦毛は?」
「鹿毛の遺伝子が働く前に芦毛の遺伝子の判定があるという話を聞きました」
まるでテストで良い点を取った子供を褒めるように、濱野さんは顔に複数の皺を寄せて嬉しそうに拍手した。いくつになってもこういう態度を取られると照れ臭いものだ。
「結構、結構。勉強熱心なんだな。感心したよ。先日『ユキチャン』という白毛馬が話題になっておったが、この白毛というのも芦毛と同じような遺伝なのだそうだよ。それも芦毛の前に白毛の判定があるんだそうだ」
「『ユキチャン』の母の『シラユキヒメ』は青鹿毛と鹿毛の子なのに、突然変異で白毛だったって言ってましたよね。それってようはアルビノ(=色素欠乏症)って事なんでしょうか」
「アルビノは遺伝子の疾患だが、白毛は元々そういう遺伝子があり、そのスイッチが突然入った個体の事を言うんだよ。だから全然別物だよ」
こちらはとっくに食事を終えているのだが、この老人は非常に食べるのがゆっくりであった。やっとデザートを食べ終え、ナプキンで口元を拭いた。その所作は非常に優雅で上品さが滲み出ている。
「実はな田安君、白毛のような幻とされる毛色は他にもあるんだよ。歴史的にも出てくる有名な毛色があるんだ。知っておるかね?」
「歴史的にというと……三國志の呂布の愛馬だった赤兎馬でしょうか」
「イメージを壊してしまって申し訳ないが、赤毛というのは我々が言うところの栃栗毛だよ。そうじゃない。日本で有名な毛色だよ。ヒントは上杉謙信だ」
「申し訳ないですけど、上杉謙信がどんな馬に乗っていたかなんて聞いた事が無いです」
くいっと口角を上げて濱野さんは微笑んだ。さらに「ふふ」と小さく笑う。よく学んだようだがまだまだ。まるでそう叱られているかのような気持ちにさせられる。
「上杉謙信の愛馬はな、『放生月毛』というんだ。もう私が言わんとした事がわかっただろう。『月毛』だよ。そして実は『月毛』のサラブレッドは実在しているんだよ!」
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