第9話:歪んだ福音と、忍び寄る影
第9話:歪んだ福音と、忍び寄る影
爛漫の花々と運河の賑わいに包まれた『グラン・ヴァレ』の夜。
水面に映る街明かりが揺れる中、宿屋の一室は重苦しい息遣いに満たされていた。
「ハァ……ッ……くっ……」
ベッドの上で、エレボスが小さな身体を丸め、苦しげに喘いでいる。
昼間のパフェを楽しんでいたあざやかな表情は消え去り、その頬は朱を散らしたように赤く熱し、額には脂汗が滲んでいた。
「エレボス……!」
ヒルデは固く絞った手ぬぐいで、彼の額をそっと拭う。
触れた肌は、火傷しそうなほどに熱かった。
原因は病などではない。
前話の泥濘の戦闘で、かつての大悪魔の魔力を強引に引き出した代償だった。ヘメラが作った人間の幼体という器は本来、未完成で脆い。そこに無理やり強大な魔力を通したことで、幼い神経と肉体が激しい拒絶反応を起こし、発熱という形で歪みが噴き出していたのだった。
「……くそ、私に、もう少し知識があれば……!」
ヒルデは己の無力さに歯噛みした。
敵を斬る術なら知っている。だが、病み衰えた幼子をどう労わればいいのか、戦場で生きてきた彼女には何ひとつ確かな答えがない。
薬湯を飲ませようにも、エレボスは苦しさのあまり固く唇を閉ざし、水滴すら弾いてしまう。
ヒルデは大きな手で小さな手ぬぐいを何度も絞り直し、熱を吸い取っては取り替える作業を繰り返した。ゴツゴツとした指先が、エレボスの繊細な肌を傷つけないよう、壊れものを扱うように慎重に、何度も、何度も。
「……ひる、で……」
うわ言のように、エレボスの薄い唇が微かな音を紡ぐ。
「……ここにいる。離れない」
ヒルデは迷わず、エレボスの熱く小刻みに震える小さな手を両手で包み込んだ。
己の掌の冷たさが少しでも彼の熱を和らげることを祈るように、力を込めすぎず、けれど決して解けない固さで握り締める。
かつて世界を絶望に陥れた大悪魔が、今はただの、夜の冷たさに怯える小さな命としてヒルデの手の中にいる。
「死なせはしない。……お前が、この世界で美味しいものを食い、くだらないことで怒り、笑えるようになるまで……私が絶対に守る」
その声は、静かな祈りとなって暗い室内に響いた。
- だが。
「……まあ。なんとも哀れで、滑稽な茶劇ですこと」
静寂を切り裂き、鈴の鳴るような冷徹な声が室内へ落ちた。
「なに……!?」
ヒルデが弾かれたように振り返ると、固く閉ざされていた二階の窓が、風もないのに静かに開き放たれていた。
月光が差し込む窓枠の上に、一人の女が舞い降りる。
白銀の刺繍が施された厳かな法衣。一切の不純物を排した金糸の髪。
そして、命の温もりを何ひとつ映さない、氷のごとき青い瞳。
聖導機構の異端審問官 -クラリスが、窓辺に佇んでいた。
「貴様……いつの間に……!」
ヒルデはエレボスをかばうように即座に立ち上がり、壁に立てかけてあった大剣の柄に手をかけた。
しかし、クラリスは刃を向けられても眉ひとつ動かさず、ただ憐れみと蔑みが混ざり合った視線をヒルデへ向けた。
「剣を収めなさい、哀れな女騎士。私が用があるのは、あなたではなく……そこに横たわる『あのお方』の器です」
クラリスの視線が、ベッドの上でうなされるエレボスへと移る。その途端、彼女の瞳に狂気じみた執着の光が宿った。
「哀れ……実に哀れです。あのお方(ヘメラ様)が、世界に絶対の秩序をもたらすために遺された至高のスペア(器)が、あろうことか人間に拾われ、毒され……このような薄汚い感情という雑味を混ぜ込まれるとは」
「……スペアだと?」
ヒルデの低い声に、クラリスは優雅に胸元で聖印を組んで頷いた。
「ええ。ヘメラ様は絶対の理でした。感情などに揺るがず、冷徹に世界を統制する完璧な存在。そのあのお方が万が一のために残されたのが、その幼体……『無機質な体のスペア』なのです」
クラリスの手元で、かすかな光の粒子が紡がれ始める。それは温かな救いなどではなく、全てを無へと帰す絶無の光だった。
「ですが、見てみなさい。あなたという雑多な人間が余計な真似をしたせいで、その器には『熱』が宿り、『痛み』に怯え、『絆』などという不確定な不純物が混ざり込んでしまった。あのお方の美しき無機質さが汚されている……!」
「黙れ……!」
ヒルデは解き放たれる圧迫感に抗い、大剣を半身に構えた。
「エレボスはスペアなどではない! 自分で考え、痛みを感じ、私と温かいスープを分かち合う……生きている一つの命だ!」
「それが『汚染』だと言っているのです、愚か者」
クラリスの声から温度が完全に消えた。
「感情など、裁定者には不要なノイズ。……ですが、心配いりません。私が今すぐ、その不必要な雑味(感情)を綺麗に削ぎ落として差し上げます。記憶も、心も、あなたと過ごした下らない思い出も全て消し去り……再び、冷徹で完璧なヘメラ様のスペアとして『浄化』して差し上げましょう」
クラリスが指先を掲げると、室内の月光が一点に集まり、エレボスの胸元を穿つ一筋の光の針へと形を変えた。
「させるかぁッ!」
ヒルデの大剣が、空気を切り裂いて走る。
しかし、クラリスの周囲に展開された光の結界に弾かれ、激しい火花が散った。
「無駄です。病み衰えた器を抱え、あなたに何ができますか?」
光の針が、ベッドの上のエレボスへ向けて解き放たれる。




