第8話:花薫る街と、初めての甘味
第3章:爛漫の街と、歪んだ崇拝
第8話:花薫る街と、初めての甘味
開拓都市ヴィルヘルムを後にしてから数日。
街道の景色は泥と荒野から一変し、見渡す限りの色鮮やかな花畑と、豊かな運河が織りなす南方の風景へと移り変わっていた。
暖かな陽光が降り注ぎ、風が吹くたびに甘い花の香りが鼻腔をくすぐる。
「ついたぞ、エレボス。ここが商業都市『グラン・ヴァレ』だ」
ヒルデの隣で、フードを深く被ったエレボスが小さく息を呑んだ。
目の前に広がるのは、白壁と赤屋根の建物が整然と並ぶ、美しく華やかな街並みだった。
運河を行き交う小舟、色とりどりの花で飾られた街頭、そして何より、行き交う人々の表情に悲壮感はない。旧世界の崩壊後も豊かな資源と交易で繁栄を続けてきた、この地域最大の都市だ。
「……随分と浮かれた街だな。人間の欲望がそのまま形になったようだ」
フンと鼻を鳴らすエレボスだったが、そのオッドアイは目まぐるしく変わる街の風景を物珍しそうに追いかけていた。
「よし、まずは宿を確保する前に……服屋だ」
ヒルデは胸を張り、力強く宣言した。
前回の『ネルヴァ宿場町』での失態——固すぎる革補強の服を選び、エレボスの首を真っ赤に擦り散らかした記憶は、彼女の誇り高き騎士心に深い傷を残していた。今回は同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。
「また私をあの木偶のような服で固める気か? 断っておくが、二度と御免だぞ」
「安心しろ。私とて学習する」
ヒルデが連れてきたのは、街の大通りから一本入った場所にある、丁寧な仕立てで評判の子供服店だった。
店に入るなり、腕を組んで仁王立ちし、真剣な眼差しで店内を睨みつけるヒルデ。その威圧感に店主の女性が一瞬引きつった笑みを浮かべたが、隣にいる小さなエレボスの姿を見るなり、察したように優しく微笑んだ。
「いらっしゃい。……あら、ずいぶんと可愛らしい坊やね。お姉さん、服をお探し?」
「うむ。……この子に合う服を頼みたい。頑丈さも大切だが……その、柔らかくて、動きやすく、首元が痛くならないものを」
ヒルデの必死とも言える注文に、店主は「お任せあれ」と笑い、いくつかの服を提案してくれた。
店主の助言を全面的に受け入れ、ヒルデが最終的に選んだのは、上質な薄手のウールで作られた深紺色の長袖シャツと、柔らかい革で仕立てられた膝丈のズボン、そしてしなやかな膝下までのブーツだった。
試着室から出てきたエレボスは、自分の身体をまじまじと見下ろした。
「……どうだ?」
恐る恐る尋ねるヒルデに、エレボスは腕を伸ばしたり、屈伸したりしてみせた。
生地は肌に吸い付くように優しく、関節の動きを一切妨げない。首元も柔らかい襟が添えられているだけで、痛みなど微塵もなかった。
「……フン。まあ、前の甲冑もどきに比べれば……万倍マシだな」
そっぽを向いて小さく呟くエレボスだったが、鏡に映る自分の姿をチラチラと確かめる瞳には、隠しきれない満足感が浮かんでいた。
「そうか! よかった……!」
心底安心したように破顔するヒルデ。店主に多めの代金を支払うと、二人は晴れやかな心地で店を後にした。
「次は食事だな。……この街の名物を試してみよう」
ヒルデがエレボスを案内したのは、運河沿いにテラス席を構える気品あるカフェだった。
木漏れ日が差し込むテーブル席につき、ヒルデが注文したのは、店主イチオシの『特製果実パフェ』だ。
やがて運ばれてきたグラスを見て、エレボスのオッドアイが大きく見開かれた。
透明なグラスの中に重なる、真っ白な冷たいクリーム、色鮮やかな数種類のベリー、黄金色の果汁シロップ、独立して立ち上る冷気を纏う透き通った氷菓。見た目からして、これまでの無機質な「干し肉」や「煮込みスープ」とは一線を画している。
「……な、なんだこれは。食べ物なのか? 宝石のようだが……」
「パフェという甘味らしい。さあ、食べてみろ」
スプーンを渡されたエレボスは、毒味でもするかのように慎重な手つきでスプーンを差し込み、冷たいクリームと苺の果肉を掬い取った。そして、おそるおそる小さな口へと運ぶ。
「……っ!?」
口に入れた瞬間、エレボスの身体が跳ねた。
舌の上に広がる、濃厚で優しい甘み。直後に追いかけてくる、フレッシュな苺のキュンとした甘酸っぱさ。そして、口の中でひんやりと溶けていく冷涼感。
世界の毒(咎)しか知らなかったかつての大悪魔にとって、それは脳を直接揺さぶられるような、衝撃的な「初体験」だった。
「美味いか?」
ヒルデの問いかけに、エレボスは答えられなかった。
夢中になってスプーンを動かし、次から次へと甘美な結晶を口の中へ放り込んでいく。
「美味……っ、あま……冷た……っ!?」
勢いよく食べ進めた直後、エレボスは突如としてスプーンを落とし、両手で頭を抱え込んだ。
「うぐっ……!??! あ、頭が...! 頭の芯が裂ける……っ! 人間、これは何の罠だ……!? どんな呪詛を仕込んだ……!?」
「な、なんだ!? どうしたエレボス! 毒か!?」
急に苦しみ出したエレボスに、ヒルデは慌てて大剣の柄に手をかけ、周囲を鋭く警戒した。
しかし、エレボスが押さえているのは額であり、顔を真っ赤にして必死にキーンという激痛に耐えている姿は、急いで冷たいものを口に運んだ子供そのものだった。
数秒後、頭の痛みが引いていくと、エレボスはハァハァと息を吐きながら、涙目でヒルデを睨みつけた。
「……冷気を一気に身体へ流し込んだせいで、頭蓋が過剰に反応しただけだ、愚か者...! 騒ぐな、恥ずかしい……」
「な、なんだ……紛らわしい……」
ヒルデは脱力して胸を撫で下ろした。
だが、涙目になりながらも、エレボスは大事そうにスプーンを握り直し、残ったパフェを少しずつ、慈しむように味わい始めた。
「……でも、美味いのだな。甘くて、冷たくて……」
「そうか。……なら、また食べに来よう」
不器用な手つきで口元についたクリームを拭いてやるヒルデ。エレボスはうっとうしそうに首をすくめたが、その口元はどこまでも緩んでいた。
人間として生きることの、ささやかで温かな喜び。
服の心地よさ、甘味の美味しさ、そして隣で笑う人間の温もり。
かつて無機質な理として世界を滅ぼそうとした悪魔が、確かに「人間」としての彩りを心に宿し始めていた。
——だが。
賑わうカフェのテラス席から少し離れた、運河の橋の上。
白を基調とした厳かな法衣に身を包んだ一人の女が、冷たい視線で二人を見下ろしていた。
透き通るような金髪と、一切の感情を削ぎ落とした氷のような瞳。
聖導機構の異端審問官——クラリス。
「……見つけたわ、不浄の残骸」
クラリスは胸元の聖印を静かに握り締め、蔑むような声で呟いた。
「あのお方(ヘメラ様)が遺された至高の神器が……人間に毒され、あんな無価値な感情という雑味で汚されるなど、あってはならない」
彼女の瞳に宿るのは、信仰を超えた歪んだ狂信。
「……すぐに浄化してあげるわ。ヘメラ様」
陽だまりの街に、冷酷な光の影が、静かに忍び寄っていた。
(第9話へ続く)




