第7話:重なる傷跡と、陽だまりの約束
第7話:重なる傷跡と、陽だまりの約束
夕刻。荒野の街道を抜け切った二人の視界に、夕日に染まる活気にあふれた街並みが飛び込んできた。
『開拓都市・ヴィルヘルム』。
旧世界の崩壊から立ち上がり、世界各地から集まった職人や商人、傭兵たちが身を寄せ合って築き上げた、生命力に満ちた自由都市だ。
「ついたぞ、エレボス。ここが開拓都市だ」
背中でぐったりと息をついていたエレボスが、重い瞼をゆっくりと開けた。
連なる木造建築、あちこちから立ち上る生活の煙、そして市場から聞こえる威勢の良い声。聖導機構の厳格で冷たい都市とはまるで異なる、泥臭くも温かな熱気が二人の頬を撫でる。
「……やかましい街だな」
「ふっ、だがここなら機構の手も容易には伸びまい。顔を隠せば、十分に潜伏できる」
ヒルデはエレボスのフードを深く被り直させると、背中から降ろし、そっと地につかせた。
前話の戦闘で魔力を絞り切ったエレボスの足取りは、まだ覚束ない。ヒルデは自分の傷だらけの大きな手を差し出した。
「歩けるか?」
エレボスは一瞬、差し出されたゴツゴツとした手を見つめた。
これまでの彼なら「触るな」と突っぱねていただろう。だが今の彼は、小さな眉を少し寄せながらも、そっとその手に自分の小さな指を重ねた。
指先から伝わる、驚くほどの熱と力強さ。
エレボスは無言のまま、ぎゅっとその手を握り返した。ヒルデの口元が、わずかに緩む。
二人は雑踏を抜け、露店が立ち並ぶ大通りへと足を踏み入れた。
あちこちから漂う香ばしい肉の焼ける匂いや、焼きたてのパンの香り。エレボスの腹が、かわいらしく「くぅ」と鳴った。
「な、なんだ今の音は...! 私の体内で何か不具合が……!?」
真っ赤になってお腹を押さえるエレボスに、ヒルデは思わず破顔した。
「不具合ではない。腹が減っている証拠だ。……よし、美味いものでも食おう」
二人が入ったのは、港近くにある賑やかな大衆酒場だった。
木製の重厚なテーブルに並べられたのは、香辛料を効かせてじっくり煮込んだ大きな肉料理と、焼き立ての丸パン、そして甘みのある果実水。
「熱いからな、ちゃんとふーふーして冷ましてから食えよ」
ヒルデが念を押すと、エレボスは「子供扱いするな」とフンと鼻を鳴らした。
だが、前回の失敗を覚えている彼は、恐る恐るスプーンで肉を掬い、小さな口を寄せて「……ふー、ふー」と懸命に息を吹きかけた。
その一生懸命な姿を、ヒルデは愛おしそうに見つめる。
「……美味い」
熱を冷ました肉を口に含んだ瞬間、エレボスのオッドアイが輝いた。
口の中でほどける肉の柔らかさ、じわじわと広がる肉汁の旨味。毒や咎しか食せなかったかつての大悪魔が、人間として「味覚」の喜びを全身で噛みしめている。
「そうか。美味いか」
「うむ。……悪くない。お前も食え、人間」
「ああ」
不器用な手つきで食べ物を分け合い、笑い合う。
服選びに失敗し、スープに悶絶し、泥にまみれて戦った。何ひとつ完璧にはいかなかったけれど、二人で重ねてきた失敗の数だけ、こうして隣で笑い合える時間が愛おしく思えた。
食事を終え、宿屋の静かな一室へと戻った夜。
月光が差し込む部屋で、エレボスは水桶で濡らした手ぬぐいを手に取っていた。
ベッドの端に腰掛け、上着を脱いだヒルデの背中には、前話の戦闘で切り裂かれた痛々しい傷跡が残っていた。血は止まっているものの、痛むはずだ。
「……動くな」
「エレボス? お前、何を……」
エレボスは差し出された手ぬぐいを、ヒルデの肩の傷口へそっと押し当てた。
冷たい水気が傷口を撫で、ヒルデが小さく息を呑む。
「……すまん。手元が狂った」
「違う、痛くはない。……ただ、お前にこんなことをさせるとはな」
ヒルデは苦笑した。
剣しか握ってこなかった自分が、今や小さな相棒に手当てをされている。
「お前はバカだ」
手ぬぐいを動かしながら、エレボスがぽつりと呟いた。
「服の選び方も知らん。食べさせ方も知らん。その癖、私を守るためなら平気で自分を傷つける。……私が影を使わねば、もっと深く切られていたぞ」
「……私がお前を守ると決めたのだから、当然だ」
「当然ではない!」
エレボスの強い声に、ヒルデは振り返りそうになったが、「動くなと言ったろう」と小さな手で肩を叩かれた。
「……私は、お前の荷物にはなりたくない。守られるだけの残骸など、私ではないのだ」
エレボスは手ぬぐいを置き、傷跡のすぐ傍、ヒルデの頑丈な皮膚に自分の小さな額をぽんと預けた。
小さく、けれど暖かな鼓動が、ヒルデの背中に伝わってくる。
「だから……強くなれ、人間。私を庇って死ぬような真似は許さん。お前が完璧な保護者になれぬなら、私がさっさと大きくなって、お前を助けてやる」
それは、生意気で、強がりで、けれどこれ以上ないほど素直な -幼い相棒からの「誓い」だった。
ヒルデはゆっくりと背中を向け、目の前にいる小さな少年の頭に手を置いた。
今度は力を込めすぎず、優しく、その髪を撫で上げる。
「ああ、約束だ。私は死なん。お前が大きくなって、この世界を全部見終わるまで……私がずっと側にいる」
「……フン。当たり前だ」
エレボスは恥ずかしそうに顔を背けたが、その口元は満足そうに弛んでいた。
月明かりの下、二人は手を取り合い、静かに息を整える。
かつて世界の終わりで交わした殺伐とした約束は今、陽だまりのような温かな絆へと形を変えていた。
壊れた世界で芽吹いた小さな命と、不器用な女騎士の巡礼。
刺客の脅威はなおも去ってはいない。けれど、どんな苦難が待ち受けていようとも、もう二人が迷うことはない。
互いの手を強く握り締めながら、二人は穏やかな眠りの中へと落ちていった。
(第2章・完 / 第3章へ続く)




