第6話:ぬかるみの奇襲と、揺れる影
第6話:ぬかるみの奇襲と、揺れる影
嵐が過ぎ去った翌朝、世界は洗われたように透き通っていた。
しかし、風車小屋を一歩出た二人を待ち受けていたのは、一面の泥濘だった。昨夜の激しい土砂降りが荒野の街道を削り取り、足を踏み出すたびに粘土質の泥が靴底を重く引きずり込む。
「……くっ」
案の定、幼いエレボスの足取りは数歩で止まった。
小さなブーツは泥に深く沈み込み、歩くというよりは泥の海を足掻いているに近い。息を荒らげ、額にじんわりと汗を浮かべるエレボスの横顔には、またしても悔しげな色が滲み始めていた。
「乗れ、エレボス」
ヒルデは迷わずエレボスの前に背中を向け、低く膝を折った。
「断る。歩ける」
「強がるな。この泥道ではお前の歩幅では刻刻と体力を削られるだけだ。開拓都市まではまだ距離がある。……それに、私は昨日の夜言ったはずだ。『歩けないなら抱えて歩く』とな」
「……っ」
昨夜の風車小屋でのやり取りを思い出させられ、エレボスは苦虫を噛み潰したような顔をした。
逃げ場を失った少年は、小さくチッと舌を打つと、諦めたようにヒルデの頑丈な背中へと飛びついた。
「……重くても文句を言うなよ」
「ふっ、羽毛のように軽い」
ヒルデはエレボスの細い太腿にしっかりとしがみつかせ、その身体を背負い直すと、力強い足取りで泥道を押し進み始めた。
背中越しに伝わる、小さくも温かな体温と規則正しい鼓動。
かつて世界を滅ぼしかけた大悪魔を背負っているという現実が、どこか現実味を欠いた可笑しさを帯びて胸をくすぐる。背中のエレボスは気恥ずかしいのか、ヒルデの首元に顔をうずめたまま一言もしゃべろうとしない。
だが、その穏やかな時間は唐突に切り裂かれた。
-シュッ!
空気を鋭く切り裂く断続的な高音。
長年の戦場勘で死線をくぐり抜けてきたヒルデの直感が跳ね上がり、彼女は反射的に地を蹴って側方へ跳躍した。
直後、二人が先刻までいた泥地に、数本の銀色の太針が深く突き刺さる。
「……ちっ、逃げ足の速い鼠め」
泥の跳ね上がる雑木林の陰から、ぬらりと姿を現したのは十数人の武装集団だった。
白を基調とした揃いの法衣の上に、鈍く光る胸甲を纏った男たち。その胸元には、一筋の光を象った聖導機構の紋章が刻まれている。
「機構の刺客か……!」
ヒルデはエレボスを背中から降ろし、背後の大樹の根元へと押しやった。
「下がっていろ、エレボス! 私の背中から離れるな!」
「人間、気をつけろ! あれはただの巡回兵ではない……機構の討伐部隊だ!」
木の陰からオッドアイを鋭く光らせるエレボスが警戒の声を上げる。
聖導機構の中でも、異端や魔物の排除を専門とする過激な執行人たち。その先頭に立つ男が、細身の単刃剣を抜き放ちながら冷酷な嘲笑を浮かべた。
「女剣士ヒルデ。そして……そこに隠れているのは、霊峰から持ち出された『大悪魔の残りかす』か。見苦しく人間に守られる姿に成り下がるとはな」
「黙れ。こいつに指一本触れさせはしない」
ヒルデは背中の巨大な大剣を抜き放った。
泥を蹴り上げ、一足飛びで距離を詰める。豪快な一閃が先頭の男の首筋を狙って走り抜ける -が、相手は泥に足を捉われることなく、まるで水の上をすべるような奇妙な歩法で軽々と大剣の軌道から外れた。
(……くっ、この泥濘で足場が滑る……!)
大剣はその重量ゆえに、踏み込みの足場が命となる。
昨夜の雨でぬかるんだ泥地は、ヒルデの破壊的な踏み込みをことごとく殺し、逆に軽量な装備で身を固めた討伐部隊に圧倒的な優位を与えていた。
「ハハッ! 愚かだな、自慢の剛剣も足元が死んでいてはただの鉄くずだ!」
「く……っ!」
囲み線を作られ、左右から繰り出される刺突。ヒルデは大剣の腹でかろうじて刃を受け止めるが、足元をとられて姿勢を崩し、肩口の革鎧を浅く切り裂かれた。赤黒い血が泥の上に散る。
「ヒルデ!」
木の根元でその光景を見ていたエレボスの胸に、激しい焦燥が吹き荒れた。
自分のせいだ。
自分がこんな小さな、不自由な身体でなければ。自分の魔力が少しでも戻っていれば、あんな雑魚ども一瞬で灰に変えてやれるのに。
ヒルデが自分を守るために庇い、傷ついていく。昨夜「何度でも拾い上げてやる」と言ってくれた女騎士が、泥に足を取られて追い詰められている。
(嫌だ...! 守られるだけなど……もう嫌だ!)
エレボスは胸の奥の不完全な魔核を必死に叩き起こした。
全身の血が沸騰するような激痛。人間の幼体ゆえの脆弱な痛覚が脳を焼き切ろうとする。だが、彼はその激痛を力ずくでねじ伏せ、泥の上に小さな両手を叩きつけた。
「静まれ……私の影よ……ッ!」
昨夜、風車小屋で蠢くだけだった足元の影が、エレボスの叫びに応えるように蠢いた。
広大な影の海を作り出すことはできない。だが――泥の中に含まれる「水分と闇」を触媒にして、影は黒い小さな棘となって泥の表面を走り抜けた。
「な、なんだ!?」
ヒルデの足元へ踏み込もうとしていた二人の兵士が、唐突に悲鳴を上げた。
泥の中から突如として突き出た黒い影の棘が、彼らの足首を正確に貫き、泥底へとしがみついて動きを完全に封じたのだ。
ほんの数秒。影の固着力はごく僅かなものだ。
しかし、百戦錬磨の女騎士にとって、敵が棒立ちになったその数秒は「死」を与えるのに十分すぎる時間だった。
「でかした、エレボス……ッ!」
ヒルデの目が疾風のごとく光る。
隙を晒した二人を一閃で薙ぎ払い、そのまま軸足を泥の底の岩盤へと深く叩き込む。足場を固めたヒルデの大剣は、もはや誰にも止められない嵐となった。
「なっ……バカな! 影の魔法だと!?」
「次はお前だ!」
圧倒的な風圧とともに繰り出された胴斬りが、残る刺客たちの武器を粉砕し、彼らを泥の中へと叩き伏せた。
わずか数十秒の反撃。仕留め損ねた指揮官の男は、恐怖に顔を歪ませながら血を吐き、捨て台詞を残して雑木林の奥へと逃げ去っていった。
「ヒッ……ひいっ! 撤退だ! 撤退しろ!」
静寂が、再び雨上がりの森に戻ってくる。
荒い息を吐きながら大剣を鞘に納めたヒルデは、すぐに振り返って駆け寄った。
「エレボス! 無事か!?」
「ハァ……ハァ……っ」
そこには、泥だらけになりながら両手を膝につき、肩を大きく上下させているエレボスの姿があった。
限界を超えて魔力を絞り出した反動で、その小さな顔は蒼白になり、指先は小刻みに震えている。だが、そのオッドアイには、どこか誇らしげな、強い光が宿っていた。
「……見たか、人間。……私だって、足止めくらいはできる……」
「ああ……見事だった。お前の影がなければ、苦戦していた」
ヒルデは膝をつき、目の高さでエレボスの目を見つめた。
エレボスは疲れ切った顔でフンと鼻を鳴らすと、力尽きたように前へ倒れ込んできた。ヒルデは慌ててその小さな身体をしっかりと抱きとめる。
「不格好な手助けだ……。今の私には、この程度しかできん……」
ヒルデの胸の中で、ぐったりと重みを預けながらエレボスがくぐもった声で呟く。
「不格好なものか。お前は今日、私の背中を守ってくれたんだ」
ヒルデは優しく、だが力強くエレボスの背中を撫でた。
戦うことしかできない女騎士と、力を奪われた元悪魔。
庇い、庇われるだけの関係から、互いの足りない部分を補い合う「相棒」へ。
泥にまみれた二人の距離は、この苛烈な戦いを通じて確実に一歩、縮まっていた。
「……さあ、行こう。開拓都市はもうすぐだ」
ヒルデは消耗したエレボスを再び優しく背負い直すと、晴れ渡る空の下、泥の残る街道を力強く歩み始めた。
(第7話へ続く)




