第5話:雨宿りの夜と、届かない言葉
第5話:雨宿りの夜と、届かない言葉
宿場町を出てから三日目。
街道を北上し、懐かしい仲間たちが待つ『開拓都市』を目指す道中、天候は俄かに暗転した。
さっきまで覗いていた春の青空は不吉な鈍色に塗り潰され、冷たい湿り気を含んだ風が荒野を駆け抜ける。そして雷鳴がひとつ轟いたかと思うと、まるで天の底が抜けたような激しい土砂降りの雨が降り注ぎ始めた。
「……くっ、一気に降ってきたな!」
「ん……ッ!」
ヒルデは自らの革外套を大きく広げ、エレボスの小さな身体をすっぽりと抱え込むようにして、雨をしのげる場所を探した。
濡れた泥に足をとられながら街道から少し外れた丘へ駆け上がると、そこには打ち捨てられた古い風車小屋がぽつりと佇んでいた。羽根はすでに壊れ落ちて久しいが、石造りの壁と木製の屋根はまだ嵐に耐えうる頑丈さを保っている。
「入れ、エレボス!」
腐ちかけた扉を押し開けると、二人は滑り込むように小屋の中へと逃げ込んだ。
ドッと激しい雨粒が屋根を叩く重い音が、室内に響き渡る。
ヒルデは大剣を降ろし、革外套を脱いでバサバサと水気を払った。
「……酷い雨になったな。風邪でも引いたら大変だ、火を起こそう」
ヒルデは壁際に集められていた干し草や木屑をかき集め、懐から火打ち石を取り出した。
バチン、バチンと火花を飛ばし、手慣れた動作で小さな焚き火を作る。オレンジ色の温かな火の粉が爆ぜ、冷え切っていた暗い小屋の中を仄暗く照らし出した。
だが、その火の傍らで、エレボスは膝を抱えてじっと自分の小さな両手を見つめていた。
「……くそッ」
絞り出すような、掠れた呟き。
エレボスは細く繊細な指先を握り締め、爪が肉に食い込むほど強く拳を作っていた。
額の小さな角に手を当て、必死に胸の奥から魔力を引き出そうと試みる。かつてなら一振りの影で天を割ることすらできた悪魔の威容。だが今、彼の足元から這い出た黒い影は、虫が這うような力ない蠢きを見せたかと思うと、火の光に炙られてあっけなく霧散してしまった。
「……使えん。何ひとつ、思い通りに動かん……!」
幼い身体ゆえの息切れ。ほんの数刻歩いただけで重くなる足腰。そして、かつての理を凌駕した力など微塵も残っていない、あまりにも脆く不完全な肉体。
さらに、人間の幼体となった物理的な影響が、彼のプライドを酷く傷つけていた。感情の起伏が抑えきれず、悔しさと焦燥感で胸が押し潰されそうになり、目頭が熱くなってくる。
かつて世界の毒を一人で背負っていた大悪魔が、今は雨の音に怯え、身体の不自由さに苛立って涙をこぼしそうになっているのだ。
「こんな……こんな子供の身体で、私に何ができる! 聖導機構が追いかけてきているというのに、私はただのお前の足手まといではないか……!」
ガツン、とエレボスは小さな拳で冷たい石壁を殴りつけた。
子供の皮膚は柔らかく、それだけで白く滑らかな拳の節目が赤く滲む。
「やめろ、エレボス!」
ヒルデは慌ててその小さな手を掴み、引き寄せた。
「放せ! 触るな人間...ッ ! お前だって本当は呆れているのだろう!? 剣の一本も振れず、スープ一杯で舌を火傷し、服の着替えすら満足にできんような化け物の成り損ないに……!」
「そんなことは思っていない!」
ヒルデの声が、激しい雨音を突き破って強く響いた。
だが、言い放った瞬間に、ヒルデはハッと息を呑んだ。
エレボスがびくりと肩を跳ね上げ、傷ついた鳥のようにオッドアイを大きく見開いてこちらを見つめていたからだ。その瞳には、悔しさと、それ以上に「見捨てられるのではないか」という怯えが色濃く揺れていた。
(……違う。私は、こんな叱咤をしたいわけではないのに)
戦場で部下を咎めるような、厳しい騎士としての声が出てしまった。
自分はただ、この子が傷つくのを止めたいだけなのに。言葉選びを誤り、距離感を踏み外し、またしてもこの小さな相棒を殻に閉じこもらせてしまった。
自分のあまりの不器用さと、言葉の届かなさに、ヒルデの胸に鋭い痛みが走る。
(私は……大人として、保護者として、何ひとつまともにできていない)
戦場での戦い方ならいくらでも教えられる。大剣の振り方も、敵の裁ち方も知っている。
だが、傷つき、焦り、涙を堪えている幼い命にどんな言葉をかければいいのか、どうやってその背中を温めてやればいいのか、今のヒルデには何ひとつ分からなかった。
静かな沈黙が、薪の爆ぜる音とともに二人を包み込む。
エレボスはプイと横を向き、膝に顔をうずめて小さく丸まった。
ヒルデは伸ばしかけた手を宙で彷徨わせた後、ゆっくりとそれを降ろし、静かにエレボスの隣へ腰を下ろした。
(……考えろ、ヒルデ。剣を振るうこと以外に、今の私にできることを)
完璧な大人になろうとして失敗した。なら、格好をつけるのはやめだ。
ヒルデは気まずい空気の中、懐から昨日の街で買っておいた小さな包みを取り出した。
冷えて固くはなっているが、ほんのり甘い香りが漂う焼き芋と、干し肉だ。
「……エレボス」
「……話しかけるな」
膝に顔をうずめたまま、くぐもった声が返ってくる。
ヒルデは包みから温かい焼き芋をひとつ取り出すと、丁寧に皮を剥き、半分に割った。黄色いホクホクとした実から、甘い湯気が立ち上る。
「……芋だ。甘いやつだ」
「……いらん」
「街の店主が言っていた。疲れたときや、心が苛立ったときは、甘いものを食うのが一番だと」
ヒルデはそう言うと、半分に割った焼き芋を自分の口へ放り込み、もぐもぐと咀嚼した。
「……うむ。甘いな。少し喉が渇くが、悪くない」
そうして、もう半分の大きな方を、エレボスの膝の隙間から覗く小さな手のひらへ、そっと押し付けた。
「……っ」
手に伝わる温もりと、鼻腔をくすぐる優しい甘い香り。
エレボスは顔を上げないまま、チラリと横目で手のひらの焼き芋を見つめた。
「……私は、完璧なお前を求めてここに来たわけじゃない」
ヒルデは焚き火の炎を見つめながら、ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
「私も不器用だ。服のサイズも間違えるし、スープの熱さも確かめられん。お前を励まそうとして、いらん怒声まで浴びせてしまった。……戦うことしか知らん私は、誰かを育むことにかけては落ちこぼれ以下だ」
ヒルデは己の傷痕だらけの大きな手を見つめ、苦笑した。
「だがな、エレボス。私はお前に強くなってほしいわけでも、かつての大悪魔に戻ってほしいわけでもない。お前が今、小さくて、脆くて、スープの熱さに泣きそうになる……ただの『命』としてここにいることが、何より嬉しいんだ」
「……」
「焦るな。お前は今、生き直している最中なんだからな。歩くのが遅ければ私が抱えて歩く。魔力が使えんなら私が剣で薙ぎ払う。……お前が一人で立てるようになるまで、何度でも転べばいい。私が何度でも拾い上げてやる」
それは、保護者としての完璧な正解の言葉ではなかったかもしれない。
けれど、失敗を重ね、己の不器用さを認めた女騎士が、泥臭く差し出した心からの本音だった。
エレボスはゆっくりと顔を上げた。
うっすらと赤くなった目のフチに、消え残る涙の痕。彼は手の中の焼き芋をじっと見つめると、小さく口を開け、端っこをハミッと噛みちぎった。
口の中に広がる、濃厚で優しい甘さ。
「……あまい」
「そうだろう。甘味というやつだ」
「……喉が詰まる」
「ふふ、水を飲め」
ヒルデが差し出した革袋の水を受け取り、エレボスはごくごくとのどを鳴らして水を飲んだ。
焼き芋の甘さと温かさが腹の底へ落ちていくにつれ、ガチガチに固まっていた彼の胸の糸が、少しずつほぐれていくのが分かった。
エレボスは半分ほど食べた焼き芋を握りしめたまま、静かにヒルデの顔を見上げた。
「……お前は、本当にバカで不器用だな」
「うぐ……返す言葉もない」
「服は固いし、スープは熱いし、声はでかい。……私の知る騎士の中で、間違いなく一番世話が焼ける人間だ」
ボロカスな言いようだったが、その声から刺々しさは消えていた。
エレボスは小さく息を吐くと、握りしめていた衣服の裾を離し、ぽつりと呟いた。
「……影の力が、少しだけ手元に戻りつつある。……だが、まだ足りん。……悔しいのは、本当だ」
「ああ。悔しがれ。それもまた、お前が生きている証拠だ」
ヒルデは笑うと、今度は躊躇うことなく、傷だらけの手をエレボスの頭の上にそっと乗せた。
今度は力を込めすぎないよう、壊れ物を扱うように慎重に、優しく撫でる。
エレボスは嫌がる風もなく、フンと鼻を鳴らして、その温かな手のひらに小さく頭を預けた。
外の土砂降りは、なおも激しく小屋の屋根を叩いている。
けれど、小さな焚き火の火影で寄り添う二人の間には、雨音を忘れるほどの静かで確かな温もりが満ちていた。
(第6話へ続く)




